プロローグ 知る
俺はある日、人を信じることをやめた。
簡単な理由だ。信じれば、友と協力し、恋人とデートし、楽しいことがたくさんある。そんなことはわかっている。でもその代償として、裏切りが存在する。信じることと裏切られることは表裏一体の関係だ。
だから、俺はそれを断ち切った。
乖離させることは不可能だ。
信用している、信頼しているのに、裏切られるのはあまりにも理不尽だ。
信用、信頼して裏切られた。このことは本当に理不尽なのだろうか。
わからない。理不尽は、自分自身が完全に正当であって、初めて成立する。
自分自身が誠実であると宣言できるだろうか?証明できるだろうか?
不可能な話だ。法的な正しさではない。自分自身が自分を正しいと思えるかだ。法を介在させることによって、自分が正しかったのだと正当化させているのではないだろうか。元から自分が誠実であったら、なぜ法が必要であろうか。法を持ち出した時点で自分自身の中に闇があることを自称しているのだ。
そう。だから俺は信じるのをやめた。
自分自身が正当であると認め続けることにうんざりした。疲れたのだ。
そして、信じないことに馴致した。
人間は孤独で生きられないという。そんなことは戯言だ。なぜ孤独という言葉が生まれたのか、独りという言葉が生まれたのか。存在することだからだ。
俺にとって孤独は救いだった。俺の中でのイエスキリストであった。誰にも侵犯されることのない理想卿。
確かに孤独は救いであるとともに辛辣なものであった。信用しない代わりに自分も信用されないという連鎖。だが、孤独から来る辛辣さの方が納得することができた。受け入れることができたのだ。等価だ。自分自身が正当でない代わりに仇となって返ってくる。それはあまりに論理的で必然でカタルシスを得ることができた。
言霊というものは確かに存在する。自分が孤独であると言うことによって、更に本当の意味で、現代人が病気以上に病名に脅かされるのと同様に、孤独になるのだ。孤独であることと孤独であると認識することには雲泥の差があるのだ。
言葉が自分自身を襲うのだ。
実際言葉が具現化して、自分を襲うわけではない。心の中の臆病な心、自分自身を誠実と認められない暗い部分が言葉を呑み込み、自分の中で正しい心を餌に成長していくのだ。
他人の気持ちを忖度できればどんなによかったことか。俺はそんな能力が欲しかった。そんなことができてしまえば信用することの代償としての裏切りという構造が変わる。
だが、能力を欲すと同時に、それを拒んだ。俺が求めている誠実さとは平等であって起こり得ることなのだ。自分自身が正当さ以上の正当を持ってしまった時点で相手側が理不尽である。そんなものは俺はいらない。ただ何も考えないで気楽に享楽で生きていける人間を羨ましく思う。
そういう人間は生きていると言えるのだろうか。
苦しみに対して鈍感で逃げることも戦うこともしないで、気づかない。
金を貯めるためにサラリーマンになる。
合理的な考えかもしれない。だが、なぜそれを選んだ。自分にあっていた。本当にそうだろうか。時代の流れ、そういった類のものに気付かされず、ただ資本主義の犬になっているだけではないのか。働いている時間、働いている量で給料が決まらないことになぜ違和感を覚えないのだろうか。
そういう時、俺はきっと合理性を追求してしまう。働いていなければ、給料が貰えない。これが一番合理的な気がして、安堵するのだ。
なぜこんな合理的でない世界に生まれてきたのだろう。これは自信を持って理不尽だと言える。
そしていつの間にか自分自身が消えて、孤独でなくなっていることに気づいた。