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知財弁護士   作者: 松森一亥
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事案その2

次に目を開けた時には、朝の光が飛び込んできた。貴志の部屋は東向きに窓があるが、いつもはカーテンがしまっているはずなのに閉め忘れたかなと、貴志はあわてて枕元のデジタル時計を見る。午前6時12分。

「あーー、…え?」

 コーヒーの匂いが鼻腔をかすめ、何か人の気配を察する。突如、要人が来ていたことを思い出し、どこにいるのかと視線を廻らす。そして、自分が昨日のまま黒Tシャツとジーパンで寝てしまっていたことに気が付く。ため息をついていると、ガチャリとノブが回る音がして、白いTシャツと短パン姿の要人が欠伸をしながらトイレからふらっと出てきた。

「貴志、勝手に使わせてもらった」

 テーブルに置かれた、不揃いの大きなマグカップふたつを指さした。アメリカの観光名所の印刷が入ったベージュ色の一つには漆黒の液体がだいぶ減っている。白黒ツートンカラーのもう一つにはカフェオレと思しき液体が入れてある。横にはインスタントコーヒーの入れものと牛乳パックねはちみつ容器がバラバラと並べてある。要人はブラック派だから、カフェオレは貴志用だ。貴志の飲むカフェオレはいつも砂糖の代わりにはちみつが入っている。

「…覚えてたんだ。」

「そりゃぁ、俺様の記憶装置は、貴志のことは忘れないようにできているから」

「…ありがと。」

 貴志はカフェオレの方を受け取り、温い液体を空っぽの胃に流し込む。いつか要人に自分の飲み方を教えたように、熱い濃い目のコーヒーに冷たいままの牛乳を流し込んである。猫舌だから熱すぎるものも飲めないことを理解されているのが、相変わらずでうれしい。

 貴志は苦笑しながらベッドから立ち上がり、テーブルの上にある食パンを二枚取出し、スライスチーズ一枚ずつ乗っけてトースターに突っ込む。シャツとズボンを脱ぎつつバスルームに行く。汗をかいている。変な夢でも見たのだろうか。バスルームに入ると、その状態に違和感を感じ、既に床が濡れていることに気が付く。寝ぼけた頭をフル回転させ、ああ、要人かと思い至る。そして、急に何もなかったんだと、どこか残念に思っている自分に戸惑いつつも、バスルームに入ってしまったので、とりあえずさっぱりしようとシャワーのコックを捻る。手早く髪と体を洗う。バスタブから出ると、今度は、新しいクリーム白地のシャツと今度は地にストライプが入った濃いグレースーツの下を着込み、ストライプ柄の淡いピンクのネクタイをクルクルと丸め、ズボンのポケットに突っ込む。要人の視線が自分に向いていることに気が付いているが、あえて見ないようにする。

 トーストが焼けたにおいがする。白い大きな皿を二枚食洗機から出す。冷蔵庫からトマト、カテージチーズとロメインレタスを一本出して、その上にそれぞれのせる。要人に一枚渡すと、要人は冷蔵庫を勝手に開けてドレッシングを探している。

「…かけるものはないのか?」

「うん。塩とオリーブオイルでいい?」

貴志は、ドレッシングとかマヨネーズとかがあまり得意じゃないので、ロメインレタスにチーズをのせてそのままかぶりつく。だからドレッシングの用意はないので、要人用にオリーブオイルと塩をテーブルでスライドさせる。トマトも切らずにそのまま食べる。できたトーストを一枚をカテージチーズと要人に渡して、自分の分はそのまま頬張る。

「いちいち、日本っぽくねぇーなぁー。マヨネーズはもちろん無い、だよなぁ」

「文句があるなら、食べなければいいよ」

ついつい、棘のある言い方になってしまうのはなぜだろう。頭がだんだん冴えてくると、要人からの昨日の報告はよっぽどショックだったらしい。打たれた瞬間は何とか持ちこたえたのに、ボディーブローのように今日の方が心が痛んでしまっている。やや不機嫌な貴志に、要人はハイハイと肩を竦めながら、塗るタイプの柔らかいチーズをトーストに塗って食べ始めた。

貴志はデスクの上にあるノートパソコンを立ち上げて、ウィジッドで、天気が今日も晴れだと確認する。更に、メーラーを立ち上げて、メールを確認する。ほとんどが屑メール。勝手にウィルススキャンのためノートンが動き出す。これが始まると、パソコンの動きが悪くなるので、放置することにした。両親の位牌がある仏壇に手を合わせる。簡単に皿とコップを食洗機に入れてスイッチを入れる。あっという間に食べ終わっていた要人の視線はずっと貴志の動きを追っていた。前なら、貴志から何もしなくても、視線だけではなく要人が追ってきた。

「なに?」

「…いや、」

 貴志は要人の生半可な返事を聞いて、肩を竦める。鏡の前でまだ湿っている自分の頭を振って、くしゃくしゃといつものようにセットする。歯磨きをして、再び顔を洗う。貴志は、あまりひげが濃くないので毎日剃る必要はないが、今日はあごを触ると少しチクチクする。新しい剃刀を出して一応軽くあてる。そして、何度も何度も手をすずく。

「ちょっとええかぁ。」

「あぁ。」

要人が気軽な声が部屋の方でする。やっと気持ちの整理がついた気がして洗うのをやめ、手と顔をタオルでふくとバスルームのドアを開けと、要人は既に昨日と同じスーツとシャツを身に着けてた。

「ネクタイ貸してくれんか?」

「…気にするんだ」

「一応な。」

断る理由もないから、スチールの棚にひっかけてあるネクタイから爽やかな幾何学模様のブルーの寒色系のものをえらぶ。要人が昨日していたのは偏光のライム色のものだったから、ガラリと変わってかつ今のスーツに合うはずだ。

「サンキュ」

 ネクタイを掴んで差し出すと、要人がスルッと貴志の手から抜く。

「相変わらず、青が好きなんか?青系ばっかりだな。グレーもあるか。」

 要人の質問のような違うようなつぶやきは無視する。それは、要人が昔、貴志に青が似合うと言ってくれたからだ。テーブルにおいた事務所のカードキーを首にかけ、銀縁の半フレームの眼鏡をかける。財布の中身を確認する。お金やカードと一緒に、弁護士バッジと弁理士バッジが財布の中に入っている。今の自分にはこれしかないのだと、心の中で自分を説得するしかなかった。


風がさわやかな天気のいい日だった。事務所についてしばらくした頃、携帯のメールを確認していると、要人からのメールが入っていた。今晩、急に予定がキャンセルになったから、事務所まで行くから飯でもどうかというものだった。たぶん、6時に開放ということなので、6時半で事務所でどうかと返信すると、終了し次第、電話してから行くということだった。突然、事務所の電話が鳴る。自分の座席への直通電話は滅多にならないから、貴志は一瞬ドキリとする。出てみると久遠だった。忙しいだろうから支払いは送金で構わないと伝えたのに、どうしても手渡したいということで、久遠が朝の11時にひとりでフラッと事務所に来た。真っ白な襟付きシャツにベージュのジャケットを羽織り、ややスリムタイプの濃紺のジーンズ。爽やかで長い脚がかっこよく、身綺麗な感じで一応ビジネス街のこのあたりでも何とか前回のような違和感がない。ジーンズというのはやはり微妙だが、一応TPOをわきまえたらしい。

「センセ、これ。」

事務所の受付で手渡された封筒の中を見ると修理代金相当額の25万円と、賠償金にあたる15万円の先方に支払う示談金計40万円が入っている。封筒の厚み的にだいたいあっているだろうが、一応間違いがあってはいけないのでカウントする。芸能人だからといって足元を見られていないけれども、本人にとっては罰としての痛みがあるぐらいのバランスの金額。彼の稼ぎを考えれば本当はもう少し出してもいいのかもしれないけれども、報酬金額もこれにプラスされるから全体としては結構な出費になる。修理代金には休業損害も入れてあって、多めに見積もっているから、相手方にも不足はないはずだ。事故も相手を選ばないと、やらレ損なってしまうが、今回の被害者はまぁ、悪くないだろう。

「確かに。で、反省した?」

「うんうん。もう、イッパイした。」

「自分のお金?」

「もちろんっ」

久遠の雰囲気は、前回、事務所に来た時よりだいぶ力が抜けて砕けている。自分の懐から出すお金か、誰かが変わって払ったお金かでだいぶ意味合いが変わってくる。本人に痛みを与え、再犯を防ぐという目的からすると、本人負担はマストになる。貴志が事案として合格だなと評価していると、貴志の目をしっかり見つめて口を開く。

「センセ、お昼の時間ある?お礼もかねて、メシ食いに行きませんか?」

「報酬もらうから、気は使わないでいいよ」

貴志がフフフと笑うと、久遠が真剣な口調で言い返してきた。

「それはそれ、これはこれ。オレの気持ちです。何がいいですか?」

 久遠が意外とキッパリしているので、流されるのもいいかと貴志は考え直してみる。予定も特にあるわけではない。

「うーん。こだわりはないけど、重たいのはパスかな?」

「じゃあ、和食で。」

久遠は、間接的な貴志の同意と理解して、ただでさえ眩しいぐらいなのに、さらに明るい表情になる。貴志は、これは芸能界オーラなのか、単に若さのパワーについていけなくなってしまっているのか、戸惑いながらも反射的に微笑む。でも、気晴らしにはいいかもしれない。

「じゃあ、お言葉に甘えて。」

「この近く、あんまり詳しくないんで、センセの好きなところにしましょう。でも、最低一人3000円から。」

「なんだ?その指定は」

「年下だからって見くびらないでくださいね。おれの感謝の気持ちは、定食ランチ1000円じゃ嫌だということです。センセ、ちょっと値が張るようなところ似合いそうだし。」

久遠の半分真面目くさった抗議に、貴志は思わず笑い出す。虎の門、霞が関近辺はビジネス用のランチが設定されているところが多く、だいたい1000円前後のものが多い。それでは、ダメだということか。

「ものは金額だけじゃないけど、されど金額だせばそれ相応のものに手を出せるということかな」

「ええ、店選びはね、センセの行きたいところに。だいたい40+報酬も払うんだから後1-2ぐらい増えたって大した差じゃないですよ。まぁ、海外旅行に一回行けなくなったって感じですか?」

エレベーターを待つのに横に並び立つと、ちょうど顎ぐらいが貴志の目線ぐらいになる。随分と、背が高くて小顔だ。貴志は、久遠との間に見えないスクリーンが一枚間に入っているような錯覚さえ覚える。別世界の住人というか、現実味がないというか。

さすがに、通りを二人で歩くと男女問わずちらちらと盗み見るような視線を浴びているのが分かる。ただでさえ日本人は背が低いが、久遠の抜きんでた身長とスタイルの良さ華やかさが、どうもビジネス街だと人種的に机に向かっている感じのタイプが多くどうしても際立ってしまう。さすがにビジネス街なので目立ったミーハーな動きはないのだが、人気の少ない通りを選び、公園に入る。

「あれ?」

「しょうがないよ、きみは目立つから、おれが落ち着かない。なにか事務所に運ばせればよかった。」

「あーあ、気にしなくていいのに」

日比谷公園の中の一軒家で、古くからある、ノスタルジックな雰囲気のする洋食レストランの二人掛けのテーブル席に着く。公園の中で、公道からやや離れた中央に位置するのでレストランの外の席は緑に囲まれる形になる。今日は空気が爽やかで、天気がいい。そこそこ混んでいるようなのに、タイミングが良かったのかすんなり座れた。

「センセ、意外と気まぐれなんですね。和食って言ったのに、洋食だし。」

「だって、きみは何でもいいっ、てみたいだからさ。おれへのお礼なんだろ?」

そわそわと久遠が周りをキョロキョロしてから貴志に視線を戻す。

「でも、いいところですね。都会の真ん中なのに。」

「都会のオアシスって言いたい?」

「そうそう。ほら、金融小説の印象的なシーンが…」

「おれはビデオで見たことがあるな。」

「でも、今は金融小説と言えば…」

「ああ、あれね。」

久遠と話していても意外と、話題が尽きない。貴志は久遠といるとジェネレーションギャップを感じるんじゃあないかと思っていたが、年や外見に似合わず博学らしい。合わない相手だと話しながら、頭半分は次は何話そうかと話題探しを必死にしているのに、そんな肩肘張った時間は全くなかった。帰り際に、会計を済ませた久遠が、恨めしそうな目つきをして貴志に言う。

「センセ、条件満たしませんでしたよ。」

「気にすんな。おれが満足するのはこんなもんだ。これでも、いつもより、少しは高いんだ。」

貴志が肩を軽く竦めると、久遠がジーンズの後ろポケットに用の済んだ財布を突っ込みながら、ジーンズのベルト通しにくっつけた鍵をジャラジャラして鼻をスンと鳴らす。

「おいしくって、いいところでしたけど…絶対、また、誘いますからね。今度は、自分で店考えます。」


「で、久遠さんってどんなでした。」

ミーハーな佐和上が、自分の机の前を通りかかった貴志を見かけるとここぞと聞いてきた。佐和上が花粉症の影響でシーズンにはいつもつけている白いマスクがまぶしい感じだ。つい、今日の白いシャツとオーバーラップして、久遠の眩しさを連想してしまう。

「え?…まぁ、眩しいよね。」

 佐和上が貴志のコメントに爆笑する。

「わかります、わかりますっ。」

 ハハハと、笑い声が途切れない。貴志もつられて笑ってしまうが、気になることがあった。

「で、さぁ。さっき初めて、加宮先生の部屋に行ったんだけど、すごいねー」

「はぁ…。なんのことでしょう?」

 笑いを止めてきょとんとした目で事務員の佐和上が貴志を見る。加宮先生とは事務所の弁理士のパートナーである。最近事務所が合併して、去年から同じ事務所のメンバーとして働いているが、仕事の範囲が微妙にずれるためあまり接点が無い。ただ、事務所内のコンフリクトチェックのためのサーキュレーター、つまり回覧用の確認メモが回ってきて、ちょうど不在の人を飛ばしたら、次は加宮先生だったのだ。

「ありとあらゆるスポーツが詰まっている感じ?健康おたくなの?」

 佐和上はあぁ、あれ、と妙に納得した顔になる。今日は、佐和上も黒いジーンズで黒革の網タイプのベルトで白いシャツを上から締めている。

「私にとってみれば、先生方のお部屋はすべからく奇妙ですよ。葛城先生だって、あのお年で棚にはお人形のフィギュアがいっぱい飾ってあるし。変なカレンダーやポスターがかかっているし…」

 佐和上はクスクス笑う。貴志はあまりに見慣れすぎていたので、ほとんど気にしたことがない。

「でも、あれはお客さんの商品で…」

「わかってます。でも、先生のお部屋にだって、私たちでも着られないような超ロリ…」

「あーー、わかった!悪かった!みなまで言うな。」

 貴志はあわてて、佐和上のセリフをさえぎる。佐和上はマスクを押さえて笑っている。

「先生、着たらお似合いですよ。きっと。」

 貴志は真っ赤になって、その案件もあったと、自分の部屋にあわてて戻っていった。今、貴志の部屋には、ティーネイジャーしか着られない、超ラブリーなロリロリの女の子用の服が大量に詰まっている大きなダンボール箱がある。何枚かは不在者のデスクの上に広げられたり、床に並べられたりしているのだ。


 この大きな段ボール箱は、従前より付き合いのあるボス葛城のクライアントの案件。クライアントは日本国内企業であるティ・ラ・セシナ社。渋谷や原宿など全国50か所以上の若者が集まるファッションビル内に店舗をかまえ、衣料品を販売している。店舗にはカリスマ販売員が常駐し、10代の若者―コギャル―のファションリーダー的存在で、女子中学高校生間で絶大な人気を誇る。ティ・ラ・セシナ社の田上氏から販売されている洋服のデザイン盗用の相談が来たのは、先週の木曜日夕方。

 そのティ・ラ・セシナ社から、自社製品が販売開始された日付が明確となる資料に併せて、対象となった自社製品と、盗作と考えられる相手方製品を複数買いあさり、買った日がわかるようにレシートをつけてパックして事務所に荷物が宅配されてきたのは昨日、月曜日のお昼頃。このクライアントは、ワンマン社長が率いる先鋭集団のためか、社是なのか、いつも仕事が早い。貴志も、こういうものは早いうちに対策を立てた方が被害が拡大せずメリットがあると考えているので、その日のうちに、商品はだいたいの峻別はした。そして、貴志は、今後の事案の進め方の方向性をクライアントに確認していたのだ。大体の方向性が決まったら、あと文句をつけるための法律構成を考えるのは弁護士の仕事である。

 今回の相手はかなり悪質だった。類似性は極めて高く、商品は複数の商品ラインにまたがる。まねされたデザインはシーズンが開始してすぐにティ・ラ・セシナ社から売り出されたものを、一か月もせずに製造販売している。

 今回、相手方にとって決定的に不利なのは、デザインにティ・ラ・セシナ社のブランドロゴを使っている部分が、そのまま相手方デザインで出てしまっているところ。たまたま似てしまったとは言い逃れができず、クライアントのデザインを盗用したということが明々白々である。しかも、ティ・ラ・セシナ社はそのブランドロゴを、指定商品を被服として商標としても登録してある。企業が自己を表すものとして大事に守っているブランドロゴのデザインを、そのまま他人に利用されては黙ってはいられない。なので、不正競争の他に商標権侵害をも通告し、警告してきた企業の真剣度合を相手方にわからせるために、弁護士名で内容証明付き警告書を相手方に送付することが決定された。

 デザイン盗用においては、事前に登録を必要とする商標権ではなく、不正競争防止法が適用されることが多い。不正競争防止法では、他人の商品の形態を模倣した商品を譲渡する行為を禁じられている。特に洋服のデザインはうつろいやすいので、よっぽどのことがない限りデザインの登録手続きを経ることはない。だから、登録手続きが不要な救済方法が求められるのである。不正競争防止法に則れば、不正な方法で商売をする奴らを止める力がある。

 相手方に侵害している商品の販売停止と損害賠償を求める警告書を送るためには、当方と相手方の商品を特定し、どの部分が侵害しているのかを明示しなければならない。相手方にどの商品かを特定させるために、商品自体を撮影した写真を送るのが一般的である。だから、たくさん洋服を撮影して、書類に見やすい状態に整理しなければならない。

 そこで、貴志は、このクライアントのために、内容証明付き警告書の文章の原案と、商品の写真を比較対比した書類の原案を作成する。


 午後7時すぎ、『Air』J.S.Bachバッハ作曲の管弦楽組曲が貴志の個室にながれる。別名、G線上のアリア――。要人の携帯番号からかかってくる電話専用の着信音。あと10分ほどで到着するとのことだった。貴志は机の上を片付け始める。部屋の外を見ると、今日はもうほとんどの秘書は帰ってしまっていた。事務所への来客を知らせるピンポンコールは部屋の中に入ってしまっていると聞こえづらいので、書籍が並んでいる執務スペースの雑誌を手に取って読んでいた。

 ピンポーンとなる。入り口が映るモニターを確認すると、スーツ姿でカバンを抱える要人の姿が白黒で確認できる。そのまま自分でオーク材のドアを開ける。

「ようこそ」

 要人は聖人君子モードで神妙にしていたようだが、貴志が声をかけるとパッと笑顔になる。今日の要人は、濃いグレーのスーツにシャボン玉をくすませたような柄の赤系統のネクタイ、白いシャツ。貴志は要人の雰囲気が若干変わった感じがしていた。以前はもう少しかっ跳んだ感じがあったが、東京に戻ってきてから、相変わらずお茶らけているところもあるが、基本、なんだか落ち着いている。身柄が落ち着きどころを見つけたせいなのだろうか。

「おそうなって、悪かった。」

「大丈夫だよ、でも、今日はボスはいないんだ。見るものはあまりないけど、簡単に案内するよ。それとも、めし?」

「見たい。」

貴志の案内に従って、要人がドアを通り抜け執務室スペースに入る。

「いらっしゃいませ。」

 貴志はふざけて、開いたドアを保持するように片手で押さえてもう片手を胸に押し当ててレストランの受付のように丁寧なお辞儀をする。要人がクスクス笑いながら通り抜けるのを確認して、貴志は手を放すと扉が自動的にパタンと閉まる。

「就職活動しなかったんだっけ?」

「渉外とか大事務所は勧誘されて見に行ったけどな。だいたい、あんま、関心なかったから。」

 渉外というのは本来、外国関連の事件を扱うことを指して言うが、巨大事務所と外国法共同事務所のことを指して言っていることも多い。いわゆる4大、ビックフォーでは優秀な司法研修生に対する青田買いがすざましい。優秀な早期の旧司法試験合格者の要人も当然、対象になっていたはずだ。他に誰もいないゆっくりと執務室内をぐるりと見回した要人は違和感なく事務所に溶け込んでいる。くだけた部分とノーブルな雰囲気を併せ持つ男である。要人が窓際がすべて全面ガラス張りの空間を見て、無言でしばらく立ち尽くす。日比谷公園が見下ろせる開放的な空間。

「どうした?」

「ぼくの裁判所は…ここからだと、ちょっと見えないな。どないなところで働いているのかと思おてた。ええ感じのスペースやね。」

「お褒めにあずかり、光栄です。」

貴志がバカ丁寧に応答すると、要人はフフフと笑いながら尋ねる。

「今日は機嫌がええなぁ、貴志。席はどこや?」

「あぁ、あそこのへやの窓側だよ。横がボスの葛城弁護士の部屋。」

貴志の部屋に来ると、要人は貴志の席に座る。貴志はあいている中央寄りの席に座った。要人はざっと棚に置いてあるファイルの背表紙に目を走らせている。ファイルには事件名が書いてあるので、貴志がやっている事件がだいたい知財事件、企業法務、刑事事件であることが分かるだろう。

「部においてある事件記録、見たで。この事務所、うちにも継続案件結構あった。部長がええ事務所だって、主張の筋もええとほめてた。」

 東京地方裁判所にある知的財産権専門部は合計3部、大阪地方裁判所でも知財専門部が2部ある。知的財産権に関わる事件は、管轄の関係上、基本的に、東京と大阪に集中する。その中でも大村部長は、3年ごとの転勤が原則と言われる裁判所で6年近く知財部に居座る名物裁判官で、従前の古臭い判断を覆したりや新しい議論を取り入れた判決をする革新派である。

「51部は、あのチャレンジャーな大村部長だよね。できるだけ特許を保護しようとする姿勢、ファンも多いんだよ。現状、継続しているおれの担当事件はないけど…、権利者側を代理するときには、どうか大村部長に当たりますようにっ…て。」

「あぁ、事件の配転はその時の運だからなぁ。裁判官によって、判断が違うのは、まぁ、…しょうがないし。痛いところだなぁ…」

 要人は苦笑する。

「そうすると、執務室は見せないとこかな?手の内は明かさないよ。」

「もちろん、公明正大にいくさ。ま、部で末席に位置する僕の一存では何にも決まらん。そんでも、判決になりよったら、僕は判決文の下書きぐらいはするけどな。」

要人の目はティ・ラ・セシナ社の例のダンボールの上で止まっていた。無機質な部屋の中ではどうしても目立ってしまうのだろう。

「見てもいいか?」

「見られて困るものは見えるとこにはない。でも、秘密だよ。」

自分の言っていることに微妙な矛盾を感じながら、ま、いいかっと貴志が応える。経緯を簡単に説明する。

「どれが、イ号だ?」

貴志は、ラメの入ったピンク地に白いフリルレースがついた、ベルサイユ宮殿鏡の間をイメージしたという金糸で宮殿のデザインがされているTシャツを手に取る。

「こっちがオリジナルで、そっちが模倣品。」

 貴志が顎で指すと、要人はダンボールに残された相手方の商品の方を見る。イ号というのは「イ号物件」からきている。特許侵害事件の訴状に、相手方の侵害物品を指し示すのに『いろは』のいを使って「イ号物件」ということから、転じて相手方侵害品を指し示すのに広く用いることがある。要人はこれとそれ、あれとこれを見比べながらうんうんと頷く。

「あーあ、こりゃイケるだろうな。」

「だろ?」

 デザインとキラキラした全体のデザインの感じはクライアント商品と似ている。しかし、両者を並べてくらべると、どこかしら若干違うのである。黒いところが白抜きになっていたり、色の組み合わせが変わっていたり。書いてある文字が違う言葉になっていたり。小売りの値段は、クライアントの商品より価格ラインは安い。その中から貴志が一枚つまみ出したのは、香水を入れる小瓶のようなデザインが使われているカットソーである。相手方のTシャツは、宮殿の模様の一部に紛れるような形でクライアントのロゴが使われてしまっている。その他の大きい文字は、クライアントの商品とはわざとアルファベットや単語が変えられていたりしているので、デザイナーは小細工をしたけど、うっかり残してしまった感が拭えない。

「そう。しかも、ここ、ばっちり、クライアントのロゴがはいってるんだ」

「ぼくに見せるってことは、訴訟にはしないんやろ?」

「たぶんね。相手は大手だから。」

 ロゴが入っていれば、どんな言い訳をしようともまねしたことから逃げられないので、相手方に心理的圧力をかけやすい。それだけ、このクライアントのロゴ商標には価値がある。ちょっとおしゃれをかじっていれば、このロゴを知らない女子中学生、高校生はいないといって過言ではない。

「え?そうなん?大手なんやて?」

「老舗も老舗。」

「ふつう、こういうのは泡沫の、夜逃げしちゃうような会社がやるんじゃあないか?大手だったら、ブランドの大切さは知ってるだろうに。」

「そうそう、一体、どうなっているんだってかんじだよ?最初は下手すると相手に食われかねないので慎重だったんだけど、ロゴがあったから一気に攻めようと、というつもり。」

 要人が、一瞬、言葉を飲み、口角を引き上げ納得気に微笑む。

「勝ち戦やから、楽しみなんか。」

「どうだろう?」

貴志がとぼけたふりをすると、貴志の額を中指で軽く弾く。貴志は顰め面をして額を隠す。サラリとした髪が手の甲に落ちる。

「なんだよ」

貴志のわからないよという表情に、要人が軽くため息をつく。

「自覚が無いんか…眉間に皺よせたらあかん。怖い顔になる。」

 貴志は要人を応接室など事務所案内を簡単にしたのち、ビルの1階に降りる。そこから、さっぱりしているが腹にたまるものという不思議な要人のリクエストにこたえて、事務所と一本道がずれた表通り沿いの地下にある牛タン屋に行くことに決定した。

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