第一話
「がっくん、遅いなぁ」
栄太は半袖シャツの襟をつまんで風を送りながら、シンプルな五階建て団地の85号棟を見上げていた。
ウエストポーチの下はすでにぐっしょりだ。初秋の夕方になっても、酷暑はまだまだ猛威を振るっている。
『ランドセル置いたらうちの前に来い』
友人である岳の言いつけ通り、彼の家の前まですっ飛んできたというのに、本人はマイペースなのだから困る。
さらに三分が経ったところで、ようやく階段を二段飛ばしで駆け下りる音が聞こえてきた。
「よー、待たせたな、えいちゃん」
手を挙げた岳は、左胸に『51』と刻まれた真っ赤なシャツを着ていた。彼のお気に入りの一着だ。背中にはUFOの絵がプリントされている。
「遅いよがっくん。急げって言ったの、そっちなのに」
「なんや俺が悪いみたいに。えいちゃんが来るの早過ぎなんやって。俺の体内時計に合わせてくれんと」
「そんなぁ」
「さ、行くで!」
「あ、待ってよ!」
さっさと走っていくUFOを、栄太は慌てて追いかけた。
二人が出会ったのは今年の四月。岳は転校生として、栄太と同じ三年一組に仲間入りした。
当初の栄太が岳に抱いた印象は、パワフルな人だった。声は大きく、運動も得意で、おまけに気が強い。上級生や先生が相手でも物怖じしないほどだ。
そのせいで煙たがられても気に留めない豪胆さも持つ。友達が少ない共通点を除けば、一から十まで自分とは正反対の存在だった。
そんな二人を結びつけたのが宇宙人だった。栄太が図書室で、宇宙人が主人公の児童本を読んでいたところ、向こうから話しかけてきた。
おずおずと会話を重ねるうち、どうやら彼は宇宙人に興味があるらしく、同志を探していたのだと分かった。
実のところ、栄太は特別宇宙人が好きなわけではないのだが、否定するのもあとが怖かった。なので適当に話を合わせていたら、いつしか気に入られてしまった。
以来、友人というよりは兄貴分と弟分のような関係が続いている。
「ねえ、がっくん。やっぱり行くのやめない? 入っちゃいけないところなんでしょ」
ひとけのない公園を横切りながら、栄太は夕日に向かって進む赤シャツに声をかけた。
「いまさらなに言っとんねん。もうじきやで」
岳は公園の先にそびえる、くすんだ色の建物を指さした。規則正しく並ぶ建物の壁面には、それぞれ『33』『38』『43』……と番号が振られている。
ここが今日の目的地、建て替え工事予定の団地群だ。
この辺りの団地が建てられたのは、高度経済成長期の真っ只中。築年数は五十年以上だ。当然劣化は著しく、もとは白かった壁面が灰色になるまで薄汚れ、ひびもあちこちに生じてしまっている。
そうした危険性と寂れた町の活性化のため、団地を取り壊して大型スーパーや新たな住宅を建設する計画が予定されていた。
だが住民の立ちのきまでは順調だったものの、工事自体が延期になった。以来、1号棟から62号棟までの区域は、ゴーストタウン同然の状態で半年以上放置されている。
そんな廃墟で、岳は謎の明かりを目にしたらしい。昨日の夜にそばを通った時、ある一棟の窓に怪しげな光が瞬いたのだという。今日はその正体を探るべく、こうして探検に出かけたのだった。
しかし乗り気でない栄太は再びごね出す。
「ねえ、やっぱり今日はさ、僕の家でゲームして遊ばない?」
「ゲームは昨日したばっかりやろ。子どもは外で遊ぶもんや」
「だけど、誘拐事件が起きてるからあまり出歩くなって、先生も帰りのホームルームで言ってたし」
「そないなこと言っとったか?」
「ねりけし作りに夢中で聞いてなかったんでしょ」
二日前のことだ。川を越えた隣県で、女子小学生の誘拐事件が起きた。周辺では一ヶ月前にも白いワンピースを着た女の子が行方不明になっている。
その情報を改めて岳に伝えたのだが、引き返すどころか一笑に付された。
「事件があったのは、こっから車で三十分もかかるとこやん。こっちには関係ないない。えいちゃんはほんま心配性やなぁ。この前も口裂け女にびびっとったもんな」
「だ、だって、がっくんが見たって」
「あないなもん嘘に決まっとるやん。何十年前の都市伝説やねん。口裂け女も子ども脅かす暇あるなら外科医に慰謝料でも請求せえ」
「お化けに慰謝料って……。がっくんって結構現実的だよね。宇宙人は信じてるのに」
「アホ。宇宙人を都市伝説なんぞと一緒にすな。たこ焼きとお好み焼きくらいちゃうやろ」
どちらもB級粉もの料理で大して変わらないと思うのだが、口をつぐんでおく。
「でもよかった、口裂け女が作り話で。お化けが本当にいたら怖いもんね」
「いやぁ、お化けはおるかもしれへんなぁ」
振り向いた岳が、にやりと口の端を上げた。この顔をする時、栄太にとって大抵よくないことが起こる。
「転校前に住んどった町に、幽霊団地の怪談があってな」
「幽霊、団地」
頬が引きつる。自分も団地住まいなだけに、この手の怪談は苦手としていた。
岳が声をひそめる。
「せや。正確には『51号棟の幽霊団地』なんて言われとった」
「51号棟の団地に、幽霊が出るの?」
「いや、そうやない。なんでもそいつは、標的にした人間の住む団地に取り憑く怪異らしいんや」
「え、団地に?」
「けったいやろ。ほんで取り憑かれた団地の番号はな、なんと51になるんや。1号棟でも100号棟でも、みーんな51や。不気味やろ」
「確かに不気味だけど、数字が変わるだけなら」
「なんも怖くない、と思うやん?」
彼の笑みが一層深まった。
「その51号棟に人間が入ってしまうとな、永遠に出てこれなくなるんや」
「そんな……」
反応を楽しむように語り手は続ける。
「五年前、俺のおった町で女の子の神隠し事件があった。その子は46号棟に住んどってな、事件の日は夕焼けチャイムのあとに家に帰った。友だちもそれを見送っとる。せやけど友だちは、『女の子が入ったのは51号棟やった』と証言したらしい」
「そ、それはきっと、51号棟に用事があったんだよ。でも事件に巻き込まれて、行方不明に……」
「問題はそこやない」
と、急に真顔になった。
「その地域に建っとる団地はな、47号棟までなんや。51号棟なんて、最初から存在せえへん」
「えっ」
「なのに女の子が入っていったのは51号棟やった。その子は一体、どこに迷い込んでしもたんやろなぁ」
「…………」
じりりと西日に焼かれる肌の下で、ぞわりと寒気が突き抜けた。話をそらしておけばよかったと今さら後悔する。
ところが、岳は意外な言葉を口にした。
「せやけど俺はこの神隠し、幽霊の仕業やないと思っとるんや。犯人は別におる」
栄太は目を丸くする。だが現実思考の岳のことだ、犯人のめどがついているのかもしれない。すがる思いで問いかけてみた。
「じゃあ、誰がその子をさらったの?」
「宇宙人や」
「え?」
友人は呆れ顔で溜め息をつく。
「鈍いなぁ。宇宙人マニアとして、51の数字に引っかかるもんがあるやろ」
促されたのでしばし考えてみる。これまで付き合わされた宇宙人談義を思い返してみた。
「もしかして、エリア51のこと?」
「せや!」
ぱっと表情が華やいだ。
「アメリカ軍が宇宙人とコンタクトを取っとる謎めいた秘密基地、それがエリア51。ほんで幽霊団地の番号も51。この符号は偶然やないぞ。きっとその子は団地型のUFOに連れ去られたんやろなぁ。うらやましい限りや」
「えぇ……」
もはや異議を唱える気さえ起きない。半年一緒に過ごしても、彼のことはまるで理解できなかった。
噛み合わない会話を続けるうち、団地群の前に到達した。
「さ、行こか」
岳は通行人がいないことを確かめると、立ち入り禁止の看板を無視し、48号棟と53号棟の間を通る通路に足を踏み入れた。
「えいちゃんも、はよう」
躊躇なく前を行く岳。一方で栄太は渋っていた。罪悪感もそうだが、無人の団地という非日常に二の足を踏んでしまう。
「やっぱりやめようよ。こういうことするの、不良って言うんだよ」
「ほー。こないなことで不良になるんやったら、図工室で石膏壊したえいちゃんはテロリストやな」
「あれはがっくんがぞうきん投げたから!」
「ほうき振ったのはえいちゃんやん」
「僕はやりたくなかったのに、がっくんが強引に――」
ふと、視界の隅に白いものが映った。
――あれ、なんだろ。
目を凝らしているうち、白いものは可愛らしい音色を奏でた。
「あ、猫だ!」
48号棟のバルコニー側に広がる共用庭、その雑草の中から、雪のように白い子猫が顔をのぞかせていた。
好奇心が強いのか、子猫はそろそろと近づいてくる。
と思いきや、なかばで足を止めた。縄張りからは離れたくないようだ。
――撫でたい。
栄太はウエストポーチから棒状のスナック菓子を取り出した。彼は猫が好きだった。宇宙人よりもずっと。
「ほら、おやつだよ」
またたびの要領でスナック菓子を振ってみる。これが上手くいった。子猫が目の前まで寄ってくる。何度か鼻をひくつかせて、あとは一心にかじりついた。
「おおー、やるなあ」
いつの間にか岳が隣にいた。
「コンソメ味か。ええセンスしとるわ。コンソメが一番美味いもんな」
「へへ、まあね」
「ところで、えいちゃん」
「なに?」
「俺にもくれへん?」
「…………」
餌づけ対象が増えた。仕方なく一本を手渡し、二人と一匹でスナック菓子をほおばる。
すると突然、背後からうなり声が響いた。
子猫と同じ白毛で、しかし何倍もの体躯を誇る猫だ。親猫に違いない。
親猫は牙をむいて背中を丸める。戦闘態勢だ。我が子を襲う天敵だと二人は判断されたらしい。
栄太の腰が引けた。直後、雪合戦のごとく白い大玉が襲いかかってきた。
「せいっ!」
一瞬早く岳がスナック菓子を投げつけた。額にぶつけられた親猫は怯んで飛びすさる。
「えいちゃん、逃げるで!」
「う、うん!」
二人は直線の通路を脱兎のごとく駆け走った。
途中、栄太の耳に子猫の鳴き声が届いた。さきほどの甘えた声とは違い、夕暮れを切り裂くほどの甲高い響きだった。
それはどことなく、自分たちを引きとめようとする悲鳴にも聞こえた。