事案その1
虎の門にほど近い貴志の事務所は霞が関の弁護士会館から徒歩10分ほどの距離にある。貴志は、それほど遠くない移動には自転車―メタリックブルーのロードバイク―を愛用している。
東京弁護士会館と、そのとなりにある東京家庭裁判所と地方裁判所合同庁舎のビルの間に放置している自分の自転車の鍵を外し、アタッシュケースを後ろの荷台に括り付け、スーツ姿のままサドルにまたがる。サイクリング用の薄い手袋をはめ指先だけクイクイと外に出す。ヘルメットはない。地面をけり、風を切って走らせる。黒髪とグレーのスーツの上着の裾が風にはためく。日比谷公園の緑の下、ガタガタする歩道を突っ切って、貴志の勤務する特許法律事務所に向かう。自転車は原則車道を走るべしとされているが、車道を走る時は断然スピードの速い自動車に煽られて結構怖いこともある。例外規定で歩道を走ることも許されていて、車道を走る際には車両と同じルールが適用されるが、歩道を走る場合にはそうとは限らない。だから、車道を走ると逆走になる場合には、歩道を走るしかない。
東京都港区、虎の門の路上、貴志はガードレールのポールにチェーンで自転車を括り付け、手袋を脱いで上着のポケットに突っ込み、アタッシュケースを手に取り、グリーンの色味を帯びた全面鏡面ガラス張りのビルに入る。エレベーターに乗り11階を押す。厳密には自転車放置は条例違反。弁護士なら気にすべきか、気にしないべきか一瞬悩むものの利便性を否定できずに放置してしまう。でも、自転車放置禁止条例の立法趣旨は、景観を害する、救急車両の交通の妨げになる。歩行の妨げになる、などということである。だから、交通やイザというときの防災の便を妨害したり歩行者の邪魔にならない目立たない場所に。クリーンにすべき弁護士だからといって、すべて何から何まで順法するほど貴志はお上品には生まれていない。法律や規則、条例が頭に引っかかるだけに、無駄な心理的なハザードがあるだけだ。倫理性に反するとか、現実に処罰されるような法律違反をしない限りで、自分の楽に流される。
貴志以外乗っていないエレベーターのドアが開くと、エレベーターホールが事務所の入り口に直結している。まず、大きな観葉植物の鉢植えが眼に入る。オークとライトグレーで配色された落ち着いた雰囲気の無人受付をとおり過ぎ、左にある執務エリアへの入り口のオーク材のドアの前に立つ。貴志が首にかけているカードキーを事務所のドアの横にある黒いボックスにかざすと、オーク材のドアがガチャリとなる。視線の端に天井から黒くて丸い防犯カメラがぶら下がっているのが見える。執務室エリアにいる誰かが見ているんだろうなと思いながら貴志はドアを押して入る。
事務所は外観と同様、内装もグレーとオークの色調で統一されているので、全体としては落ち着いた雰囲気である。所長であるボス葛城が角のドアの開いている所長室から顔を覗かして、執務エリアに入ってきた貴志をおいでおいでをする。執務スペースでは秘書は同一スペースで、机を並べて業務をしている。
「なんでしょう?」
貴志は、ボスの部屋に入り、カバンを持ったままデスクの前に背筋を伸ばして立ち、ボス葛城に答える。
貴志の働く特許法律事務所のトップである経営パートナー弁護士は、葛城良介48歳、貴志より18期上の葛城良介、T大学薬学部薬学科卒。前妻との間に生まれた22歳の長女と今の奥さんとの間に生まれた中学生の男女の双子、計3人の子持ち。都内有数の医療法人芙蓉会葛城総合病院院長の次男として生まれ、20年前では法学部卒が大勢を占める法曹の中、かなり異色の理系弁護士だったはずである。
今や壮年の紳士の貫録があるが、包容力にあふれる甘いマスクをしており女性受けの良い男性である。もっとも、本人の弁によると、女性に押され弱いために若いころはさんざん苦労したということである。だから、そもそも自分の射程範囲の女性しか事務所には雇わないのだと酒の席で豪語していたのを貴志は聞いたことがある。貴志はそれもどうかと思うのだが、自分の稼ぐお金で人を雇うのだから、雇い入れる人物を選ぶのに自分の好みに走っても、まじめに仕事をし、性格がよい人であればまぁ…文句はない。
「うん。起訴前の器物損壊事件らしいんだけど、私選で受任してくれないか」
「え?」
一般的に、通常の法律事務所で刑事事件を受任することはそれほど多くはない。常時1件もっていればいい方だ。
「カーニバル軽音事務所の稗田さんが加害者を連れてくる。グールーというユニット知っているか?」
「ええ、名前だけは聞いたことがあるかと」
全くテレビを見ない貴志は音楽業界のことは詳しくないのだが、さすがにグールーという二人組のボーカルユニットが音楽シーンを騒がしているのは知っている。月曜ドラマの主題曲としてタイアップしている最新曲もサビならば口ずさめる程度だ。カーニバル軽音事務所は六本木に所在する音楽事務所で、もともとボス葛城のクライアント。普段は、契約書等音楽著作権案件を中心に依頼を受けている。
「そのユニットの一人どうも、酔っ払ってやらかしちゃったらしい。」
「器物損壊は親告罪ですよ。相手方が、よっぼと怒っているってことですか?」
淡々と質問をする貴志の言葉にボス葛城が苦笑いをする。親告罪というのは、警察が勝手に動いて捜査しているというものではなく、被害者が警察に告訴することが必要とされている事件をいう。つまり、被害者がわざわざ警察に出向いて手続きをしない限り事件として立件されない。
「そういうところだろうな。このあと6時にご相談に来る。ぼくも会いたいが、ちょっと別件があってダメなんだ。先方は急いでいるようだから」
「了解です。」
ボス葛城はすでに刑事事件をほとんどやらなくなって久しい。よっぽとボス葛城が関心を持たない限り、実働担当が自分になることは、貴志も理解している。軽く会釈して、ボス葛城の部屋を退出した。
床は落ち着いたマットなグレーのハードカーペット、個室も同様である。壁にはめ込まれているグレーのステンレス製の書類棚、その他デスク等の建具はオーク材で統一されている。各個室と事務局エリアとの仕切りは向こう側に人がいるかいないかが分かる程度の全面スモークガラス。事務所は機能美を備え、全体の配色バランスがうまく計算されたデザインになっている。
秘書は午後5時が定時なので、通常、6時だと退所している。今日は佐和上ちづるが残って、6時20分に来た彼らの受付をしてくれた。貴志とは同大学同学部卒。事務所が同じになるまでは佐和上の顔は見たことがあるという程度だった。貴志はデスクの前で目を瞑って深呼吸してから受付に出る。事前に類似ケースの量刑事例を確認して、費用の概算をいくつかの場合を想定して計算し、概算を出してみる。刑事事件なので一般的な委任状ではなくて、弁護人選任書を作成しなくてはいけない。弁護人選任書は早くもらっていた方が機動力があるので、今日中ぐらいに作成してもらおうと考える。とにかく刑事事件は、起訴まで早くて10日ぐらい、長くて20日なので指針をまとめて検事に話を持って行くのに早ければ早いほどいい。ザクザクと、内容を想定して打ち合わせの準備を進める。
事務所に来たのは二人連れだった。一人は以前から面識のある稗田。小柄な40歳ぐらいの口ひげをはやしたフットワークの軽そうな男である。ノーネクタイ、濃いグレーのカジュアルスーツを着ている。もう一人が、グールーのボーカルの一人、22歳の久遠だろう。サングラスをして、グレーのキャップを目深にかぶり、黒のTシャツにジャケット、無地の深緑のカーゴパンツ、アーミーブーツという若者的ではあるが比較的地味な格好。モデルでも務まりそうな180㎝以上はある長身。手足がスラリと長く頭が小さい。スタイルだけでも常人離れをしていて人目を惹き、芸能人オーラがまぶしいくらいである。それが、どうも緊張しているらしく、俯きでじっとして動かない。肩で呼吸する動きだけが見て取れるのみである。
「こんばんわー。電話で話した通り、今日は神谷くんにお任せだから、また今度ね」
受付に出てきたボス葛城は稗田にちょこっと挨拶し、稗田がボス葛城に笑顔で会釈で返す。それだけでボス葛城は引っ込んでしまった。稗田はそのまま貴志を見て、軽いノリで明るく話し出す。
「遅れてごめんねー。交通規制がかかっていて、車が近くに置けなくて、遅くなっちゃった。」
「お気遣いなく、大丈夫ですよ。ちゃんとご連絡いただけたので。お待ち申し上げていました。」
貴志は頭を稗田に下げて、久遠に視線を移す。貴志は久遠がガチゴチの緊張状態だと感じ、これを解そうと、優しく微笑みかけて、自分の名刺を一枚渡す。久遠は差し出された名刺をじっと見て、えっ?と驚いた表情で貴志の顔を覗き込む。
「…弁護士さん?」
「さっき言っただろ?この人が先生だ。」
稗田が貴志をフォローしてくれている間も、久遠は合点がいかないらしく視線を稗田と貴志の間をうろうろさせている。
「こんばんは。弁護士の神谷貴志です。さぁ。どうぞ、こちらへ」
貴志は、きっと自分が弁護士にはみえないんだろうなぁと内心で苦笑いをしつつ、そのまま彼らを受付から第一応接室に案内した。第一応接室には、テーブルと8脚のイス、そして観葉植物、書籍を並べた本棚が入っている。応接室もチャコールグレーのハードカーペット、オークのテーブル、壁と執務室と統一されたデザインとなっている。全員が着席する。久遠は、まだギクシャクと緊張している。緊張しているということは、今度の事件について真摯に反省しているということを示唆する態度であるので、貴志はとても好ましいと思う。貴志はあごに手の甲をあてて頬杖をつくと、にっこりと笑って、できるだけ軽い感じで話し出す。
「…で、やっちゃいましたか?」
久遠は、はっとして、サングラスとキャップを外す。テレビ画面で見る眼力のある切れ長の目と、明るくしている茶髪がサラサラっと出てきた。芸能人にもいろんなタイプがいる。久遠は堂々とした見た目を裏切り、唯我独尊というタイプとは無縁らしい。真正面から目を見開いて貴志を見る。まじめな顔をしていてもなお、人の目を惹きつける魅力的な整った甘いマスクである。芸能人はやっぱり、別格で、発するオーラが違うなんて思ってしまう自分が、貴志は自分がなんだか俗物な感じがしたが、勝手に思ってしまうことはどうしようもない。
「自分では、全然記憶がないんです…。」
久遠は視線を落としたまま羞恥のため、かぁぁぁっと赤くなる。歌をうたう時の透明感のある声より、やや地味な弱弱しい声。稗田が続いて話す。
「…ということなんだ。どうも、警察の話と見た人の話を総合すると、正体が無くなるまで酔っ払い、信号で停車している車に向かって、停止線に止まらなかったといちゃもん付けて罵ったあげく、バンパーをガンガン蹴り飛ばし、車のボンネットの上にのっかって、ボーンボーンとジャンピングしたらしい。」
稗田が身振り手振りで面白おかしく話すので、貴志は、思わず笑い出してしまった。今ひとつ、現在のしおらしい久遠から想像ができない。
「…先生、笑わないでください」
久遠が、情けない声を出す。根はまじめな青年らしい。
「…派手にやりましたね。いつのことなんです?」
「一昨日の夜中。」
久遠が応える。
「…そうですか、で、被害者の方は?」
稗田が応える。
「当時、酔っ払った久遠の態度が相当悪かったらしく、カンカンで、即、警察署に駆け込んで、告訴状を書いたらしい。」
「近くに警察署があったんですか?運が悪いですね。じゃあ、久遠さんは警察に行ったんですね?」
「やっかいになりましたよ。親じゃなく、ぼくに連絡が来ましてね…ぼくが引き取って帰ったんです。」
「とっさに、酔っ払った頭じゃ稗田さんしか浮かばなくって…」
久遠が恐縮して、一層、大きな長身の体を小さくして下を向く。稗田はそんな久遠の背中をポンポンと叩く。
「ぼくが情報をコントロールできるので、ある意味良かったですが…。警察や被害者に芸能人であることもバレてしまってね。」
久遠が長身の身体を申し訳なさそうに、更にできるだけ小さくしようとしている。
「担当刑事さんの情報ありますか?」
「ええ、I警察署刑事課の近藤刑事です。」
貴志はメモを取って、とりあえず話しを先に進める。
「被害者の情報は?」
「上野さんということしか。その他はまったくわからないです。」
「じゃあ、担当刑事さんに聞くしかないですね。」
「謝りたいっと言って、僕が刑事さんにきいても教えてくれない。」
久遠が急に口をはさむ。貴志は不満顔の久遠を好意的に見る。
「ええ、個人情報ですからね。私が交渉してみましょう。マスコミの方は?」
貴志は稗田に視線を振る。
「今のところ押さえています。被害者の方も黙っていてくれているみたいです。」
「稗田さんに感謝しないとね。」
「ホントに、お世話になっています。酒に弱いの分かっていたんですが、つい飲まれちゃって。」
貴志が久遠に諭すように言うと、久遠が穴があったら入りたいという勢いでささっと小さな声で返す。
「自制が効かない人は、飲んじゃだめです。酒なんて、飲み始めたら止まらないんです。今回を機に十分反省してください。」
貴志は、ともするとうわっすべりな感じになるような言葉を、できるだけ真剣みがあるように感じさせるため、ゆっくりと噛みしめるように話す。
「…はい」
久遠はしゅんとしている。まるでゴールデンレトリバーのような大きな犬が、頭を項垂れて椅子の上で丸まって小さくなっているように見える。衝撃を受けているときは真摯に聞いているのだが、のど元過ぎれば何とやらというタイプが多いのも事実である。そういうタイプでなければいいのだがと心の中で祈る。
「今回は、器物損壊ということでしたが、これが対人になると、暴行罪や傷害罪、警官相手だと公務執行妨害罪。とんでもないことになりますよ。」
「…わかります。」
「久遠さんの声、大好きですから、頑張ってください。聴けなくなったら、ファンの人も悲しいでしょ?」
「ありがとうございますっ。もう、飲まないようにします!!」
久遠の至極まともに反省しているような態度を見て、貴志はほっと一息つく。これなら、刑事の心証もそれほど悪いことにならないはずである。初犯、すなわち前科前歴が無ければ、それほど大したことにならないだろう。
「稗田さん、被害者と連絡が取れたら、ご連絡します。示談金の準備と、久遠さん。反省文を書く準備、お願いします。金額は、先方の損害の程度を確認してご提案しますので、それまでお待ちください。」
「わかりました。で、久遠なんですが…」
稗田がまじめな顔をして貴志に助言を求める。
「うちは、警察沙汰は初めてのケースなんでよくわからないのですが、活動を自粛した方がいいでしょうか?」
久遠を見ると、畏れ入ったように体を小さくしてじっとしている。やっぱり、忠犬な感じだ。
「…そうですね、他の被害がないか確認しないとわからないですね。被害者となるべく早くコンタクト取ってみます。あまり変更しなくていいと思いますが、とりあえず、今週はできる範囲で抑え目でお願いしていいですか?」
「そうですね。調整してみます。」
「ちなみに、久遠さん。前科ってあります?」
貴志は久遠を見て、質問する。前科前歴の情報は、刑事弁護において重要なものになる。その有無によって、対応が異なる可能性があるからだ。
「警察に捕まったことはないよ。あ、でも、高校2年の時に、街フラフラしてて、警察で怒られたことはあるけど。」
「…それは、前歴になってるかどうかですね。少年の時だから、大丈夫かな?」
少年事件、つまり、20歳未満の者が起こした犯罪、犯歴のことをいう。警察検察内部では、前科前歴をデータとして保存していて、名前と生年月日を一致させると、一発で判明させることができる。判決が出ているものは、前科となるが、それ以外、判決に至らない段階で留まった案件は、前歴として情報が保存されている。少年事件の場合、成人すると基本的にデータが消える。
「じゃあ、久遠さんの本名教えてもらっていいですか?」
「劉瑛展」
久遠が口にする。一瞬、貴志の動きが止まる。
「…あ、中国人?漢字、書いてもらっていいですか?」
貴志は、メモ用紙を一枚切り取って、鉛筆と合わせて久遠の前に滑らす。久遠は整えられた指でペンをとり、自分の名前を漢字で書いて貴志に戻す。
「在日です。親は香港から来ました。生まれてからずっと、東京で育ちました。」
「稗田さん、ごめんなさい。おれ、音楽業界情報に疎くてわからないんですが、…これ、人に知られていい情報ですか?」
「あまり、知られていませんね。今のところ、ファンも知りません。」
「韓流だとか、華流とか最近はいいますが…」
「ええ、でも、ちょっと影響がわからないので、保留にしています。とりあえず、現状、ミステリアスな部分を強調したイメージ戦略をとっているので。」
稗田が久遠の顔を見ながら言う。貴志はメモをする。非公開情報と。
「了解です。最大限配慮してみましょう。示談書などは、書面の形として残るので、むしろ『久遠』の名前が出ない方がいいかもしれませんね。住所は当事務所の住所を使いましょう。」
「お任せします。」
「弁護人選任書、書いていただいていいですか?えーっと、事件名は器物損壊事件、劉さんの本名と警察に教えた住所。弁護人は私の他、ボスの葛城と他の事務所の弁護士名が書いてあります。」
弁護人選任書のフォーマットを久遠から見て正面になるように出すと、久遠がサラサラと書いていく。
「印鑑ありますか?」
「はい」
稗田が鞄から劉の印鑑を取り出して、貴志の指示に従って押印していく。貴志がにっこりして弁護人選任書を受け取る。
「じゃあ、進展があったらご連絡しますね。」
貴志は、終了の合図に立ち上がる。そして、二人が席を立って、事務所を出るのをエレベーターの扉が閉まるまで見送った。貴志が打合せ室に戻っていると、佐和上さんが執務室からパタパタと走ってくる。
「ね、ね、今の久遠?久遠?」
片付けにやってきたのかと思いきや、意外と、ミーハーなノリになっている。 貴志が、テーブルの上に乗ったファイルを手にしながら、軽く頷くと、佐和上が両手を組んで、目をキラキラと輝かせて宙を見上げている。
「帰ろうと思ったんだけど、思わず、出待ちしちゃった。」
「…うん。構わないよー。既婚者の生活にも潤いと変化は必要だから」
貴志がいたずらな視線を送ると、いやだ、もうっと佐和上がぷぅっとほほをふくらます。
「じゃ、お疲れさん。」
「あの、宅配便届いていたから机の上に置いておいたんですけど…」
「了解。じゃ、本当にお疲れさん」
貴志がニッコリすると、佐和上は笑顔になって頭を下げ、手早くテーブルの上にある飲みかけのお茶を片付けて行った。
デスクに戻ると、佐和上が言っていた宅配便が積み重ねられた書類の上に乗っている。発送元を見ても、今一つピンとこないなぁと思いながら貴志は電話を手にする。午後7時過ぎ、弁護士職務便覧の該当ページを開き、110番ではなく、…と言っても、下三桁は110となっているI警察署の受付電話番号を直接打ち込む。夜の時間帯だと、受付のお姉さんは帰っていて、だいたい若者かオヤジの受付が出てくる。簡単に名乗って刑事課に回してもらう。まだ、近藤刑事は在席していた。
「劉瑛展の弁護人の神谷貴志と言います。近藤さん、被害者が上野さんという東池袋駅北口付近であった器物損壊事件、ご担当でよろしいですか。」
「あぁ?あいつの弁護士さんかい?」
野太い、刑事らしいぞんざいな話し方をする。基本、刑事の天敵は犯罪者の弁護をする弁護士なので、警戒している雰囲気もある。
「ええ。弁償もしたいし、本人が真摯に反省しているので、被害者と連絡取りたいんですが…」
貴志は極めて上品に、ソフトな口調で話を進める。丁寧な口調で下手に出られると、刑事もつっけんどんにはできない。特に、被害者の立場を慮って弁護方針を立てる弁護人には、あまり悪い感情は持たないはずである。新人の時、立場が真逆でありながら警察署でその場で初めて会った係官に過剰な好意を持たれた過去をもつ貴志は、警察官も人の子とタカをくくっている。どうせ舐められるのであれば、それを利用して自分に有利に持っていくしかない。
「それかぁ、被害者にきいてみないといけねーなぁ。」
案の定、口調が軟化した。
「本件、送検済みですか?」
送検というのは、事件を警察署から検察庁に送致することである。送検済みであれば、基本的に検察庁の検察官と交渉しなければならない。
「いやぁ、まだだな。身柄じゃないし。」
身柄というのは身柄事件を省略した言葉で、逮捕勾留をされて被疑者の身柄が拘束されている事件である。貴志は下卑ない程度にめいっぱいソフトな声色でお願いベースで許可をとるように話しかける。
「弁選、明日、そちらに持って行っていいですか?」
弁選は弁護人選任届のことである。フッと笑うような音が聞こえた後、近藤刑事が話し出す。
「センセ、仕事早いなぁ。いいよ。明日、午前中は署にいると思うよ。」
「ありがとう。10時ころに伺います。よろしいですか?」
「わかった。」
「よろしくお願いします。」
近藤刑事との電話を切った。近藤刑事の軟化した話し方からすると、感触は悪くない。送検前に交渉に入れば、事案の処理スピードも遅くなり、あわよくば、立件自体を抑えることができるかもしれない。被害者に告訴状を取り下げてもらうのが最大の効力がある。ま、いずれにしろ、被害者に弁償できれば、最悪でも、起訴猶予処分でなんとかなるだろうと考える。
翌日、早朝からネットを立ち上げ、記事の検索をかける。久遠のネタがどこかに行っていないか確認するためだ。とりあえず、ざっと見た限り通常のネタしかヒットしないので、一度胸をなでおろす。
出勤前に池袋の方に出かける。事務方に書面を託して届けてもらってもいいのだが、弁護士が直接行った方が、インパクトがあるので、自ら行くこととする。弁護士バッチも上着につけていかなければならない。警察署一階の窓口で、刑事課につなぎをとる。
貴志は外見上、たいがい免許の手続きや面会に来た一般人と間違えられるので、第一声として、弁護人であることを告げる。そうすると、署員もスーツ襟元のバッジに目をやり弁護士であることを確認してくれる。弁護士が来ると、通常接見を行っている留置係に行くと勘違いするので、刑事課である旨明確に述べる。この警察署は比較的新しく、エレベーターもスムーズに上がっていく。近藤刑事は予想通り、柔道でもやっていそうな体格のいい短髪、ややよれよれの目立たないグレーのスーツを着た、いかにも刑事らしい30代後半ぐらいの刑事だった。近藤刑事はパソコンを前にしてデスクワークをしていたようだった。席を立ち、あくびをしてぽりぽりと頭を掻きながら貴志のいる方に歩いてきたので、貴志はにっこり笑う。
「おはようございます。昨夜お電話した劉の弁護人の神谷です。」
「あぁ、センセだね。早くからゴクローさん。」
電話を通した声よりは、若干若々しい声である。『早くから』なんてお世辞を言われるような時間じゃないのに…いや間接的な嫌味か?などと思いつつ、弁護人選任書をカバンから取出し手渡す。
「こちらが、弁選です。で、受取り印をこちらにお願いしていいですか?」
さらにもう一枚、そのコピーを差し出すと、近藤刑事は台の上でがしゃがしゃと受領印を探し出し、回転式スタンプの日付を確認して押印する。貴志は世間話をしているかのように続けて話す。
「本人は、もうお酒も飲まないというぐらい反省してるんですよ」
「ああ、そうしてもらいたいもんだな。」
フッと口元を緩めて笑う。貴志は何事かと近藤をじっと見つめていると、近藤は低い声で続けていう。
「それで、被害者と連絡が取れたから。弁護士限りで個人情報がとどまるなら伝えていいと言っていた。だから、これが、電話番号と氏名。住所はここだ」
近藤刑事は、付箋に被害者の情報を書いていてくれ、それを先ほど押印していたコピーに添付して貴志に渡してくれた。武骨な手をした、いい人である。
「了解いたしました。近藤さんも仕事が早いですね。」
貴志が昨日の会話を引用して冗談めかして笑顔で言うと、近藤刑事は、まぁな、と言って、また、頭をポリポリしながら照れくさそうにする。告訴状が取り下げられれば、面倒な送検手続きもしなくても許容されるので刑事としても仕事が少しは楽になるはずである。
「結果はすぐにご報告させていただきます。『万が一』、送検する場合には、担当検事をご連絡していただいてもよろしいですか?」
『万が一』を強調して、全体としてはお願い口調で柔らかく角が立たないように話す。これで、できれば送検にならないでほしいというニュアンスは伝わるはずだ。近藤刑事は黙って頷いた。朴訥として、そっけない感じだが、まじめに刑事の仕事をこなしている感じが伝わってくる。確約を得ようと、貴志は極上の頬笑みを作った。
「そして、感謝してますよ。」
「なに?」
近藤刑事は、貴志の口調の変化に一瞬何事かと構える
「今朝、新聞に載っていなくてホッとしました。記者のネタになりそうな事件なのに」
近藤刑事は、あー、とゆっくり頷く。
「…マネージャーの人必死だったし、すぐに弁護人と連絡着いたから、いいかなと思ったんだ。被害者もだいぶトーンが落ちているし。」
「いい判断ですね」
嫌味なつもりではなく、貴志は思わず言ってしまう。警察庁にもマスコミ用の記者クラブがある。マスコミが関心がありそうな事件は記者の目につくところに放り込まれる。すざましい事件はもちろんだが、芸能人ネタもその一つである。警察官も記者にアピールしようと結構ミーハーなタイプもいる。
近藤刑事は咳払いを一つして、貴志をまじまじと見ている。
「…余計な世話だったか?」
「いえ、有難いです。」
面白い反応する人だなと感じながら、貴志は近藤刑事の軽い揶揄を躱すことなく、正面から答える。当然、久遠の立場からすれば、とても助かる対応である。頭を下げて貴志が去ろうとすると近藤刑事のつぶやきが耳に入った。
「…奴も、いい人間が周りにいてよかったな」
奴というのは久遠を指すのだろう。以前から、久遠を知っているのだろうか。そんな温かみのあるニュアンスを感じさせるつぶやきだったので、少し確認する。
「彼をご存じだったんですか?」
「…まぁ、管轄内にいたからね。ほかのやつらと同じことしていても、あの風貌、目立つだろ?」
通常の会社員が帰宅するぐらいの時間を見計らって、8時ころに久遠の自動車損壊事件について被害者上野の自宅に架電。被害者上野との交渉は、あっけないぐらい、簡単についた。電話をかけ、会って彼の事情を聴く約束を取り付け、バンパー、ボンネット等の修理代金、そして、自動車が使えないことによって生じたその他諸々の損害を確定できればいい。久遠に会うのは結構だということだったので、カーニバル事務所に電話をして示談金と、久遠の反省を記した手紙を渡す手配をする。そして、慰謝料を考慮して稗田と提示できる上限金額を決定し、被害者上野に再度電話して示談金を提示し、示談書の内容として告訴の撤回、事件のことを誰にも話さないという守秘義務にも同意してもらった。
同意した条件に沿ってざっと示談書をドラフトしてみる。誤記が無いか各資料を当たって、今日届いた郵便物とメールの確認を終えて、夜9時ごろ、ネクタイを外したスーツ姿のまま事務所を去る。事務所内はだいぶあちこちの電気が消え暗くなっていたが、まだ明かりがついた部屋があるので、自分が最後ではないらしい。
事務所から自転車で約10分。神谷町の駅から徒歩5分のマンションの5階、都心にありながら緑にかこまれた一角。半年前、父親が亡くなって家族がいなくなっのをきっかけに、満員電車の通勤を嫌って事務所の近くに引っ越してきた。自分の部屋に帰った貴志は、ズボンの中に入っていた財布、首にかけていたカードキー、アタッシュケースをテーブルの上に放りなげ、眼鏡を外し、スーツの上着を椅子に掛け、そのままベッドの上にバサッと上向きに倒れる。白い天井を見上げながら、額の上に腕を乗せ蛍光灯の光をさえぎって、目をつぶる。夜12時前、携帯の電話が鳴る音が聞こえる。バッハのAirは特定の人物からの着信を示す。
「今、どこにおる?」
携帯から響いてきた声は、案の定、聞き慣れた低い声だった。
「家だけど?」
「ひとり?起きとった?」
「ああ。」
反射的に小さな嘘をつく。起きていなかった。何故ついたかなんて、寝ぼけた頭には考えられない。はたして、要人に届いている声は寝ぼけているだろうか?
「ほな、来いや! 神谷町の交差点のレンタルビデオの前な。」
「は?」
もうすでに、電話は切れている。有無を言わせない、「俺様」だ。
要人は酔っているのかと考えながら、黒の無地Tシャツと細身のストレートジーンズ、後ろポケットにカギと携帯と財布を入れ、グレーのパーカーをひっかけて素足に黒のヌバック製ローファーを履き、グレーのキャップをかぶり外に出る。からりとした風がふわりと吹く。濡れたままの髪だが、それほど寒くない。電燈やビルの窓からの明かりで都会の空の星はほとんど見えない。神谷町メトロ駅の近くの交差点に行くと、深夜営業のレンタルビデオ店の煌々とした店のライトを背に、濃紺のスーツを着た要人が1人で立っていた。
「よぉっ」
貴志を認めると、右手を挙げる。貴志は信号が青の交差点を渡って要人のそばに駆け寄る。要人はゆるいくせ毛を風になびかせて、ほろ酔い加減だった。
「おおっ、学生に戻ったみたいやな。」
要人は、貴志の眼鏡をかけない頬を無造作に引っ張る。貴志は怒ったように要人の手を払いのける。
「終電に乗り遅れた?タクシーは?」
「固いこと言うな。僕まだ新人やから官舎は遠いし、公務員はすこぶる薄給やし。」
肩をすくめて困ったふりをしながら要人は朗らかに言う。
「福利厚生ばっちりで、人様の10分の1の家賃で広い官舎に住んでいる奴に言われたくないね。収入が少なくても、出が少なければ文句はないだろう。じゃあ、これから六本木にでもくりだすか?」
貴志は、要人の意図がわかっていて、わざと提案してみる。もちろん、要人も貴志の態度を理解してからかうように言う。
「その格好で?」
貴志はひょいと肩を竦める。要人は視線を一度地面に落とし頷いたように頭を一回下げ、また、顔を上げて貴志の眼を見る。
「…いや、話そうや。」
貴志は目を伏せて、仕方ないなぁと首を振る。
「いいよ。でも、部屋に提供できるもの、何にもないから。」
「わかってるって。」
要人は、微笑んで、缶ビールやらチーたらやらが入ったコンビニ袋を持ち上げてみせる。貴志は再び小さく肩を竦め、観念したよと背広の上から要人の背中を押して歩きだした。
要人は、玄関に自分のカバンと脱いだ上着を置き、靴を揃えて部屋に入る。目に入った仏壇に缶ビールを2本を置いてから、軽く手を合わせ、テーブルに戻ってきてコンビニ袋をおいて椅子を引き出す。缶ビールの栓を開けながら、ぐるりと1DKの部屋を見渡す。
「相変わらず女っ気のない質素な部屋やなぁ。」
憮然として貴志はいつも食べている薄切りのサラミとプロシュートの生ハムのパッケージを冷蔵庫から出す。レモンをだして櫛切りにする。それらをポンとテーブルに置くと、要人が尋ねる。
「あー、やっぱ、あるある。これ、このまま食べるのか?」
「うん。最近のおれの好物。どうぞ。しょっぱいのが嫌いでなければ。レモンはかけても生噛りでもどうぞ。」
貴志はレモン汁が付いた指先を舐めて、酸っぱいという表情をしながら、要人の向かいの椅子に腰かける。パックのシールをはがし、お互いにくっついているスライスされた大きなサイズのジェノバサラミを一枚ずつはがす。生ハムも同様にバラして白い大皿に並べる。櫛切りにされたレモンを中央に乗せる。その皿に要人がレジ袋から引っ張り出したチーたらも並べてしまう。
「酒飲みじゃないのに、酒のつまみは常備。あいかわらずやな」
「おれにとっては食事用で、酒のつまみじゃあないから。」
要人も一枚サラミをぺろーんと引っ張り出して、口の中に放り込む。
「うん、いける。」
貴志は要人がサラミをはむはむして食べるのを見ながら、頬杖をついて考えている。
「…ほんとに、知財?研修所では全く関心がなかったようだったけど。血迷って、知財専門部に配属になったのかと思ってたよ。」
「そりゃ、当初は文系出身者にはお門違いかと思ったからさ。確かに、理系至上主義の特許の世界に、文系の僕が入り込むとは僕も焼きが回ったかいな?」
「そうなんじゃないか?おれは文系でも気にしない。でも、要人っぽくはない。どこでも、トップを目指す主義だろ。」
「ばれてた?」
要人はニヤリとして楽しそうに笑う。いつでもトップを目指しているやつである。どちらかというと計算尽しで人生を歩み、権力志向でいるのに、それを他人に嫌味に感じさせないだけの配慮ができる。本当に賢いやつというのは、こういうことじゃないかと貴志は思う。
「文系なのに知財に飛び込むお前を見ていたら気が変わったのさ。特許は各分野の最先端技術が権利として成立していることが多いだろ。それに、ぼくは理系には進まなかった。けど、理系が嫌いなわけではあらへん。高校の友人もほとんどが理系や。」
要人はビールを一気にあおって、続ける。
「紛争を解決する裁判官が特許各分野にまたがる色んな技術分野を極めてもしゃーないからな。それこそ人間の限界を超えている。一般的に事実の有無についての争いはあんまりシビアではないから、極端なことを言うと、知財で裁判官に必要とされて役割はほとんどが法律解釈のみ。法律解釈に文系も理系もない。技術解釈は、裁判所は専門委員制度で各分野の知識が豊富な専門家を部に配属させるなどしてフォローしてくれる。専門家に説明を受け技術を理解できる脳ミソさえあれば、あとは法律解釈で何とかなる。今は、一応、知財で極められたらなぁーと思っとる。知財に強くなりたい。」
「ふぅーん、本気で関心あるんだ。」
貴志はまだ何となく疑った態度をしているが、要人は、力強く頷く。
「知的財産権には発明者の熱い気持ちがあるけど、極端なことをいってしまえば、あくまでビジネスや。難しいクイズの回答を求められているようなものや。知的財産権は、昔からある有体物に対する権利であらへん。人間が決まりを作って、権利を作って、人間の創作力を金のなる木にして保護しようとしたもんや。一番、作り変える余地のある面白い権利やと思わへんか。アメリカは日本と制度が違うけど、日本はまだまだアメリカを見続けている。アメリカが制度改革を進めて世界の先端を行こうとするとき、技術大国であろうとする日本が遅れてしまってはいけない。」
アメリカは世界の潮流に乗るために、近年特許制度の大改正を行ったばかりである。貴志もアメリカの重要判例や情報などはフォローしている。
「アメリカには幸い、今、日本に注目してくれている連邦巡回区控訴裁判所の裁判官がいるよ。今度、日本に講演に来るよ。Gロースクールで教鞭もとっているはず。」
「現役の裁判官が、普通の私立大学であるロースクールで教えているのか?」
「そうだよ。あれ、変かな?確か、出身校なんだよ。」
貴志は考え込む。公務員は一般的に公務専念義務があるのでバイトや兼業はできないようになっている。アメリカでも裁判官は公務員のはず。
「うちの部長たちも知っとるかいな?」
「知財担当裁判官同士で国際交流しているから、仲いいはず。」
「ほんなら、聞いてみる」
要人は、頭の中でメモするように貴志の話を記憶したはずである。冗談を言わない時の要人の顔は、シャープな頬から顎のラインにまっすぐな鼻梁、落ち着いた眼力のある茶系の眼に整った眉をして男らしい。古代ローマ彫刻のように崇高で、少し近寄りがたいようなオーラさえ感じる。
「刑事事件や少年事件やっていると、どんなにおちゃらけた裁判官でも、表情に威厳が出てくるっていうのは本当みたいだね…札幌では、そういう事件ばっかりだった?」
「ぼくのことかいな?」
要人は、そんな自分の硬い雰囲気を自覚しているのか、それを崩すのがうまい。友人の前では、ふわっとした笑顔を作る。
「俗世の毒気がなくなるというか…」
貴志は思わず手を伸ばして要人の精悍な頬の輪郭を整った指先でそっと触る。貴志は一瞬ザラリとした感触にドキリとして手を引っ込める。要人は貴志の手を掴んで、貴志の眼を見ながらニヤリと笑って顔を近づける。
「確かに、被告人をビビらせる必要があるからな。もう二度とここには来たくねぇーっと思わせなあかんから」
何かが始まるのか、そんな気がしたが、期待してはいけないという気持ちがセーブをかける。おそるおそる、また、頬をサラリと撫でてみるが、何も感じないのか要人は動かない。しばらくじっと貴志を見ていたかと思うと、深く深呼吸をする。
「ああ。やっぱり、言わんといけない。」
「何?」
「うん。この9月ぐらいに結婚するんだ。」
貴志の手が止まった。突然降ってきたキーワードに思考回路がすぐさまには働かない。けっこん…。
「…誰が?」
「もちろん、ぼく」
本当の友人ならば、一緒になって喜ぶべきではないのか?貴志の頭脳は、突然、猛スピードで通常あるべき友人の姿を模索する。伸ばしていた手を引っ込めてにっこりと笑って返す。セリフを躊躇してはいけない。
「おめでとう。」
要人は少しだけ眉を顰め、貴志の反応をやや訝しがる様子があったが、話し出した手前か、自分が伝えたいことを続ける。
「披露宴来てくれるか?あと二次会の企画手伝えるか?」
貴志は遠くで自分を見ている感覚に襲われる。友人としてあるべき返事、あるべきセリフ。それを自動的に口にのぼらせる。こんな友人の慶事なのに、少しも本心で喜べない自分にもがっかりする。どこか、心が歪んでいるように感じる。でも、内心は臆面にも出さないで、気軽な友人を演じなくてはならないところだと自分を叱咤する。
「いいよ。地味なおれでいいの?日程が合えばいいけど。」
「合わせるさ。彼女がうんと派手なやつに司会をお願いしたらしいんだ。でも、会社の奴らとかは、ほらまじめ―なやつも多いだろう?ストッパー的な立場でお願いするよ。あと、受付とかの金銭管理と…。」
彼女、彼女っていったい誰だろうと考える。でも、聞いたって知らないから聞きたくない。徐々に、もろかぶりだったファーストインパクトの衝撃が弱まってくる。
「要するに、式典、披露宴から二次会までフルで手伝えってことだね。」
「うん。そうや。弁護士っていうのもちょうどええ。ちょいと砕けた法曹やから、公人と私人の真ん中っちゅう感じで。」
「砕けたって…庶民の味方といってくれる?」
貴志は、少しムッとしたふりをする。確かに裁判官ほどお固くはないが、砕けているのか?きっと、研修所時代の同期や教官をいっぱい呼ぶつもりなんだろうと考える。芸能界のように破格なことにはならないが、弁護士を呼ぶとみなそれなりの金額を包む。研修所時代に結婚した奴らから、弁護士になってから結婚すればご祝儀がたんまりになるからよかったと後悔する言葉をよく聞く。ま、要人の場合は本当にお祭りしたいんだろうなと思う。異様に高い弁護士の離婚率。暴力団に取り込まれた弁護士。横領や詐欺、わいせつ行為など犯罪行為に手を染める弁護士。などなど、たしかに砕けている奴もいることはいるが…。
「ま、こんな知的なべっぴんさんが司会してくれるとぼくの鼻が高い。」
「そこか?」
「ああ、ぼくのプライオリティーはそこが高い。どうせ、あいつもキャビンアテンダントや学生時代の友人をよーけ招くはずやから、美人だらけだぞ。ほんやけど、貴志は負けておらへんと思う。」
CAなんだと、理解する。そういえば、大学時代の同窓がCAになったとか言っていなかったけ?その人のことだろうか?でも、付き合っていたか?
「ま、喜んで、手伝わせてはもらうよ。」
「やった。」
要人は軽くガッツポーズをする。
「普通は、そこでいい彼女でも見つけろよって言うんじゃないか?」
「…僕は言わへんよ?貴志は貴志のペースで掴めばいい。そやけど、美人と美人がくっついたら、きっと、超美人が生まれるんやろうなぁ…」
あまりに下らないコメントに外見上は聞き流すようなふりはするが、荒んで乾いた土に水を注いでくれているような感じがする。いつもの要人の言葉は心に気持ちいい。そんな貴志の心情を知っていて、要人も意図的に貴志に歯が浮くようなことを再々言ってくれているような気もする。20歳の時からずっと付き合ってくれているかけがいのない友人だ。こんなに長く続いている友人関係も貴志にとっては珍しい。その友人もとうとう結婚するということだ。前向きに応援しないとと、無理にでも気を奮い立たそうとする。
「…この裁判官、10年前は、髪を緑に染めてたなんて知ったら、被告人も驚くだろうなぁ。なぁ、おれだって、初めてお前を見たときおどろいたから。受験勉強のし過ぎで頭のネジがふっ飛んじゃったのかと思ったよ。できるだけ近寄らないでおこーと思ってた」
「昔のことは、わすれよーぜ。初めての一人暮らしで、体に羽が生えちゃっていたのさ。」
要人は、ふふふと笑う。要人が大学1年、貴志が2年生の時、司法試験予備校で、ある日突然要人は短い髪を目の覚めるようなアッシュグリーン色に染め上げてきた。貴志がこんな奴いたかなと思うほどかなり目立っていて、当時、まだ要人を知らなかった貴志はできるだけ接触しないように避けていた。ただ、浪人してT大に進学した高校の同級生と話をしていたから、こんな外見でもT大なんだとちょっと変な意味で感心していた。それはもうはるか遠く、隔絶の感がある。時間がたったということだ。