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知財弁護士   作者: 松森一亥
4/4

事案 その3

 明るい店内はガヤガヤしていて、貴志と要人は4人席のテーブルに二人で向い合せに腰掛ける。要人は瓶ビールと貴志のためにアイスグリーンティー、そしておつまみを5品オーダーしている。貴志は酒はたのまない。アルコールが体質に合わないので、付き合いで仕方なくという範囲にとどめ、お金を払ってまで私的に飲みたいとは思わないからである。要人はいつものことなので心得ていて無理強いしない。そんなところが気楽で、貴志も彼とは積極的に付き合いたいと思ってしまう。

「うちの会社はサー、地味。なにもかも質素。何でも白と灰色っちゅうか。セピア色の映画を見とるようだ。でも、お前の事務所はお前に似合って綺麗やなー。外資ほどの迫力はなくて、それが逆に上品でええ。」

 要人は先に出てきたビールを飲みながら、裁判所のことを会社という。街中で周囲に違和感なく話すには一般用語をそれに該当する言葉に当てはめて使うのが一番いい。裁判所も裁判官の独立なんて言うが、結局は内部は組織体で、会社のように人間関係がうざいところも否めない。

「あれは、ボスの趣味。おれは汚いところでないなら、どこでもいいよ。」

「そういう、無頓着なとこは公務員向きやなー」

 先付に出てきたしぐれ煮をわり箸で突きながら、要人は貴志をじっと見つめている。貴志は視線をずらして、しぐれ煮を口に入れる。

「札幌はどうだった?」

「ごっつー寒かった。でも、飯はうまいぞー。お前も遊びに来ればえかったのに。」

ジョッキで来たビールを一気飲みして、はぁーと気持ちよさそうにテーブルに置く。

 店の中に近づいてくる人物がいた。ふと視線を送ると、グラサンを胸ポケットにしまい、相変わらずラフな格好をした加宮だった。腹から響くような声がする。

「よう。一人めしかと思えば…」

 貴志は瞬時に紹介すべきかしないべきか判断した。加宮なら、黙っていれば察してくれるとは思うが、別に隠す必要はない。

「事務所にいらっしゃらなかったから、お帰りになったかと思いましたよ。」

「ああ。お客さんとこから戻ってきたとこだ。」

「こちら、東京地裁の和泉くん。司法研修所の同期。こっちは、こーんな格好ですが、うちの事務所のパートナー。加宮弁理士。」

 貴志のやや嫌味な紹介をものともせず、加宮は上から座っている要人を見定めるようにじろりっと見る。

「裁判官ということかな。」

「はい。民事51部で判事補やらせてもらっています。たしか、加宮さんは、貴志の事務所に去年合併してきた特許事務所の元所長さん。現共同経営者。」

貴志は内心舌を巻く。要人の脳は超人的で、一度聞いたことはほとんど忘れない。さっき、貴志が事務所内でさらっと説明した事務所の成り立ちを覚えているのである。

「ほー、よく知ってんなー。和泉裁判官さまはこいつと仲がいいのか。僕はあまり裁判所に行かないから詳しくないけど、たしかそこは知財専門部だったね。」

「はい。今月配属になりました。判事補ですが、どうぞよろしくお願いします。ぼく、研修所で貴志の同期だったんです。クラスは惜しくも、お隣だったんですけど。」

 要人は標準語を使い、完全に化けていた。対万人モードに突入している。貴志は紹介したのがまずかったかなーと若干後悔するが、もうどうしようもない。

「なるほど。じゃ、プロダクト・バイ・プロセス・クレームについて…」

貴志が加宮の声に被せて話し出す。

「加宮先生。この前の知財高裁の判決について話そうとしてますね?下級審判決は51部でしたっけ…いや、でも、まだきっと判決が確定しているかどうかわからないし、ここは議論を吹っ掛けるところではないですから」

 平成24年1月に東京高等裁判所の合同庁舎内にある知的財産権を一括して取り扱う知的財産高等裁判所が出した特許の解釈の仕方についての判決を議論しようとしている。下級審である東京地方裁判所の知財専門部で取り扱った事件の控訴審と特許庁の審決に関する判断を主として行っている。日本では一応解釈が分かれ、米国でも同じような問題が発生している話題のトピックで、たしかに気になる判決であるが、この場ではとりあえず放っておきたい。よそ向きの仮面をかぶりつつ、要人は苦笑している。

「いろいろ裏話はあるみたいですが、判決が確定していたら公開してもいい情報の範囲限りでお話しさせてください。僕は議論は大好きですので、51部以外の案件なら個人的見解ということで、いつでもお相手しますよ。若輩者ですので、よろしくご鞭撻のほどを。」

 加宮は要人を見ながら目を細め、そして貴志に視線を移す。加宮は手をヒラヒラと振って貴志の横の席にドカッと座ろうとするので、貴志はあわてて、席を奥にずれる。

「こいつは研修所ではどんな奴だった?」

 要人ははははと可笑しそうに笑う。加宮は勝手にジョッキビールを注文する。

「気になりますよね。ま、みんなが試験に合格して浮かれて春を飛ばした感じだった中、独りマイペースだったというか、あんまり淡々としているからかまいたくなるというか…全く、W大っぽくないですね。あんまり変わっていませんよ。ま、やつれはなくなったかな?」

 要人は右手を顎に当てても貴志をじっと見る。加宮が二人を見比べながら言う。

 要人は新しく来た瓶ビールからグラスにビールをついで、加宮とカンパーイと音頭をとる。加宮は貴志が手にしているウーロン茶を見て言う。

「あ、どうするんだ、ビールじゃなきゃポン酒か?焼酎?」

「ほっといて下さい。」

 貴志が決まり文句で答える。

「いいんですよ、貴志は。お子ちゃまで、麦茶で酔いますから。」

 要人は手を伸ばして、貴志の頭をくしゃくしゃする。要人なりのお前は気を張らなくていいんだよという合図。実際の年は貴志の方が若干上だが、精神年齢は全く逆転している。貴志はされるがままになっていた。加宮が貴志の反応を見て不思議そうな顔をする。貴志は、普段、事務所では人と一定程度距離を置いて過ごしているので、珍しいと思うんだろうなと考える。

「それで、やつれてたって?」

「ああ、それは、失言でした。当時、貴志は、父親を看病してましたから。去年、ご逝去されたでしょ?…ああっ!」

「なに?」

 要人が突然叫ぶので、貴志が要人を怪訝な顔で見る。

「悪い、すっかり失念していた。結婚式の手伝い頼んで悪かった」

「え?おれは全然構わないよ。あれ、一般常識的にダメ?」

「亡くなったの確か11月だったよね。11月だったら大丈夫?」

「いや、おれの都合で日程を変えるのはまずいだろう?」

「いいんだって、でも喪っていつあけるんだ?」

「結婚式に参列するぐらいの話なら、49日過ぎれば、ふつう、大丈夫なはずだぞ。」

 ややパニック気味の要人に、加宮が年の功で知恵を出す。要人はホッとした顔で貴志の顔を覗き込む。

「じゃ、結果オーライ、だね?」

 貴志は何でもないよという表情を返す。加宮はさらに続ける。

「なんだ、和泉さんよ、近々結婚すんのか。そりゃ、めでたいなー。じゃ、飲め飲め。」

 加宮はビール瓶を傾けて要人の空になっていたグラスになみなみとビールをつぐと、要人は真っ赤になる。

「あ、ありがとうございますっ!」

と、何も言われないのに一気飲みする。要人が宴会部長たるゆえんである。酒に強い。当時から裁判官を視野に入れていたのか、要人は大学生のくせにカッチリと20歳になるまで酒を口にしなかった。ところが、20歳の誕生日を過ぎた途端、別人のように食事の席では酒を飲み始めた。飲み始めたら、体質に合ってしまったということらしい。たとえ飲まなくても、飲んでないと悟らせないほどノリが随分明るかったので、酒が入っても客観的に見れば大差がない。

「嫁さんの写真はあんだろ?見せろ見せろ!」

 加宮が命令すると、要人は嬉々として自分の携帯を取り出して、加宮に写真を見せる。

「お、賢そうな美人さんだねー。札幌から連れてきたんかい?」

「いえ、千葉在住ですよ。キャビンアテンダントです。」

要人は聞かれてもいないのに答えている。やっぱりそこはポイントらしい。

「うぉ、押さえているねー。合コンで?」

「よく、分かりますね。」

「あいつら、職場に男がいねーからなー」

「そうなんですか?」

加宮と要人の会話が盛り上がる中、貴志が口をはさむ。二人はノリが似ているので、気が合うらしい。

「パイロットは、訓練で入社したら数年は地上勤務。その間に嫁さん見つけてくるから。」

「そうそう、だからフライトに来るパイロットはすでに地上勤務職員のお手付きばかりらしい。で、CAは数か月の研修の後すぐにフライトに乗るから職場以外にきっかけがない。お客さんとは、基本、一期一会だし。」

「しかも、男のCAはゲイばかりらしい。ぼくは差別しないけど。…というわけで、職場に出会いが無いと。」

要人がニヤニヤしながら言う。確かに、特に米系のエアラインに乗ると、女性の柔らかさとは違うのだが多くの男性CAはやたら物腰が丁寧で優しく、なんとなく違和感を覚えたことがたびたびあることを貴志は思い出した。加宮が貴志が口をはさむ前にビールジョッキをトンと置く。

「そうなのか?確かに、怪しいと思っていたが。」

「らしいですよ。化粧室にこもる時間が自分より長いと、彼女はバカにしていましたけど。」

「あぁ、女のCAって、外見は綺麗だけど、チャキチャキしてるやつ多いからなー」

「うん。中身は男みたいですね。さっぱりしていてぼくは好きですけど。」

「だから、結婚すんだろ?でも、この写真、こいつになんか似てねーか」

「もちろんです。貴志は、僕のもろ好みですから。」

 何のためらいも衒いもなく、要人は宣言する。加宮が豪快に噴きだす。

「はっはっは、熱烈だね」

「ええ、まぁ。10年越しの片思いですから。」

初めのころはこういう妙なセリフを耳にするだけでも貴志はかなり気恥ずかしかったが、あまりに言われ続けていると、対応する方の感覚もだんだん麻痺してきて悪い気がしなくなり、軽く流すことができるようになってくる。貴志は顔色も変えず、やれやれと頭を押さえた。要人がまだしゃべっている。

「僕は美形じゃありませんが、男でも女でも美人が大好きなんです。いわゆる、面食いっていうやつ?そばに沢山いるとウキウキするでしょ。でも、性格ブスじゃだめ。それで賢かったら、もう、クラクラするくらい最高です。」

要人は目を瞑ってうっとりとした表情で頭を振る。再び目を開けると言葉をつづける。

「大学生の時、最初にこいつに声かけたのだって、答練の順位で名前が出るくらい賢いし、見た目はこんなですから、お近づきになりたいって思ったワケですよ。あ、加宮センセも野性味溢れる男前ですよ。お近づきになりたいです。」

爽やかに笑っていた加宮が突然自分のことを振られて、一瞬動揺する。

「…こいつ、裁判官にしておくのは惜しい。将来は、裁判官の地位をものに言わせて、超高給取りのヤメ判になるつもりだろ」

ヤメ判とは、裁判官を辞めて弁護士になったもののことを言う。要人は加宮が動揺したのを悟り、これを逃さずに迫っていく気になったらしい。加宮の言葉を十分に理解したうえで不敵な笑みを浮かべる。

「さぁ、どうでしょう。ヤメ判はあまり儲からないと聞きますよ。でも、加宮先生、ホントにいい身体付きしてますねー。おっとこ前です。何かなさってるんですか?」

 褒め殺しにするつもりらしい。要人は向かいの席から手を伸ばして、加宮のがっしりした肩をパンパンと軽く叩く。加宮はボディービルダーのように筋骨隆々という感じではないが、しなやかで筋肉質な体型は着やせするとしてもカジュアルな格好だと雄々しさが一層際立つので隠しようがない。珍しく加宮が押され気味に応答している。

「ジム。体動かすのが趣味だから。走るのも好きだし、スイミングは外せない。」

「じゃあ、今度、昼休み、走りませんか?知ってます?皇居の周り、ランニング好きな公務員が結構走ってるんですよ。ぼくも、法廷が無い火曜と金曜はぐるっと走ろうと思っているんですけど、まだ、こっちに赴任しに来たばかりで走り仲間がいないんですよ。」

そんなことをしているのかと貴志はため息をつく。そういえば、一般的に、裁判官は頭脳明晰だが、デスクワークばかりをしているせいか肉体的には弱々しいタイプが多いのに、要人はそんな雰囲気はない。むしろ貴志より断然いい体格をしている。札幌で冬はスキー三昧だったと言っていたことを思い出す。貴志は吐き捨てるように低い声を絞り出す。

「…加宮先生、無理に返事しなくていいですからね。おれは当然、走りませんよ。」

「はいはい、貴志は放っておいて。加宮先生いかがですか?」

要人は貴志の頭をポンポンと軽く叩きながら言った。どうも加宮は要人と走ることに興味を持ったらしい。

「日比谷公園はどうだ?」

「いや、どうせなら皇居一周です。だいたい5キロですから、2-30分で行けますよね。昼休みにちょうどいい感じですよ?」

「わかった。じゃあ、明日からだな」

「貴志といるのはほんとーーーに大好きなんですが、飲めないのがいただけない。なので、加宮先生、いける口ですよね。貴志の分もガンガン飲みましょう。おかわりお願いしまーす!」

 要人はにっこりと笑って、ジョッキを追加注文した。


貴志は、後ろ手で自室のドアのカギとチェーンをかける。靴を玄関で脱ぎ、そのまま歩く。他の二名とは虎の門の駅で別れた。要人は官舎が遠い―と言って、貴志のマンションに来たがったが、貴志のマンションは裁判所からも近いため入りびたりになられても困ると考え、初めが肝心と、終電で帰してしまった。

 アタッシュケース、眼鏡や諸々のものをテーブルの上に放り出し、スーツはハンガーにかけて、シャツ、下着は洗濯機の中に乱暴に放り込む。シャワーを浴び、部屋着兼パジャマ用のシャツと短パンを着て、ベッドの上で寝転がった。寝転がったベッドから横を見ると視界に小さな黒い仏壇が目に入る。貴志は、からだを起こして、二人の位牌に手を合わせた。

 最期に母は父と一緒にいたかったか良くわからないが、二人同じところに位牌を並べた。どちらも自分の親である。貴志は一人っ子なので、自分が子供をつくらなければ神谷家はなくなる。人生の途中で、自分がある人を好きになり、かつ、その相手も自分のことを好きになり、そしてずっと生活できるとすれば、それは素晴らしいことで、本当に幸運なことだと思う。

近くにいるから好きになるではなく、好きだから近くにいる、これが貴志の理想。貴志は、同級生とか、同じ職場とか、身近にいるから好きになってしまうというパターンからは逃れたかった。パートナーを見つけるのに、同じ大学の同級生は嫌だし、弁護士業界も嫌だった。そういうところで見つけたパートナ―が、近くにいさえすればそんな別の誰かを好きになってしまうタイプだと思うと恐ろしくなってしまうからだ。

でも、貴志には、29歳にもなって、これといって付き合っている相手がいない。もう両親が自分を育てていた年齢だ。今の自分のいる位置から、子どもができるまで、どれだけのステップがあるのだろう。誰かを好きになって、その誰かも自分のことを好きになってくれて、キスして付き合って、結婚して、セックスして、精子と卵子が巡り合って、受精卵が成長して人型になる。生まれ出てきて、すくすく育って。その果てしない行程を自分が進めるのか。何もない、変てこな自分をそのまんまで好きでいてくれる運命の人がどこかにいるのだろうか。

それに、母は父と幸せな結婚をしたはずだったが、浮気をした父に絶望し人生の最後に精神が壊れた。貴志の高校卒業間近、母は完全に精神を病んでしまった。それでも、この行程を進むべきだったのだろうか。好きにならなければ、壊れることもなかった。こんなに悩んでいる自分もいなかった。それはそれでいいんじゃないかとも思う。貴志はふるふると頭を振るう。思考がマイナス向きに低下してきているよと上から見つめている自分が自分に声をかけている。それをさらに客観的に見ている自分がいることに気が付く。

「…あ、やばい。」

戻ってこないとと、ひとりごちる。電気がついたまま、布団を頭からかぶる。スーツを着たままだったことを思い出し、上着、ズボンを掛布団の中にいるままモゾモゾと脱いで、ベッドの下にほおり投げる。ひんやりした布団の生地が肌にあたる。自分は何も困ることはないし誰にも迷惑はかけていない。貴志は目を瞑って、自分はこの感触だけでもいいと自分に言い聞かせるようにし、身体を丸めてじっとしていた。

母に似たところが多い貴志も、病名が付くほどに病むことはなかったが、大学3年時にその母が自殺して心の中で何かがおかしくなってしまった。自分でも、時々、精神が乖離していることを感じる。精神的に安定して明るい要人が当時そばにいてくれなかったら、貴志の精神はとっくに違う世界に行っていたかもしれない。 そういう意味では、要人は貴志が望むパートナーとしてベストだった。距離が遠くにいても、進む進路が違っても、貴志が弁護士でなかった時でさえいつも自分を気にかけてくれて、会おうとしてくれる。結婚すると変わってしまうのだろうか。

そういえば、本気な彼女がいるなんて知らなかった。確かに、3年も離れていたら、その間、何をしていたって気が付かないだろう。周りの親しい人たちが、人生の階段を一段一段登っていっていると思うと、人と自分は違うと理性で理解していても、妙な焦燥感に囚われてしまう。自分は、この三年間何をしていたのだろう。昨年、家族は誰もいなくなった。病院と事務所に通っていただけだ。そうとすれば、今は、仕事だけが残っているということか。それさえない人もいることを考えれば、いくらかは幸せなことなのだろうか。

振り子のように思考が揺れていることを感じながら、貴志はじっと自分の腕を抱いていた。精神疾患は弁護士の懲戒事由だろうか、でも、はたしてこれは精神疾患なのか。いや、仮に精神疾患だとしても、誰かに変に思われたり、迷惑をかけない限りは精神疾患だとすら認識されないだろう。殺人犯が殺人をするような人だからこそ、精神がおかしいと思われ、そんな行為さえしなければ精神がおかしいとは思われないのとよく似ているなと考える。貴志には、隠せるだけの頭脳がある。自分が自分でいられるためには、これしかないかのように思え、眠りに意識を手放すまでずっと動けなかった。


今日は朝からどんよりとして雨が降っている。静かな雨だが、傘なしでは歩けないほどだ。事務所があるという使命感だけが、自分を部屋から外に追い出せる。何も無かったら引きこもり一直線なのではないだろうか、人は独りでは生きていけないとはよく言ったものだと、苦笑する。家から事務所まで仕方がないので歩いている。

虎の門ヒルズの工事は着工からずいぶん経ち、やっと建物が立ち上がってきた。巨大な殺伐とした空間が広がり白い工事用の囲いが薄ら寒い風でバタバタ鳴っていたのがウソのようだ。何もなくしたうえで新しいものを打ち立てるにはこういう段階を踏むのかと机上の空論ではない実感を持って感ずる。巨大で長身な姿を見せてくると、一気に期待感が高まる。何にもない時には寂寥感で不安になるが、こんな感じで何かが育ってくる可能性はある。ま、そもそも、こんな建物はこれを立てるために計画に基づいて更地にしたのだから、もともと可能性があったのか。計画もなにもない自分とは大違いだなんて、貴志はグルグルと考える。またしても客観的に自分を見つめている誰か、雨の日は雨に傘の下に閉じ込められるようで、思考が自己完結しやすくていやだなぁと頭の中で呟く。


午後2時ちょうど、デスクの上の電話が鳴る。ミーティングの予定があるクライアントが到着したらしい。オンタイムである。ボス葛城の古いクライアントで懇意にしているせいか、ボス葛城も出席するという。

 貴志は指先で眼鏡の中央に触れ、片手で顔を覆いながら、眼をしばらく瞑って、一度深呼吸をする。大きなダンボールひと箱を抱え、真琴にファイルを持たせて部屋をでる。そして、ボス葛城の部屋に寄って、田上が来た旨を告げる。田上を応接室に案内するために、入口のレセプションに向かった。

田上はティ・ラ・セシナ社の法務担当。ただ、法務担当と言っても、もっぱら現場―全国に散らばるファションビルに展開する各店舗―で、販売員である可愛い女の子に囲まれて働いているらしい。そのせいか、爪の先まで神経が行き届いているような挙動が女性以上に女性っぽく、貴志は彼が真正のおかまか単に女ばかりの環境のせいで女性化してしまったのか、いつも疑問に思っているところである。今日も、少し長めの軽く脱色してカールのきいた髪をなびかせ、ピタピタの細身の黒パンツとスニーカーの上に、さらっとしたデザインが凝ったシャツを羽織り、NYを闊歩するおしゃれなゲイの男性を連想させる服装をしている。顔は普通に男らしく骨ばっていて、短いあごひげをたくわえている。田上は貴志に気が付くと、ゆっくりと頭を下げる。

「お世話になります、神谷先生。」

「こんにちは、田上さん。」

 微笑みながら貴志が挨拶を述べると、田上が両手を胸の前で併せて貴志の横に並ぶ。貴志は、女っぽい仕草だなと思うが、田上のいつものスタイルなので、背筋を伸ばして気にしないようにする。

「どうも、こんにちは。」

 田上はボス葛城にも、ぺこりとしなを作って挨拶をする。

「お久しぶりでございます、大先生。」

 田上の丁寧すぎる言葉づかい。ともすると、お姉言葉。単なる彼の癖だと分かっていても、いつも違和感を覚えてしまう。3人で応接室に歩き出すと、ボス葛城が後ろからやぁとレセプションに現れる。ボス葛城は笑って答える。ドアが開いている第一応接室。貴志はドアの外にスッと立ち、中に全員を案内してドアを閉める。ボス葛城は会議に参加するつもりはないらしく、窓際の端の席に座り、ファイルも一目見ただけで、すぐにテーブルの中央の方に滑らした。貴志は田上と向い合せになるよう中央の席に座り、ファイルを手にして、おもむろに開く。

「さっそくですが、すでに警告状の回答書が5日前に送られてきておりまして、転送させていただいております。お手元にわたりましたでしょうか?」

「ええ。」

 田上が転送されてきたらしい紙の束を貴志に見せる。

「今回は、相手方があっさりデザインを盗用していることを認めているので…いや、あれではやむを得ないとは思いますが…」

 貴志が苦笑すると、田上も少し怒った口調で同意する。

「そのとおりですっ。まったく、美鈴さんはどうなさったんでしょうね?デザイン部門の底が知れているということでしょうか。」

 質問ともつぶやきともとれる言葉だったので、貴志は理解できますという目で一度しっかり田上をみて、粛々として言葉を続ける。

「そうですね。そして、あとはご要望の謝罪要求と損害賠償の金額を確定することになりますが…。相手方代理人の話によると、どうも一人のデザイナーがやったことで、会社としては気が付かなかったということ。そして、会社としては、誠心誠意今回の件には対処したいという意向があることが、代理人を通じて伝えられています。」

 田上がやや前のめりになる。

「先生、それは、どうなんでしょうか?うちのデザインは他社に目をつけられています。真似された商品も、シーズンの初めに雑誌に掲載されたり、マネキンが店頭で着ていたりしております。わが社がプッシュして、多くの人の目に触れたものが含まれているんですよ。あんな大手が、なにもチェックを入れないで一人にデザインを任せているということはあるんでしょうか?」

 田上が怒っている。貴志はあごに長い指をそっと当てながら田上の目を見て、思案するように耳を傾けている。ボス葛城は、田上をずっと見つめているが、相変わらず無言でしゃべる気はないらしい。

「デザインの起案から製造、店頭に並ぶまで1か月以内。これはもう、通常のスピードではございません。製造はきっと韓国か中国でしょう。オンラインでデザインを流して発注するとしても、このロット数をこのスピードで製造が可能ですのは、すでに他社で販売されているそのシーズンの売れ筋を確認し、それを真似したものを製造販売する…そういう仕組みが社内に出来上がっていると考えたほうがよろしいかと思います。」

 貴志はじっと田上を見ている。きっと、真実はそうなのかもしれないと考える。通常、ファッション業界は、シーズンより半年前からデザインは出来上がっていないと、大量に商品を投入できない。春に秋冬物、秋に春夏物。流行るかどうかわからないものを製造してみることより、流行る、つまり、売れると分かるデザインを販売する方が、販売効率がいいのは当たり前だ。業界の弱小企業は、誘惑に負けて、売れ筋のデザイン盗用を図り、シーズン中に製造販売し、利益を上げることがままある。ただ、盗用自体が商業倫理的に問題にはなるが、法律的な問題に直結するわけではない。似せる程度により、違法になったりならなかったりする。

「その点はたしかに疑念があります。ただ、通常とは異なり、交渉の初めから白旗を上げているので、その誠意は認めざるを得ないと考えています。相手方代理人の指南が上手いんでしょう。ついでに、彼らをコントロールしてもらうように示唆しましょうか。」

「そうですね、それは是非お願いしたいところでございます。」

 クライアントが怒っていたら、同意してなだめる。感情が一緒に高ぶってしまっては、まとまるものもまとまらなくなるので、同調するにとどめる。クライアントの感情に流されるのではなく、クライアントの真の希望をくみ取り、彼らにとって一番利益になることを求めなければならない。

 ファイルから取り出した一枚の表を上下ひっくり返して、田上の前にゆっくり滑らす。貴志は長い指先でいくつかの数字を指し示す。爪はきちんと切ってある。

「こちらが、本日、相手方からファックスで送られてきた各製品別の販売数量や下代、上代の一覧です。結構商品の種類が多いでしょう?こちらで把握していないデザインもいくつかあります。」

 貴志が、黄色のラインマーカーをひいた製品番号を、テーブルに乗り出し、片手で上体を支えつつ、反対の手で指さしをする。背筋がピンと伸びていて、涼やかな面持ちをしている。前髪がはらりと顔にかかる。

「相手方はこれだけの統計資料を、今までの私の経験からしてもずいぶん短期間でまとめてきています。社内資料を集めるのに時間がかかる大手にして、このスピードは、私としては、相手方の本件に対する思い入れが感じられます。」

 貴志は一呼吸をおいて続ける。

「この数字を信頼して相手方の利益ベースの計算しますと、ざっと100万円となります。こちらの利益ベースで計算しますと160万円ですね。警告を比較的早い時期に打てたので、販売数量が伸びていないと感じられます。現在はすべて店頭から対象商品を引き揚げているそうですが、確認されました?」

「その話を先日警告書が来た時に先生から電話で伺ったので、次の日に、店の子に美鈴さんに行かせてみましたよ。たしかに、もう指摘した商品は売ってなかったと言っておりました。そうですか。ま、金額についてはあまりがつがつしたくはございませんが…」

 田上が言いよどむ。ティ・ラ・セシナ社は、ブランドイメージ戦略には固執するが、金銭的な部分ではあまり押してこない。

「早期に非を認めている先方の意図は、おそらく、早くことを鎮めて、公にしないということのように感ぜられます。そこを突きつつ、和解交渉を進めていきましょう。」

「そのように、お願いいたします。」

「明確な謝罪的表現とはならないは思いますが、大手の役員でもサインはやむをえまいというところで、文案を考えさせてください。幸いなことに、ここはまだ上場していない閉鎖会社ので末端株主に対する配慮までは不要です。でも、大手資本は入っているのかな?できた場合でも、和解内容についての守秘義務が条項に入る可能性が高くなるのですが…」

「先生にお任せいたします。弊社としてみれば、組織的にデザインを真似されることだけは勘弁していただきたい、というのが肝ですから」

「では、賠償金額はこちらに一任していただけるでしょうか?実は、この一覧、ちょっと不備があるようなので、その点を先方に確認して交渉したいと思います。御社にとって優先順位が高いものから順に、和解交渉していきたいと思います。」

 貴志は涼しげににっこりほほ笑むと、田上はゆっくりとしなを作って頭を下げる。

「どうぞ、よろしくお願いいたします」


 ボス葛城と田上をエレベーターホールまで見送る。田上が乗ったエレベーターのドアが閉まった。


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