フェリシアナとアクセル
額帯鏡を頭に付け、向かいにあるライトの位置を調整し、アクセルはフェリシアナの口の中を覗き込んだ。
「息を吐いてみて。……そう、じゃあ次に同じようにして、アー、って声を出してみて」
フェリシアナが口を大きく開けたまま、息を吸い、吐き出す。しかしアクセルの言ったように、声は出ない。アクセルは傾けていた上体を起こして、そっと、フェリシアナの細い首に触れた。確認するように手を首筋に添わせたまま、もう一度、とフェリシアナを促す。喉の動きを見ているのだ。フェリシアナは何度か、口を閉じ、唾を飲み込んだ後に、声を出そうと息を吸う。しかし聞こえるのは、吐息の音だけだ。フェリシアナの目が、不安げに揺れる。
アクセルは額帯鏡を傍のデスクに置いて、ふううん、と鼻を鳴らすように溜息をついた。自身も椅子を引き寄せ、そこに腰掛ける。苛々と薄い頭を掻きながら、首を傾げた。
「喉の動きも、口腔内も、体には特に異常はないんだがなあ……」
フェリシアナは膝に手を置いたまま、項垂れた。
「ディットリヒの屋敷にくる前は、どこに住んでいたんだ? 親は、兄弟はいたのか?」
アクセルは胸ポケットからシガレットケースを出して、煙草を銜えた。デスクの上のランプの火に顔を近付け、煙草に火をつける。深く吸い込んで、脱力するように煙を吐き出し、アクセルは小さなノートとペンをフェリシアナの膝に押し付けた。
「あまり思い出したくもないだろうが、屋敷ではどんな生活をしていた?」
フェリシアナは俯いたままゆっくりとノートを開き、ペンを持った。
『花の町の外れで、お母さんと。いつも隠れるように暮らしてた。私たちは見付かってはいけないって、お母さんはいつも繰り返し言ってた』
フェリシアナは黙々とペンを走らせた。一度ペンを止めてしまうと、手が動かなくなってしまうのではないかと恐れるように、ひたすらノートに綴っていく。
『私は花の畑を手伝ってた。あの屋敷に連れていかれたのは、半年くらい前』
花の町は、王都から随分と離れた土地だ。マグノリアという花の栽培を生業とした町である。
かつて王都医術局の悪魔が、死者の治療の為に中津国に咲くマグノリアという花を改良して植え付けたのが始まりで、今では中津国産の花として、王都でも売買されている。香水や薬の材料などにも使用されているのだ。マグノリアは、ふくよかでたっぷりとした大きな薄紅色の花を咲かせる落葉低木である。その花の色も独特で、花弁の内側が白色で、外側が淡く色付いており、コントラストが美しい花だった。アクセルも何度か試しに使用したことがあるが、薬に使用するには魔力もなく扱いづらいのだ。
『あの日、何が起こったのか分からない。今でも思い出せないの。だけど、目の前でお母さんが殺されて』
勢いよく動いていたペンが、止まる。ぽたぽたと音を立てて、ノートが濡れていく。
『それから私は何にも思い出せない』
フェリシアナは震える手でそれだけ書ききると、ぐい、と手の甲で目元を擦った。
アクセルは紫煙を燻らせたまま、手を伸ばし、フェリシアナの涙で濡れたノートを取った。ノートには不揃いの文字が並んでいる。
「そうか……」
アクセルは灰ばかりになった煙草を灰皿に押し付けて、嗚咽を耐えるように唇を噛み締めたフェリシアナの頭に、手の平を押し付けた。岩のようなごつごつと盛り上がった大きな手で、フェリシアナの小さな茶色頭を撫でる。とんとん、と宥めるように、壊してしまわないようにそうっと。
ディットリヒって奴ぁ、気分の悪くなる野郎だな――。
苦虫を噛み潰したような気分だと思いながら、アクセルはフェリシアナが落ち着くまで手を離さなかった。
『ずっと昔から、目立たないように、相手の顔色を気にして暮らしてきた。私たちは、見付かってはいけない存在だったから』
マグノリアの香料を使って、香水でも作ってやろうかと薬箪笥を漁り始めたアクセルの背を、フェリシアナが指先で突いた。
『だから、いつからか、相手が何を考えてるかとか、相手の表情や声で分かるようになったの。……怒ってる、喜んでる、とか。私を脅かす者かそうでない者か、とか』
アクセルは黙ったまま、自身の背に指を走らせるフェリシアナを、肩越しに見遣った。フェリシアナは目を伏せたまま、何を書こうか言葉を選ぶように、かさかさとした唇を内側に合わせている。
『だから、すぐに分かるの。あなたはテオと同じ。私を助けてくれる。エリアスも同じ。みんな、温かい』
瞼を持ち上げて、アクセルの顔を見上げ、フェリシアナはそっと目を細めて笑った。ふわりと小さな花が開くように、愛らしい笑顔だった。
「なあ、シアナ……」
すまん、背中だと何を書いてくれてるのか分からない。――そんなことは言えず、アクセルは中途半端に口を開けたまま、うっすら笑みを浮かべた。