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Little angel  作者: 有里
本編
2/4

中編

「アダム! これは、何があったんだ…!」

 惑いの森の入口にあるアクセルの小屋に近付くにつれ、奇妙なほど空が明るくなっていたのはこれの所為かと、エリアスは思った。それは濃い霧の中でも、異様な気配を感じさせるものだった。薬草を採取するために、夜更けには惑いの森に入ってしまうアクセルに会えるかどうかと、エリアスは急いでここまでやって来たのだが、それも間に合わなかったらしい。

 緑色に発光するそれは、音のない、静かに広がる魔法の炎だった。明るい光を放ちながら、絡み付くように小屋を飲み込んでいく。粗末な小屋はすぐに緑色の炎の中で崩れ始めた。どろりと揺らぐようで、崩れるよりは溶けると形容した方が合っている。もしくは、深い底無しの沼に沈んでいくようだった。

 柵を壊して囲いの中から逃げ出した葦毛のアダムが、消えゆく小屋の前に佇み、高く嘶いた。その場で足踏みを繰り返し、炎の中を進もうとするアダムを、エリアスは必死に押し留めた。エリアスが纏う業火をあしらった炎の軍服でも、大量の魔力を練り込んだ特殊な緑色の炎には耐えられない。

「駄目だ、あの炎はお前でも越えられない! 触れれば途端に溶かされてしまう!」

 アクセルが何らかの魔力の暴走を起こしたとも考えにくい。この炎は、意図的に仕掛けられたものである。霧の町の中心部からこの辺りまで、エリアスは獣道のような細い一本道を通ってきた。それ以外に道はない。この夜更けに、誰とも擦れ違わなかった。もしかするとまだ付近に術者が潜んでいるかもしれないと思いながら、エリアスは炎の背後に聳えるような黒い森を睨み付けた。だが神経を研ぎ澄まして気配を探っても、怪しげな気配は感じられない。これほどの高度な術を操る者ならば、すでに空間移動術で姿を晦ましているかとも思われた。

「……アクセルは、中にいたのか?」

 エリアスはアダムの首を抱き締めるようにして動きを留めながら、炎の中で小さく蕩けていく小屋を見詰めた。アダムがそっと、エリアスの頬に顔を寄せる。灰色の睫毛が生え揃った瞼を閉じたり開いたりしながら、濁りのない濡れた左目がエリアスを見ている。硬い首筋を叩くようにして、エリアスはアダムを撫でる手を動かし続けた。

「そうか、…」

 まるで馬小屋のような粗末な作りの小屋だったが、アクセルがこの場に移り住む際に、自ら木を切り倒し、削り出し、組み立てた小屋である。それがあっという間に、跡形もなく消えてしまった。ちりちりと何かが焦げるようなにおいと、炎に練り込まれた魔力の、つんと鼻を突くような強烈なにおいが漂っている。

 小屋が建っていたはずの地面は黒く変色したまま、燻るような音を立てている。魔術で汚染された地には、もう何の植物も育たないだろう。空しい気持ちのまま辺りを眺めていると、エリアスは黒ずんだ地の中に唯一その場だけ黄色みがかったような、円形に光る部分を見付けた。直径三十センチくらいの、楕円のような形だ。その円の中心が、ぼこっと盛り上がる――地中から見知った魔力の気配を感じて、エリアスは慌ててその場へ駆け寄った。

 まるで底が抜け落ちるように、深い穴が開く。エリアスは地面に膝をつき、穴の縁に手を付いて、もう片手をめいいっぱい穴の中へ伸ばした。つ、とかさかさした何かが手に触れる。それをぎゅっと強く握り締めて、エリアスは思い切り引き上げた。

「さすが、ドヴェルグ……地に住まう闇の種族、か」

 長く白い髪に、エリアスの胸元まで縮んだ身長、逞しく瑞々しい筋肉、美しく整った造形の顔付き、黄みがかった目玉だけが変わらない――屋敷に勤めていた頃の姿となったアクセルが、よろけながら立ち上がった。エリアスは急にホッとしたような呆れたような、そんな気持ちになって脱力した。

「畜生! 滅茶苦茶にしやがって!」

 辛うじて衣服の形を保っていたぼろぼろの布切れを打ち捨てて、アクセルは舌打ちを漏らした。魔法の炎に触れたのか、肩や背中は所々、赤紫色になって爛れている。左腕はまるっきり皮膚が捲れ、真っ赤な肉がてらてらと血に濡れて光っていた。

「おい早く、治療を…!」

「この体だと魔術のキレはいいんだが、視界も低くて動きずらくて――へえっくし!」

 ずずずと鼻水を啜り、アクセルは自身の左腕に右手を翳した。ぶつぶつと呪文を唱えて、手を滑らせるように動かす。すると止め処なく滲み出ていた出血が止まり、焼け焦げた皮膚がうっすらと白く変色していき、露わになっていた肉の表面に新しい皮膚が現れた。まるで映像を巻き戻しているような、もしくは早回ししているような気分で、エリアスは様子を見守った。

「アクセル、こっちも」

 アクセルの背に、手を翳す。エリアスがそっと表面を撫でるように手を動かしながら力を注げば、すぐに爛れた皮膚は健康そうな肌色に戻った。肌はひやりと冷たいが、静かに手を当てていればアクセルの心臓の鼓動が伝わってきて、エリアスは安堵した。

「あとは」

「大丈夫だ。寒いだけ」

 アクセルは手の甲で鼻の下を擦った。そしてもう一度鼻水を啜って、はあ、と溜息をつくアクセルの肩に、エリアスは羽織っていた軍服を掛けてやった。業火をあしらったそれなら、素っ裸でいるよりは暖かいだろう。耳を横に垂らすようにしたアダムが口をもぞもぞ動かしながら、アクセルに顔を寄せた。その頬を優しく撫でてやりながら、アクセルは小屋が建っていたはずの地を見渡した。

「エリアス、フェリシアナはどうした」

「うちにいる。そのことで、アンタのところに来たんだ」

「ああ、絶対に屋敷から出すなよ。ディットリヒの使い魔が探ってる」

 アクセルは眉を寄せ、一際険しい顔付きになった。

「ディットリヒだと?」

 アクセルの口から飛び出た予想外の言葉に、エリアスはすっと血の気が引いた。息を潜め鋭い声で問うが、アクセルはそれよりも、と難しい顔のまま、盛り上がったアダムの背に手を掛けた。

「テオの奴が気になるな。ディットリヒ相手じゃあ、無事かどうか……」

「ちょっと待て、話がよく分からない。アンタが詳しく話をするのが先――」

 アダムの鬣を掴み、背伸びをしてよいしょと脚を上げようとして、アクセルがあ! と悲鳴を上げた。

「エリアス……その前に、せめて下衣が欲しい」

 アクセルは身体をもっと縮込ませるように、軍服の前を掻き合わせた。

 アクセルの情けない顔とひどく寒そうな格好を見て、エリアスは大きく舌打ちを漏らした。



◇ ◆ ◇ ◆ ◇



 ディットリヒは冥界随一のルーン魔術の使い手であり、魔王に次いで権力を持つのではないかと言われている悪魔だ。

 彼は、王都から西にある常闇の町の主である。月の光の差し込まない暗鬱とした町には、悪意に満ちた魔物や悪徳を好む悪魔が暮らしている。その邪悪な者たちを一挙に束ねるのが、社交界にも顔が利く、ディットリヒという罪悪を形にしたような悪魔だった。冥界で起こるあらゆる悪事の大半は、必ず裏でディットリヒが手を引いているのだ。決して自身の手を汚さない狡猾さで、確実な証拠がない為に処罰することができないが、それは周知の事実であった。

「ディットリヒが相手だと、軍事局(うち)はそう簡単に動けないぞ」

 屋敷に戻り、使用魔オールが用意した衣服に着替えたアクセルは、そわそわと落ち着かない様子で、エリアスが座るソファーの周りを歩き回っていた。その姿はすでに、薄い頭の、顔色の悪い地味な姿に戻っている。

 エリアスは溜息をつくと、ソファーの背凭れに腕を置いて、背後にあるベッドへ目を向けた。エリアスのものであるはずのそこには、幼い寝顔を晒した少女が横になっている。湯浴みを済ませたフェリシアナは、血色の良い顔をほっと緩ませて、静かに呼吸をしている。

「アクセル、虫たちが戻ってきましたよ。あなたが気にしていたテオという魔術師は、無事だそうですね」

 オールが、熱い紅茶を注ぎながら告げる。

 アクセルはよく、連絡を取り合う際に虫を使う。特に蠅は飛行も速く、相手に気付かれないよう振る舞いながら、どんなに狭い場所でも侵入できる賢い虫だ。今回も虫たちを向かわせて、テオの様子を探らせていたのだ。

 部屋に舞い戻った虫が、微かな羽音を立ててぐるぐると飛んでいる。それらを一瞥し、オールは仄かに香り立つカップをエリアスへ差し出した。

「ただ、追手を撒く際に負傷したということで、身動きが取れない状態だそうです」

 アクセルにフェリシアナを預けたテオという魔術師は、自身の隠れ家に逃れたものの、身を隠すだけで精一杯の様子らしい。

「そもそも、テオは何者なんだ? なぜシアナをお前に預けた?」

 オールからカップを受け取って、エリアスは熱い紅茶に口を付けると、アクセルへ問い掛けた。腕を組み、うろうろと歩き回っていたアクセルは、オールがもう一つのカップに紅茶を注ぐのを見て、エリアスの向かいに腰を下ろした。

「俺と同じ、ドヴェルグだ。あの時はただ何も聞かずしばらくの間預かってくれと言って、フェリシアナを置いていったんだ。訳アリとは思ったが、まさかディットリヒのとこから逃げ出してきたなんて思ってもみなかったさ」

 そりゃ当然だろうさ、とエリアスも頷く。まさか顔見知りの魔術師が突然、裏切りの血族を連れてくるとは思うまい。

 アクセルはシャツのポケットに手をやって、だが、いつもならば入っているはずのシガレットケースがないことに気付いて、ふんと不満げに鼻を鳴らした。シガレットケースも中身も全て緑色の炎に消えてしまったのだ。

 飛び回っていた蠅は、いつの間にかテーブルの端に止まっている。背中は光沢のある黄緑色で、脚の長い蠅だ。翅にはうっすらと黒褐色の斑紋がある。アクセルはじっとその蠅を見下ろして、ふむ、と独り言ちた。

「どうやらディットリヒの屋敷に、地下牢があるらしい。そこにいるのはフェリシアナのような、裏切りの血族の者だ。ディットリヒはどこからか、ああいう連中を見付けて捕らえてきて、そいつらの血を使って、魔術師たちに不老不死の薬を研究させていたようだな」

 テオの伝言をそのまま言葉にして、アクセルはごつごつと岩のような手で小さなカップを持った。ふうっと息を吹きかけ、恐る恐る口を付ける。しかしアクセルには熱過ぎたのか、ちらっと舌先を出して、カップを置いた。

「テオも、その研究に関わっていた」

 アクセルは膝の上に手を置いて、拳を握り締めたり開いたり、とんとんと爪先を動かしたりしながら、長く息を吐き出した。

「残念だがその話、確かめる術はないな。ドヴェルグ一名の話だけじゃ……常闇の町に住む魔物はみな、ディットリヒの息のかかった者たちだ。容易に立ち入ることはできない。ディットリヒを問い詰めても、しらばくれるだろうな」

 エリアスはもう一度、ベッドに眠る少女の横顔を見詰めた。アクセルが、低く唸るような声で同意した。

「だけど、もしその研究が成功して、ディットリヒがこれ以上の力をつけたら困るんじゃないか」

 苛々するようなアクセルの声に、エリアスは焦げ茶色の重厚なキャビネットの引き出しから、手の平に収まる小さな箱を出した。ダークグリーンの革のシガレットケースだ。中に入っている紙巻き煙草は、アクセルが吸うような中毒性のあるものではない。風味を楽しむものである。

「吸う恰好だけで、落ち着くのなら」

 エリアスが差し出すと、アクセルは少しだけ迷ったようにシガレットケースを見詰め、舌打ちを漏らして手に取った。細い煙草を、骨張った太い指が摘まむ。エリアスが煙草の先を指先で弾いて火をつけてやると、アクセルは顰め面のまま煙を吐き出した。

「シアナ以外の者も、ディットリヒの屋敷にいるのか? それが確認できて、現場を押さえることができるなら……」

 神族の保護を名目にすれば屋敷内を捜索できるかもしれないと思い、エリアスはソファーに深く凭れていた体を起こした。

 アクセルは思案げな顔をして、テーブルからキャビネットへと飛び移った蠅を追うように視線を移した。細い煙草の先が静かに赤く燃え、ふわりと円やかで芳醇な香りが広がっていく。

「屋敷に何名捕らえられているかは分からないが……テオは、フェリシアナしか連れて出られなかったんじゃなか? あれだけ執拗な追手だ、テオだって子供を連れて常闇の町を出るのに苦労しただろう」

 アクセルの小屋で見た、痩せてちっぽけなフェリシアナをぼんやりと思い浮かべて、エリアスは肝心なことを思い出したような気がした。

「ああ、待て。そもそも――ディットリヒは例の研究が外に漏れるのを恐れて、テオとシアナを追っていたんだろう。テオがお前と接触した時点で、もう、軍事局(うち)には知られたも同然と感じるはずじゃないか? お前のところで何かあったら、必ず俺に話が来るから……」

 テオがアクセルと接触したことは、すでに知られている。だからこそ、アクセルごと小屋を消し去ってしまおうと画策したのだろう。

 見知らぬ少女がアクセルのもとに預けられたと知った時に全て話を聞いていれば、今頃はディットリヒの屋敷を隅から隅まで調べていたことだろう。しかし、今ではもう何もかも遅い。ディットリヒほどの狡猾な悪魔なら、僅かな証拠さえも残していないはずだ。

「こりゃあ……思っていたより面倒なことになりそうだ」


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