弟の彼氏は…… 【後編】
流れるプールから上がると、私達は新作のスライダーに向かった。
やっぱりここが一番人気みたいで、二十分待ちと看板が立っている。私達はしょうがないよねと大人しく並んで待つことにした。
暫く並んでいると、このスライダーは二人用の浮き輪に乗って滑ることに亜美ちゃんが気付いた。
「陽菜ちゃん、前と後ろどっちがいい?」
「ん~……」
「ちょっと待った! 亜美さん、姉ちゃんとやる気?」
どっちのほうが怖くないだろう? と考えていた私の前で、健太が亜美ちゃんにそれはダメだと訴える。
「亜美さんと姉ちゃんが二人で乗ったら、俺と先輩になっちゃうじゃん」
「うん」
「何でそんな嬉しそうに頷いてんの!?」
「健太君と西田先輩もそのほうがいいでしょ? 照れなくて大丈夫だから」
グッと親指を立てた亜美ちゃんの前で、健太はひたすら嫌だと訴え続けた。
「何でせっかくのプールでその組合せ!? ……あ、でも俺が亜美さんと乗ると姉ちゃんが先輩と……それはダメだ。じゃあ俺が姉ちゃんと乗って、先輩と亜美さん……そんなのもっと嫌だ!」
「じゃあこうしよう」
西田先輩はブツブツ言い続ける健太の肩を軽く叩くと、いっせーのでグーとパーを出して別れようと提案した。私と亜美ちゃんは、健太がそれでいいならと頷く。
そうして決まった組合せは、健太と亜美ちゃん。私と西田先輩だった。
すると、健太が西田先輩と顔を近づけて二人が内緒話を始める。
(なんだかキスする手前のような顔の近さに、見ているほうが恥ずかしいですよ)
私は、きっと亜美ちゃんが目をキラキラさせて二人を見つめているんだろうと、横にいる亜美ちゃんを見た。
「亜美ちゃん?」
でも、亜美ちゃんは健太たちを見ていなかった。彼女はさっきのように心配そうに表情を曇らせて、私を見ていたのだ。
そのことに驚いて「どうしたの?」と聞くと、亜美ちゃんは口元に力を入れて唇を引き結ぶ。
「亜美ちゃんお腹でも痛い? 大丈夫?」
「陽菜ちゃん。大丈夫?」
大丈夫かと聞いて大丈夫かと返された。
いったい亜美ちゃんはどうしたんだろう。
シャチプールに来てから様子がおかしい亜美ちゃんに、私が何かあったのかと聞こうとした時、健太が亜美ちゃんを呼ぶ声がした。
「亜美さん、俺たちの番だよ」
「うん。じゃあ陽菜ちゃん、下で待ってるね~」
「うん……」
私達に軽く手を振った健太と亜美ちゃんが、黒い浮き輪に乗る。二人がそのままスライダーの入り口から筒の中に消えていくのを、ボーっと見送った。
(亜美ちゃんは何で私に大丈夫か聞いたんだろう……)
今日の私の体調は絶好調だ。それは朝から一緒にいる亜美ちゃんだって分かっているはずなのに。
「……なこちゃんっ。陽菜子ちゃん!」
「っ!」
ハッと声に気付くと、隣に立っていた西田先輩が私の顔を覗き込んでいた。その顔の近さに、一瞬で顔に熱が集まる。
おかしい。こんなこと何度もあったのに、今日はその距離に心臓が勢いよく動く。
思わず一歩下がって返事をすると、西田先輩が苦笑しながら「俺たちの番だよ」と浮き輪を指差した。
「あっ、ごめんなさい」
「平気平気。ほら、下のほうで健太たちが手を振ってるよ」
「ホントだ」
下で並んで手を振る二人に手を振り返すと、私は浮き輪の手前に座って両手で横の取っ手を掴む。
「よっと」
私に続いて後ろに座った西田先輩が、私の体を挟むようにして膝を立てた。
(なにコレ。なにコレ。なにコレ)
座って気付いたけど、この距離感はまずい。何がって聞かれたら困るけど、とにかくまずい。
やっぱり先輩一人で行ってほしいと言おうと開いた口は、直後に悲鳴を上げていた。
「速い速い速い速い速い速いーーーー!!」
「あっはははっ。すっげ~!」
後ろから楽しそうな西田先輩の声を聞きながら、私はさっさと出発させた係員さんを恨んだのだった。
スライダーの終点のプールに勢いよく飛び出した浮き輪から、私はポイッと投げ出された。いや、つい手を放した私がいけないんだけどね。立とうとしているのに足が着かなくて、情けないけど一瞬溺れそうになった私を、西田先輩が二の腕を掴んで引き上げてくれた。
「うえっ。はぁっはぁっはぁっはぁ……」
「陽菜子ちゃん大丈夫?」
「は、はい……」
「姉ちゃん生きてっか~?」
「陽菜ちゃ~んっ」
プールの横から亜美ちゃんたちが手を振っていた。それに何とか手を振り返しながら、私は西田先輩にお礼を伝える。
「あり、ありがとうございます」
「ははっ、まさかこんな浅いプールで溺れると思わなかった。プール上がるまで手を繋いでいこうか?」
「いえ、大丈夫です!」
「残念」
ちっとも残念そうじゃない西田先輩に手を離してもらい、亜美ちゃんたちのほうへ歩いていく。
すると、もう少しというところで足が滑ってしまった。
「うぉっ!?」
滑った拍子に後ろに傾いた体は、すぐに温かい壁に止められる。
「……え?」
最初、何で転ばなかったのか理解できなかった。
ああ、転ばなかったんだと理解した次に、右の二の腕と背中に感じた体温。その状況に一瞬で体中の血液が沸騰したようだった。
それくらい体中が熱くて、胸が痛い。
「……大丈夫?」
「……ぁ……」
彷徨っていた視線が西田先輩の声で正面に向く。その先には真っ青な顔色をした亜美ちゃんと、目を吊り上げて西田先輩を睨んでいる健太がいた。
健太のその顔を見た瞬間に、私の体を廻っていた熱が一気に冷める。
私はとっさに先輩の手を振り払うように体を離してしまった。そんな私を驚いたように目を丸くして見ている西田先輩に、早口でお礼を伝えて健太たちの元へ急ぐ。
健太に手を引っ張ってもらってプールを上がると、今度は亜美ちゃんに手を取られた。
「亜美ちゃん?」
「健太君、私達トイレタイム突入だから!」
「う、うん」
健太が頷くのを確認すると、亜美ちゃんは私と手を繋いだままトイレへとダッシュしたのだった。
ダッシュといっても私の足は遅い。亜美ちゃんにとっては速足とあまり変わらないだろう。亜美ちゃんはやっぱりお腹が痛かったんだろうな。今まで我慢させていて申し訳なくて、私は手を引く亜美ちゃんの背中に声をかけた。
「亜美ちゃん、やっぱり今日お腹痛かった? 大丈夫? もう帰ろうか」
「陽菜子ちゃん……いつから?」
「何が?」
「いつから西田先輩が好きだったの?」
「…………………………は?」
亜美ちゃんの言葉が予想外すぎて思わず足を止めてしまうと、亜美ちゃんも立ち止まって私に向き合った。その表情がとっても辛そうで、余計に混乱してしまう。
「亜美ちゃん、あの、知ってるよね? 西田先輩は健太の彼氏だよ」
「知ってるよ。だから……今日まで親友の気持ちに気付けなかった自分に腹が立ってる」
「何か誤解してない? 私は別に西田先輩のこと――」
「好きじゃない」そう言おうとしたのに、何故か私は言葉に詰まってしまった。
(西田先輩は健太の彼氏だから、だから人としては好きだよ。でも、それ以上じゃない。それ以上じゃ……)
ちゃんと声に出して伝えないと、亜美ちゃんはもっと誤解してしまう。それが分かっているのに、声を出そうとすると唇が震えた。
「わ、たし……」
「陽菜子ちゃん……」
(そっか……私、好きなんだ。目が合うといつも目尻を下げて笑ってくれる。私の話を聞いて口を大きく開けて笑ってくれるあの人が、好き、なんだ……)
自分の気持ちに気付いた瞬間、健太の泣き顔が脳裏に浮かんだ。
私は泣きそうな顔で私を見つめる亜美ちゃんと目を合わせると、つっかえながら言葉を吐き出す。
「どう、しよう。亜美ちゃん、わ、私、私、健太の、彼なのにっ」
「陽菜ちゃん」
「どうして。なんで健太の……私、お姉ちゃん、なのに」
亜美ちゃんは私から目を逸らさずに、今度は両手で私の手を包んだ。
「陽菜ちゃん。これはしょうがないよ。好きになっちゃうのは自分じゃどうしようもないもん」
「でもっ!」
「陽菜ちゃんは健太君たちを別れさせようなんて思わないでしょ?」
「当たり前だよ!」
亜美ちゃんの言葉に驚いて叫ぶと、亜美ちゃんは大きく頷く。
「なら、陽菜子ちゃんは悪くない」
「亜美ちゃん」
「想ってるだけなら別にいいじゃん。陽菜子ちゃんの好きって気持ちは陽菜子ちゃんだけのものだよ」
「……でも」
西田先輩を好きになるのは、健太を裏切ることだ。
そう言う私に、亜美ちゃんは首を大きく横に振った。
「陽菜ちゃんは西田先輩が健太君の彼氏の間は……ううん、例え別れた後もきっと二人に自分の気持ちを言わない。陽菜子ちゃんは絶対に健太君を裏切らない。それが分かるから、私はっ」
亜美ちゃんは勢いよく下を向くと、繋いだ手に力を込めた。
「陽菜ちゃん。一緒に合コン行こう。大丈夫だよ。私、他の学校の子にも声かけるから。すっごくかっこいいメンツそろえるから!」
「亜美ちゃん……ありがとう」
痛みを感じるほど握られた手は、亜美ちゃんの愛だ。
こんなに胸が痛いなら、気づかないままのほうが良かったかもしれない。でも、分かってしまったから。気付いてしまったから。
「初恋は叶わないものってホントなんだね」
「そうだね。ちなみに私の初恋は保育園の友達のパパだった」
「亜美ちゃん、それは早過ぎだよ!」
力強く手を握ってくれる親友がいるから、私はきっと気付いたばかりの気持ちに蓋をすることが出来るだろう。
「あーっ。なんだかアイス食べたい。陽菜ちゃん、ソフトクリーム食べに行こ!」
「うんっ」
すっかり健太たちのことを忘れてソフトクリームを堪能していた私たちは、心配して私たちを探しに来た二人に、とっても怒られてしまったのだった。
あれから出来るだけ亜美ちゃんと離れないようにシャチプールを遊びつくして、夕方、私達は帰ることになった。
みんなでバス停に着くと、亜美ちゃんが時刻表を確認しに行ってくれた。健太が亜美ちゃんの後を付いて行き、時刻表を指差しながら二人で何か話している。
私が亜美ちゃんたちの背中をボーっと見つめていると、西田先輩に名前を呼ばれた。
返事をして横を見上げると、西田先輩が笑顔で来週の花火大会の話をする。
「来週の花火大会はバイト?」
「違います……けど」
「俺、その日は部活が二時までなんだ。だから五時ごろ迎えに行くから、一緒に行こう」
「私はいいんで、健太と二人で行ってください」
西田先輩から視線をそらしてそう言うと、西田先輩は不思議そうに首を傾げた。
「もしかして、もう佐藤さんと約束してあった?」
「あの、まだ……ですけど」
「今日みたいに四人でもいいからさ。一緒に行こうよ」
「健太と二人で行ってください!」
私が思わず声を張り上げてしまうと、亜美ちゃんたちが驚いたように振り返り、私達のほうへ駆け寄ってくる。
(これじゃダメだ。こんな態度じゃ西田先輩や健太が変に思っちゃう)
私は小さく息を吐き出すと、西田先輩にへらっと笑ってみせた。
「やっぱりデートは二人で行くほうが楽しいと思いますよ」
「陽菜子ちゃん?」
「健太だってそのほうが嬉しいはずです」
「健太? デートって、佐藤さんと?」
「健太がデートするなら、西田先輩とに決まってるじゃないですか」
「は?」
「姉ちゃん?」
目を丸くして私を凝視している西田先輩と、呆気に取られたように私を見つめる健太。一度、私を心配そうに見つめる亜美ちゃんに笑いかけると、西田先輩に向き直る。
「健太はたまに生意気な時もありますけど、本当は泣き虫で寂しがり屋なんです。だから守ってもらえるような年上の彼氏は、健太に合ってると思うんです。これからもどうか健太をよろしくお願いします」
「……ごめん陽菜子ちゃん。ちょっと俺、頭が追いつかない」
固まったように動かない西田先輩に頭を下げて伝えた後、健太に親指をグッと立てて笑いかける。
「健太、お姉ちゃん、西田先輩はとっても素敵な彼氏だと思うよ! これからも応援するから!」
「……姉ちゃん。姉ちゃんはいったい、西田先輩は誰の彼氏だと思ってるわけ?」
せっかく検証結果を伝えたのに、健太はちっとも嬉しそうじゃない。
それどころか、怒っているように不機嫌そうに眉間にしわを寄せた。
「健太の彼でしょ」
「は?」
「……んなわけあるかぁ!!」
突然叫んだ健太が、西田先輩を指差して変な事を言い出した。
「俺は女の子が好きなの! この人は姉ちゃんの彼氏だろうが!!」
「いやいや健太。亜美ちゃんはちゃんと知っているから誤魔化さなくて大丈夫だよ」
「うあーーっ! 亜美さんまで誤解してるって事かよ!」
「安心して健太君。私、そういうの偏見無いから!!」
「むしろ有って欲しいよ!」
イライラしているのか右手で太腿を何度もバシバシ叩く健太。痛くないんだろうか……とその様子を見ていた私は、いきなり力強く両肩を掴まれた。
「俺が好きなのは陽菜子ちゃんだから!!」
「………………」
「ずっとずっと好きだったんだ! 陽菜子ちゃんは俺の彼女だろう!?」
「………………」
鼻が触れるほどの距離で叫ばれた内容を、何度も頭の中で繰り返す。
遠くで亜美ちゃんの叫び声と健太の悲鳴も聞こえたけど、とりあえず無視してみた。
(今、西田先輩は何を言った? 西田先輩が好きなのは陽菜子。西田先輩の彼女は陽菜子。陽菜子。ひなこ。ひなこ……私の名前は)
「陽菜子が好き?」
私が呟いた言葉に、必死に何度も頷く西田先輩。
「陽菜子が彼女?」
「そうじゃなきゃ今すぐ泣きそうだ」
言葉通りに若干涙目の西田先輩。
「陽菜子は……私?」
「そうだよ。俺はずっと前から君が、陽菜子が好きだ。お願いだ。勘違いしていたのかもしれない。陽菜子ちゃんにとって俺は今まで彼氏じゃなかったのかもしれない。なら、今から俺を陽菜子ちゃんの彼氏にしてくれ!!」
西田先輩の言葉を理解した瞬間。
私は目を見開いて叫ぶ。
「えぇええええぇぇぇ~~~!?」
どうやら弟の彼氏と思っていた人は、私の彼氏だったらしい。
健太よ、お姉ちゃんの脳内は絶賛混乱中です……これってどういうこと!?




