0〜1
その日、少年は滅多に見る事のない現場に立ち会った。
人が殺された。
真昼間の路地裏に幼い少年は友達と秘密基地を造ろうと町中から壊れたレンガや廃棄された空き缶などの廃資材を持ち込むことになっていた。
重い物軽い物とまちまちで見つけた為か軽い廃資材を重点的に集めた少年の前には誰かが横たわり、その誰かを抱きかかえるように両膝を折っている人影が在る。
「だれ? 」
少年は尋ねる。少年にとっては、誰かが襲われていることが問題なのではない。誰かがそこにいることが問題なのである。
秘密基地……。つまり、秘密裏に造られ関係者以外にはその存在自体が秘匿される領域でなければならない。
両膝を折っている影が少年の存在に気づくと動きがピタリと止まった。
急に立ち上がり出した時、もう一方の誰かの顔が明瞭になる。
少年の友達に似ている。
ゴロンと顔が少年の方に傾くと、 まるで作り物のように……骨だけの顔と赤く染みた皮膚の顔が歪に共存していた。
「ヒッ⁉︎ 」
その惨状を見て、初めて少年の顔に恐怖が宿る。
少年は咄嗟に声を上げる。幸いに、ここからなら表の道路までそれほど距離は無く、大声であれば届くだろう。
しかし、
「だっ‼︎ 」
だれか助けて……。少年の願いは音として発することすらままならずに潰えた。
†
深夜1時、不快気味な湿気を肌に感じながらも、街中の灯りはまだ消えていない。
季節外れの台風が近づいているせいか、雨の勢いは決して弱くはない。
つい先程まで中学時代の友人たちと同窓会に参加していた江橋才加は、一次会の居酒屋、二次会のカラオケ屋を出て1人帰宅することにした。
「江橋! ホントにタクシー乗らないのか? 」
元クラスメイトの仲石は、呼び止めたタクシーに他のメンツを乗せながら才加にも声を掛ける。
「いいよ、家そんなに遠くないし。それにもうタクシー入らないだろ」
「あぁ……そっか、じゃあまた今度なぁ」
仲石が最後にタクシーに乗るところを見守って、才加は軽く手を振る。
実を言うと、飲み場所から自宅までの距離はそこまで近いわけではない。しかし、財布の中身が心許ない。自分ではあまり飲まないようにしていても、結局は割り勘。オマケに悪ノリで値の張る注文をする奴がいるものだからカツカツだ。
「オレ、酒は飲まないんだけどなぁ……」
濡れた路面が街灯の光に照らされる。反対側の歩道では、車道の水たまりを跳ね飛ばされびしょ濡れになる女性とそれを笑う女性がいる。それなりに酔いが回っている様子だが別段珍しい光景ではないだろう。
「ま、酒の席なんてそんなもんだよなぁ……うぉっ、ブルッときた寒っ! 」
傘では凌ぎきれない風力。台風の影響による強風と土砂降りとはいかないまでも横に流れながら地面に落ちて音を立てる雨。
防水加工が施されているコートだけでは心許無かったかもしれないと後悔するが、そんなことはあとの祭り。未来予知でもできなきゃどうにもならない事をネチネチと気にする価値はない。
しばらく歩くと、遠目に才加の家が見える。そのいくらか手前にある脇道に紅いコートを着た女性がうずくまっていた。
この辺りは小学校の通学路でもあるため、人目につきやすい場所だ。夜中だからいいものを、真昼間にこんなところで黙ってうずくまっていられると関わりたくはないだろう。しかし、才加の眼には絶賛興味を唆られる対象として写っていた。どこか痛いのか、それとも酔っぱらってぼーっとしているのか、どちらにせよ江橋才加という男には放ってはおけない案件だ。
もしもしと話しかけると、女性はゆっくりと振り向いた。肩甲骨辺りまで束ねられた黒髪が風に乗るように流れる。
「――」
女性……いや、少女はゆっくりと見上げるように才加の顔を覗く。その瞳はとてもキレイだ。
「なんですか」
少女の唇。この寒さのせいか、薄く紫がかっていた。加えて、咥内が切れているのか白く歯並びのよさそうな少女の歯は血で滲んでいた。
「君、こんな時間に何しているの? 」まるで警察の職務質問の決まり文句だ。
「あの、わたし――」
「君、いくつ? いや、ナンパとかじゃなくて――家出とか? 」
少女は少し考え込むような素振りを見せてから「――はい」と答えた。
自分で予想しておきながら、困ったものだと才加は自分自身に呆れる。
少女は見た通り傘を持たずに雨に濡れている。こんな姿の女の子をそのままにしたらきっと罰が当たる。ちなみに根拠は無い。
「家の電話番号聞いていい? 」
家出中の身なら電話しづらいだろうから代わりに迎えを呼ぼうという江橋才加なりの心遣いからの言葉であったが、第三者がいたら怪しまれることこの上ないだろう。
「電話番号なんてない……家だって、もうない……」
本当にないのか、ただ言いたくないだけなのか。
どちらにせよ、手詰まりだ。これ以上彼女をこの寒空の下に放置させるわけにもいかない。
才加は、自分のコートを脱いで少女に手渡し、傘を頭上に展開した。
「……これは? 」
「寒いし、君のコートずぶ濡れじゃないか。もう遅いかもしれないが風邪をひくかもしれない。君さえ良ければ今晩は俺の家に泊まっていくといい」
才加がそう誘うと、少女は突然涙と笑みを浮かべながら何かに祈るように「ありがとうございます」と述べた。
家に着き次第、少女にはシャワーに入ってもらい、身につけていた衣類を洗濯機に放り込む。
今週末に洗濯物を一気に処理しようと考えて洗濯物が溜まっていたことをすっかり忘れていた。
ちなみに今週末とは数時間前までの日にちのことである。今日からまた彼には仕事が待っている。
「ここに着替え、置いておくから」
才加がバスルームのカゴに自分用のパジャマを入れると、少女は静かに「ありがとうございます」と呟いた。正直、その言葉だけで十二分に嬉々としていた。
「疲れたでしょ? 今日はもう寝なさい」
午前3時過ぎ、一時間ほどで洗い終わった衣類を物干し竿にハンガーで掛け終わるとようやく寝る準備が整った。
起床時刻はいつも午前6時。本来ロングスリーパーな才加にとって辛い朝になる事は火を見るよりも明らかな事だった。
「よし! アラームを5分置きに設定すれば起きられるはずだ……」
そうしているうちに、少女は静かに寝息を立てていた。才加は、キャンプ用の寝袋で、少女は才加のベッドで寝ることになった。
「ともかく、もう寝ないと流石にきついだろう。仕事場で寝るようなヘマはできない」
消灯して寝袋に入る。少女のことは心配だが、正直それ以上に仕事に遅刻しないか。才加としてはそれが最も優先度の高い心配事だった。
†
「あなたに会えたこと……とても感謝しています。だから、わたしの……皮になってね」
薄れゆく意識の中で聞こえた言葉か、はたまた夢の中で聴く幻聴か、おぼろげで曖昧な記憶の中にいる自分には、まだ確かめられないことだ。
色鮮やかな場所、虚無の空間、これらが交互に支配する世界に魅了されながら、オレはただ待ち続ける。
これが夢なら安堵する。
これが現実なら最悪だ。
こうしてオレは静かに融ける。最期に感じたのは、小さな小さな羨望と愛欲だった。
†
街の喧騒が耳に響く。頭の中で廻り続ける痛みは、二日酔いによるものでまちがいない。仲石洋治という男の寝覚は言うまでもなく最低なモノだった。
幾つも連なる建物群の中でも一際目立たない8階建ての雑居ビルが仕事先となるが、そこに辿り着くまでに浴びる日光は、清々しさと苛立ちを内包していた事だろう。
カランっと鳴る鈴の音と共に扉は開く。2階にある事務室に入ると、一つしかないソファーを分捕って睡眠をとっている男性が一人。その隣の椅子に座りながらテレビを視聴している少女が一人。毎日の風景としてはこんなものだろう。
「あら! 社長さん今出社したのね。遅刻とは珍しいねぇ。社長出勤かしら」
事務室の外から聞こえた声は、このビルの清掃員「掃除のおばちゃん」ことマチコさんのものだ。
「おはようございます。いやー、昨夜は同窓会がありましてね。ちょっと飲み過ぎましたわ、頭イテェもん」
「今日もあの子たちのこと、よろしくお願いしますね。あら、襟が曲がってますよ」
マチコさんが洋治の襟を正す。妙に手間取っている感があったことは否めないが、元々身だしなみに気を付けていない彼が悪いのだから寧ろ感謝すべきだろう。
社長専用の机には、仲石洋治という名前が書かれた名札が立ててある。
洋治は、元受刑者への仕事の斡旋や職業訓練所への案内などを業務に飯を食べている。
事務室にいる二人組は兄妹で元受刑者だ。マチコさんは、この二人の肉親だが犯罪歴はない。
「しゃちょー、向井さんってまだ帰ってこないの?」
先程までテレビに夢中だった少女は洋治が席に着くと踵を返すようにして問い掛けてきた。少女の名前は坂岸ほのか。見た目の良さを武器に何人もの「パパ」から過剰防衛を行使した上で野口樋口諭吉をくすねまくった女だ。
「昨日も言ったろ、向井さんが帰ってくるのは昼過ぎだ。まだ帰ってこねえよ」
「でもさぁ、向井さん帰ってくるの久々じゃん! なんかさ、こう、お帰り会みたいなの開きたいじゃん! 」
「お前、ほんと向井さんのこと好きだよな」
「だって! アタシの好みド直球なんだもん! 」
向井さんとは、この事務所に所属する社員の一人だ。少し離れた土地、主に北陸方面で仕事にありつけていない元受刑者をこの事務所まで連れてくる仕事を担当してもらっている。
「正直お前の好みなんてどうでもいい。いや、どうでもよくなかった。それで再犯でも起こされちゃ、たまったもんじゃないからな。それよりほのか、ここは会社でお前は社会人だ。もっと節度を持って……って、流石にこの文句は聞き飽きたか」
「うん、すっごいウザかったけど、すぐやめたから許してあげましょう! 」
「お前に許される筋合いはねぇんだけどな。ほのかもそうだが篤人、お前ら社長をなめ過ぎだぞ。あんまり調子こいてると今月分減給するからな」
「はーいごめんなさーい」
「篤人は? 起きてんだろお前」
「……はい」
ほのかが向井の名前を出したあたりから篤人の身体が不自然に何度も寝返りをうっていたから狸寝入りしているのは明らかだった。
坂岸篤人は、坂岸ほのかの兄である。小学生の頃に担任の教師を自殺に追い込み、それが愉しかったのか中学校に進学後、先輩にあたる人物の母親を交通事故による死亡事故に至るまで誘導した。その後、誰に諭されたわけでもなく出頭し、少年院に数年間入所している。
二人して青少年犯罪者なわけだが、出所してこの事務所に就職するまでに再犯を起こしたことはないということだ。
二人曰く、「再犯しようにもその相手にちょうどいい人がなかなか見つからない」ということだ。ターゲット選びにどんな拘りがあるのかは本人たちにしか知り得ないことだが、まだ若い二人を『全うな道』に導くことが大人の務めだと洋治は思っている。しかし、『全うな道』と言っても彼自身ロクでなしな部分が駄々漏れなダメなオヤジ筆頭みたいなところがあるのは自覚しているので、ここぞというとき以外は強く言いづらいところがある。
数時間が経った頃、事務所の電話機が鳴りだした。
「はい、仲石職業紹介事務所です。……はい……はい……そうですが、どちら様でしょうか? 」
電話に応対したのは、ほのかだった。
「はい、しゃちょーですか? 承りました。……しゃちょー、電話ー……たぶん4番」
たぶんとは何か……。洋治の頭にはそのようなツッコミが巡っている。ちなみに、洋治を呼ぶときに阿保みたいな口調になるのは、彼女の癖ではなくわざとしていることだ。
「代わりました。社長の仲石です」
「江橋だけど」
電話越しに聞こえたのは、仲石の元同級生である江橋才加だった。
「江橋か、どうした? 」
「頼む! 今からオレん家に来てくれ‼︎ 」
「いいけど、そういうことは社内電話じゃなくて携帯にかけてくれないか? いつもはそうだろ」
「あ……ああ、そうだったね。ま、まぁ取り敢えず来てくれ。すぐにな‼︎ 」
通話が切れる音が鳴ると、仲石も受話器を下ろす。明らかに、様子がおかしい。しかし、今は江橋も仕事中のはずだ。たしか公務員で、この街の市役所に勤務している。
仲石は、そのまま受話器を再度取り、電話をかける。
「もしもし、向井さん。今どこら辺にいますかね? 」
向井という名前に反応したのか、ほのかは仲石の方へ駆け寄る。
「向井さんと電話してるの? 」
電話中のマナーくらいは守れるのか、ほのかは小声で確認する。「そのとおりだ」と、軽いジェスチャーで返答すると、彼女はこの上ないくらいの満面の笑顔を浮かべてきた。
『そうですね。もうすぐ、久留須駅に到着しますから、あと40分もあれば事務所に着きますよ』
「申し訳ないんですけど、ちょっと急用ができましてね。篤人たちの面倒見といてほしいんですよ」
『わかりました。となると、タクシーですかね』
「頼みます」
再び受話器を置くと、コートを羽織り軽く荷物を纏める。
「しゃちょー。どこか行くの? 」
「急遽だが営業に行ってくる。もうすぐ向井さんが帰ってくるからそれまで電話対応諸々頼むぞ」
二人にそう言い残して、洋治は事務所を後にした。
読んでいただき誠にありがとうございます。
0~1はこの先の結末を決めるターニングポイントだった物語。
次回からは、それぞれのターニングポイントに至る前の物語を詳細にしたお話しです。
この物語は、
この物語のみで完結することができない。
本番前の準備期間。
まだ絶望を回避できたはずの最後の物語。
次回もおたのしみに。