早朝の散歩
この夏の出来事は、決して忘れたくない。別れの言葉を背に、少女は国を出る。またいつか、ここを訪れよう、と。
「おはよう。あ、そうそう、雨美はもう帰ったさぁ。何か夜中に急ぎの仕事で呼ばれたそうな。五日後に迎えに来ると言っていたから、ゆっくり過ごすといいさぁ」
雨美とは、母さんの名だ。八月上旬の昨日、母娘はここ、道紅村に着いた。
「えっ――。は……はい。お世話になります」
嵌められた。心の中で少女は呟く。渋々母に連れてこられた結果がこれだ。不思議な体験ができるなんて……。母の言うことは、鵜呑みにしてはダメだ。やはり、祖母のところに連れ出すための嘘だったんだ。もう、高二。空想と現実の区別はつけなければ。
「これからなぁ、朝の散歩に行くのだけど、明美は行くけ? 今の季節しか行けない場所が在るさぁ」
「えっと……。よろしくお願いします」
尋ねている割には、祖母の目は威圧感があり断ることを許してくれなかった。家の中で、ゆっくりしていたかったのに。これから、五日間お世話になる。だから、好印象を持って頂くために、行くしかない。
「サンダルじゃなくて、運動靴を用意してなぁ。山に行くさけ」
どのみち、運動靴しか持ってきていない。
「はい。分かりました」
散歩と言ったから、田んぼの周りなどを歩くと思っていた。
「準備ができたら、玄関で待ってておくれ。すぐに行くさかい」
散歩に準備するものなんてない。こんな田舎じゃ、コンビ二もないし、財布すらいらない。
朝日が輝く屋外へ。しばらくすると、祖母は散歩という名に釣り合わず、大荷物で出てきた。まるでどこかの登山家だ。一体どこにそんな大荷物を背負う力があるのだろうか。年老いて痩せた、小さな体からは、全く想像できない。
それに、そんな大荷物どうするのか?
「さあ、行くけ」
出発だ。
祖母は、すたすたと歩き出した。普通に歩くとおいてかれる。だから、少し小走りだ。
朝の山はひんやりとして、木々の香りが漂っている。栗鼠や鳥の鳴き声が駆け巡り、風の音も気持ちいい。山がだす特有の雰囲気が心地よい。
「そろそろ、霧が出てくるさぁー。気を付けなあかんで。この山の霧は濃いさけ」
「はい」
山の中腹らへんまで来ただろうか。下を向くと、村が見渡せ、とてもきれいだ。こんなに遠くまで見ることができるのに、霧が出るなんて信じられない。
しかし、長年登っている祖母が言うのだから、間違いないだろう。
祖母と何を話せばよいのか分からず、ただひたすらに登って行く。二人の足音が、静かな山に響いていく。
しばらくすると、徐々に視界が白くなってきた。
霧だ。
いつの間にか、隣の祖母の姿もぼんやりとした影となっている。
「明美?」
「は、はい」
声が裏返ってしまった。不安な気持ちが膨らんでいく。
「大丈夫?」
「はい、大丈夫です」
祖母の大きな手が肩に触れた。不思議と安心していく。霧がまとわりついていたが、あまり気にならなくなった。
「――!」
突然、霧が晴れた。
森の出口だ。急に目の前が明るくなり目がしょぼしょぼする。
目が慣れてくると、辺りの様子が分かってきた。どこかの入り口のようで、大きな柵がそびえたっている。
「さあ、着いたよ。ようこそ、ナハーラへ」
元気な祖母の声がした。妙にはきはきしている気がする。
「?」
明美は思わず顔を向けた。
「え――!!」
祖母は、若返っていた。そして、背が高くなっていた。いや、少女の背が縮んでいた。
パニックになった頭は、現実についていけず目の前が真っ白になった。
「じゃあ、あと頼むね。明美に幸運を祈ると伝えてね。またね、ルーミャ」
祖母の声が聞こえる。
「うん! まかせて! おばあちゃん、気を付けてね」
答えたのは知らない少女だ。
薄眼を開けると、ドアが閉まるのが見えた。
そしてまた、意識は底深くに落ちていった。
「ひゃっ!」
冷たい物が顔に触れた。
パチリ。
小学校低学年くらいの少女と目が合う。
「あっ、ごめんね。起こしちゃった? 熱ももう下がったし、今日からよろしく。アスエラ」
にたぁ、と満面の笑みで尖った耳の少女は言った。アスエラというのは、どうやら明美のことらしい。
窓からは、アサヒが降り注いでくる。頭の中はハテナでいっぱいだ。
「あの……、ここは……」
自分の声が幼く感じる。
「ナハーラ国だよ。あっ、そうそう、私はルーミャ。第一王女でアスエラの従姉妹。将来は私、この国の王女になるんだぁ。アスエラの名前は昨日会議で決まったの」
「すみません……。まだ分からないのですけど……」
「うーん、まあ、そのうち分かるよ」
誤魔化された。
「もう、起きれるよね? ご飯食べに行こう、アスエラ。まだ、朝ご飯食べてないし」
何も分からず、ベッドから降ろされる。
「え?」
なんか、目線が低い。
「えっ?」
ルーミャに引っ張られている手は、幼い綺麗な手だった。
どういうこと?
アスエラが突っ立っている間に、ルーミャは着替えさせていく。
気づいたら、革の服を装備していた。
「さぁ、行くよ」
半ば、引っ張られるように連れていかれる。
「ちょっ、ちょっと待ってください!」
質問したいことがたくさんあるのだ。
「なんで? だって、ごはん食べに行くんでしょ?」
「そうだけど……。って、そうじゃなくて、ナハーラ国ってどこなんですか?」
「ここ」
止まってくれず、どんどん引っ張られる。
「と、止まってください!」
「もう」
足に力を入れると、ルーミャも疲れたのかやっと、止まってくれた。彼女の細い目は、面倒くさいと物語っている。
「祖母は、どこなんですか? なんで、私は、こんなに小さくなってるの?」
周りに自分の知っている人がいないと、こんなにも不安になるなんて。知らなかった。
「おばあちゃんなら、アルカに帰ったよ。幸運を祈ってるって言っていたけど、どういう意味かよく分からなかった。なんで小さくなっているかっていう質問は、私にも分からない。だって、アルカからここに来た時から、アスエラその姿だもん」
「そうですか……」
どうやら、元の世界のことをここではアルカというらしい。
これから、何が起こるのだろうか? ワクワクするが、不安で胸がいっぱいだ。
「じゃあ、行くよ。お父様が待っているから。それに、料理も冷めちゃうし」
ぐぅー。
思わず下を向く。顔が熱くなってくる。温かい料理のことを考えたら、お腹が空いてしまった。
「お腹空いたよね。当たり前だよ。だってアスエラ、丸一日寝ていたもの」
ルーミャの方を見ると、にっこり笑っていた。まさか、丸一日寝ていたなんて。
ルーミャは、ゆっくり歩き出す。今度はアスエラのペースに合わせて歩いてくれた。
「あそこのドアの向こうが食事をするところだよ」
廊下の突き当りには大きなドアがある。そのドアは少女たちが近づくにつれ徐々に開いてきた。あそこが食事をするところみたいだ。
ドアの前に着いた時には全開だった。ドアの向こうは何も見えない。しかし、ルーミャは止まらずに歩いていく。
ちょっと、一回止まりたい。
「まっ――」
引っ張られるように、一歩踏み出すと、一段と明るい場所があった。
次は、食堂です。