#5.罅と恐怖
金曜日、啓はいつものように学校へと向かおうとする。起きて、朝食を採り、身支度を整え、椎奈の家の前で、何をするでもなく、流れる雲を眺めていた。
近頃は入道雲も見かけない。夏の残滓も消え失せ、見えるのはいつも、それを細切れにしたような断片だけだ。それも、もうすぐ来る冬の寒空に溶けるわけだが
(なんか、今日は風が強いなあ。って言っても、上空のほうだけみたいだけど)
などと、益体も無いことを、薄い思考で考える。椎奈は、まだ来ない。
十数分後、彼はまだ空を見上げていた。
しかし、椎奈が少々遅れているようだ。几帳面な彼女らしからぬこと。
8:05を示す液晶を見て、彼女の家のインターホンを鳴らす。
ガチャンッ、という音とともに応答するのは───椎奈。
「すみません、寝坊しました。このままでは遅れてしまうので、先に登校しておいてください。」
椎奈は、いつものような落ち着いた声音ではなく、切羽詰まった早口で言う。
「分かった。それじゃあ、学校で。」
「はい、重ね重ねすみません。」
無念そうな返答。心から僕との登校を楽しみにしてくれているのが伝わってきて、不謹慎にも───というのは語弊があるが───少々、気分がいい。
それでは、登校しよう。
久々の、独りの通学路を。
◇ ◇ ◇
通学路。いつもと同じ道で、彼女だけがいない。この道を歩く人は自分一人ではないけれど、独りの足音しか聞こえないような錯覚に陥る。話し声は聞こえてくるけど、意識の内には入ってこない。此処に在るのは僕だけだ。
五感だけが、僕をこの世界に繋ぎ止める錨だ。楔だ。
(そっか。独りって、怖いんだったっけ)
───椎奈がいないから。
面白いことを思い付いても、話す相手が居ない。
彼女が居ない分、僕の足は、次第にその速さを増していく。
この、無言と不安定の支配する実感できない場所から、一刻も早く逃れたいのだ。
この、有言と安定で満ち足りた実感できる場所へ、一刻も早く辿り着きたいのだ。
───早歩きは、次第に駆け足に変わる。
人は誰しも、不安定を恐れ、安定を望む。不明に恐怖し、判明を渇望する。
『理解不能』は、この世で最も多くを恐怖させてきた概念だ。
理解できないから、恐怖する。
理解できないようにされたから、敵に見える。
理解できないことにされたから、相容れない。
理解したくないから、拒絶する。
相互理解不能だから、殺しあう。
きっと、愛と平和をもたらすものは、本質的に、勇気などではなく、ただの相互理解なのだろう。
現実感が無い。実感が無い。生きている感触が無い。生きている自覚が無い。
生きることとは、僕にとっては、虚空を見つめるようなことらしい。
そうして、この涼しい気候の時期に、白シャツをズブズブにするほどに走ったらしい僕は、気づけば校門の中にいた。
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