再会
ヨハン・ゼバスティアン・バッハの『管弦楽組曲第3番』第2楽章「アリア」の、ピアノ伴奏付きのヴァイオリン独奏のための1871年の編曲版の通称、G線上のアリア。ヴァイオリン4本の弦のうち最も右手よりG線のみを使って弾くことができることからそう呼ばれる。
古いDVDのリピート演奏を細長い指でノートブック型のパソコンを操作して止める。この曲を聞いて、思い出すのはただひとり。大切だった、いや、しばらく会わなかったが未だに胸を刺すぐらい大切な奴だ。そいつに今から会う。彼は裁判官だ。誰にでも人当たりが良く、裁判の運営も上手く隙が無い。上席の裁判官にすら人気がある。それに引き替え、自分は会話もうまくないし、取り柄がなくてつまらないタイプの男である。だから、そんな自分に関わる時間があったら、どんどん上を極めればいい。そう思って、彼が転勤になったのをいいことに今まで距離を遠ざけていた。数か月に一度ぐらいだが、メールのやり取りはした。でも、メールは色々と隠せるから都合がいい。じっくり時間がかけられて文字という部分で客観的に考えて書くことができるから。自分をどう思ってくれているのかなんてすら考えて甘えてしまう気持ち。自分に一体いつまで構ってくれるのかという不安。すべてすべて隠し通せる。メールも電話も意図が正確に伝わらないからと言って彼は毛嫌いするのも知っているから、物理的な距離が克服できない以上、自然と連絡がつく回数は少なくなる。なのに、正面から誘われると、のこのこと出てきてしまう自分がいる。その緊張を解こうと、無理に他のことを考えようとする。パソコン上、右下の表れている時計に目を止めると午前10時10分前。
「…時間か」
約束だからやっぱり行かないと、青年は深くため息をついてから、パステルミントカラーの椅子から立ち上がった。
4月第1週月曜日、午前10時過ぎ、晴れ、東京、千代田区霞ヶ関、東京弁護士会館の玄関先。気温がぐっと上がった春の日差しの中、道路向かい側の日比谷公園から一陣のさわやかな風が吹く。早い今年の桜は既に満開を過ぎ、緑に色づいている。この辺りは官庁街で、皇居も国会議事堂も近く、いざというときには戦車が通ることを想定しているせいか、交通量に比較して道幅が異様に広い。この下には、巨大な地下構がぽっかりと空いているらしい。貴志が初めて東京地方裁判所に来た時からずっと工事中だ。大災害時に首都機能、ライフラインを確保する目的らしいが、機能を一か所に集めてどんだけ実際役に立つことになるのだろうかと思う。彼らがいるのは弁護士会館の前。霞が関の中でも、ピンポイントで裁判官には何の用事も無い場所である。風が強く吹いて、肌に空気の振動を感じるほどだ。この調子では桜の花びらは今日中にすべて落ちてしまうだろうと思いながら、交通量の少ない5車線道路向こうの日比谷公園の緑を眺める。
「…なに考えとんの?」
いきなりな感じで耳に声が飛び込んでくる。視線を声の方に向けると、待ち人がいつの間にかすぐ近くまで来ていた。
「あー、要人…」
「はははっ、相変わらずやなぁ。」
要人とよばれた青年は、大笑いをする。身長はもう一人より少し高い。やや癖のある短髪を後ろになでつけ、もともとは精悍な顔付で、その近寄りがたい外見にもかかわらず、醸し出すおちゃらけた雰囲気が他者に対する敷居を低くして人を惹き付ける。もっとも、地がそうなってしまっているのか、計算の上で演じているのかは不明だ。パリッとした白いYシャツに、えんじのネクタイ、淡いグレーのスーツ下、黒地のスニーカーの軽装。書類に埋もれがちで、お固いイメージのあるはずの裁判官のくせに、スポーツ青年らしい清涼感がある。法廷で法服を着ていたら別であるが、それ以外では彼が裁判官であることは全くわからない。
「…本当におれでいいのか?」
「ああ?当ったり前やろ?無理に呼び出したのぼくだし。」
要人の快活な雰囲気と対照的に、神谷貴志は、戸惑いがちな口調。すらりとした躯体に濃いグレーの細身のスーツを纏い、銀色の半フレームの眼鏡をかけ、額にかかる黒髪がサラサラ風をはらむ。風を受けて前を見あげた涼しげな目はビルに反射した太陽の光が入って一瞬煌めく。紺地に複数の寒色系の色が混ざり合ったストライプの細めのネクタイ、白い襟のついた薄い空色のカラーシャツ。B4サイズの大きいドライカーボン製のアタッシュケースをもつ。29歳、W大学法学部卒。
弁護士になるための難関である司法試験には大学を卒業してからすぐに合格。貴志は弁護士バッジはつけていないが、1年6か月の司法修習を経て、弁護士になってからすでに4年超。弁理士登録してからは3年超。さすがに、もう新人とは言えない弁護士・弁理士。怜悧な雰囲気を漂わせているが、元が年齢不詳の繊細な顔立ちのせいか眼鏡をかけていても初々しさが残る。
「その道の専門家だろ?」
「まぁ、そうだけど。でも、きっと要人なら他にも…。」
「ぼくは貴志がええから。」
貴志の肩に手を回しながら明るく応えたのは和泉要人。貴志は片方の眉をあげて、真横にいる要人をじろりと見ると、要人はニヤリと口角を少し引き上げる。貴志は久しぶり会う要人に、少し緊張する。肩に置かれた手もそのまま離れていってしまい、物理的距離はない気もするのに、なんとなく距離感を感じる。自分の気持ちの問題か、それとも実際にそうなのか。
28歳、T大法学部卒。大学も学年も違うのにどこが接点かというと、貴志とは司法試験の受験時代からの知り合いで、司法研修所で貴志と同期。司法研修所は司法試験に合格した者が法曹三者になる前に研修する、最高裁判所管轄の研修機関。研修終了後のいわゆる「二回試験」に合格すると、裁判官、検察官あるいは弁護士になる資格が得られる。要人は研修所同期では一番若くて優秀、そして、クラスではいわゆる宴会部長で遊びでも中心になって活躍していた。あまりに学問でも社交性でも卓越した人材だったため、研修所時代、同郷の民事裁判教官に痛く目をかけられ、そのまま裁判官として絡め捕られてしまった。バイタリティーあふれた頂点に昇れる男である。司法修習を貴志と同期で修了し、現在は東京地方裁判所民事部の判事補。すなわち任官してから10年以内の裁判官。
「ふつー裁判官ならここには来ねぇーぞ?」
「そら、フットワークが軽いのが僕のウリやから、かまへんよ。僕のプライベートに文句があるなら、かかってこいやという感じやな。」
要人は手先を上向きにクイクイと動かし、ファイティングポーズの真似をする。
「国民の税金で働いているんだろ?おれのような自由業と違って、思いっきり、勤務時間内じゃないか。」
「専門書を買うのも、お前のような専門家と話すのも業務に関連しているからええんや。でぇ、なんや、僕が札幌に悲しく1人で飛ばされて、僕のおらへん間に変わったことは?」
貴志が、話す内容は全く業務に関連が無いじゃないかと鼻で笑うと、要人も軽く笑う。でも、貴志には別に特にアップデ―トすべき情報もないので、首を横に振る。
裁判官は任官後、さらに司法研修所で研修をして、各裁判所に配属される。独身で若い要人は、思いっきり飛ばされて、初めての赴任地は札幌地方裁判所に配属された。ウィンタースポーツが楽しめる上にご飯は美味く、かといって他方、都会的な要素もあるため、実は、人気庁である。裁判官の転勤はだいたい3年に一度、年度末にある。主な理由は、風通しを良くして地元との癒着を減らすということらしい。検察官も約2年に一度転勤がある。定期的な転勤があるかないかが弁護士と他の法曹とを分ける、大きな違いとなる。
今、要人の所属している東京地方裁判所には知的財産権の事件ばかりを扱う専門部が存在する。この4月の移動で、要人は札幌地方裁判所刑事部から、この知財専門部に配属された。今日は、要人からメールが入って、新しく知財専門部に赴任したから、知的財産権を勉強するにあたってお奨めの文献を紹介してくれというものだった。新しい部署への赴任が判明し連絡を受けた際、貴志は要人が知財専門部に配属される以上、事前に何かしら勉強してんだろうとは内心思ったが、頼まれていくつかの書籍について、リストを送ってやっていた。しばらくして要人から、札幌にはないというメールが届いたので東京に異動後、初めは東京地方裁判所と東京高等裁判所の合同庁舎地下の書籍売り場に行ったがあまり専門の図書の揃えがなかったので、会うことになった。全面ガラス張りの自動ドアをくぐり、地下に流れて東京弁護士会館の地下にある書籍売り場に案内する。
「だいたい、飛ばされたなんて思ってないだろ?希望して、ウィンタースポーツ満喫してたくせに。その遊びっぷりは、法廷でどうやって隠すんだ?」
この春先という時期ですら、日焼けをして超健康そうな肌に、ついつい嫌味もでる。
「色黒?肝臓やられている?…だが、誰も言わないなぁ。でも、部長がハゲでかつら疑惑があるのも誰も言わないからなぁー。ハゲならハゲらしく自然体でいたほうがいいのに、変に隠そうとするから、みんな目を向けるんだよ。」
要人の所属する知財専門部の部長は超優秀だが、頭を使い過ぎたのか若禿げだったらしい。要人は姿を思い出したのか意地悪そうに、口の端を少し上げて薄く笑う。こんな表情もさりげなく男前なんだなぁと思いながらじぃっと見ていると、要人が顔を貴志に近づけてくる。貴志がドキリとする内心を押し隠して、さりげなく要人との距離を取る。ちらりと視線を巡らせ周りを気にする。さっきも、弁護士会の隣にある東京家庭裁判所から出てきたおばちゃんが、貴志たちをじろじろ見ながら歩いて行った。見て、何を思われていたのか。日比谷公園がある方角から大通りを超えてさわやかな風が吹き、自分の額に落ちてきた毛をちょいちょいと元に戻される。貴志が要人の指の動きを上目遣いで追っていると、要人はふーっとため息をつく。
「裁判官の独立なんていうんやけど、おいらの稼業も人的組織としてはリーマンと同じ。」
「リーマン?」
「サラリーマン。大組織だから、転勤も、はいっと受け入れなきゃならん。1人がはまるべき所にはまらないと、玉突き方式に全員の人事が変わってしまいかねないからなぁ。ビリヤードみたいなものやなぁ。でも、一度も札幌まで会いに来てくれへんかったのは、さみしかったなぁ。」
要人は目頭を押さえて悲しいふりをするので、貴志は呆れ顔をする。確かに、貴志はこの3年間一度も札幌には訪れなかった。ここ数年は、昨年B型肝炎で病死した父親が入院していて、仕事をこなすのとで、それどころではなかったというのが主な理由である。あいにく、事件も札幌で継続するものはなかった。でも、実際はこれもあれも屁理屈にすぎない。調整を付けようと思えばつけられたのだ。
「でも、お前、バッジつけてないやん。仕事になるんか?」
貴志は仕事に必要な時以外は弁護士記章―通称、弁護士バッジ―を上着につけていない。そのかわり、貴志の弁護士バッジは財布の中に入っている。弁護士バッジは、自由と正義を象徴するひまわりと公平と平等を象徴するはかりを形どった金メッキが施されたピンバッジ。さらに、貴志は知財事件―知的財産権が対象となっている事案―を主に扱うので、弁理士の登録もしている。だから弁理士バッジも財布の中に入っている。弁理士バッジは弁護士バッジよりも一回り大きくやや薄い。やはり金メッキで、正義を象徴する一六弁の菊花の中央に、国家の繁栄を象徴する五三の桐花をあしらった形をしている。
「ポリシーで。そりゃ、肩書どおりに見えないのは、お互い様だろ?判事補様?」
「法服脱いだら、すごいんですって感じやろ?」
「…もう少し自重しろよ。」
「ホンマはバッジ無くしたんやろ?」
「あー、違う。違う。」
「ほな、見して?」
金色のちょっと分厚いひまわり型のバッジ。たしかに一般的な認識度はわりと高く、見知らぬ人でもバッジを見てそのバッジを身に着けている人の職種に気が付く人間が多い。弁護士仲間の中には、見せびらかすのが嫌でひまわりが見える部分を下向きにして、裏付けしている奴もいるが、貴志はそもそも上着のバッジ用の穴に何も通していない。上着を着替えるたびに取り換えるのが面倒だからだ。
「ご心配なく。なくても無難にこなしております。そういうおまえも裁判官のバッジつけていないだろ?」
全国に散らばる 3200 人もの裁判官ならびに2万人を超えるそれ以外の裁判所職員が持っているのは、鈍い銀色に輝く「裁」を変形させた文字を中央に描く裁判所職員用のいぶし銀のバッジである。
「ああ。裁判官の場合はこれがデフォルトなんや。ま、これから同じ専門やから、もしお手合わせがあったら、お手柔らかによろしゅう頼みます。これでも、部では下っ端やから、こき使われて…。」
「率先して、こき使われてる、だろ?で、これで、とりあえず、専門書は揃ったね?」
貴志がにこやかにほほ笑むと、要人はそうやなと頷く。要人の持っている重そうな紙袋の中身は、分厚い本大小取合わせて10冊。知的財産権関係の法律文献だ。
「知的財産権の優秀な専門家が友人におってよかった。」
「こんなタイミングで買って、間に合うのか?普通、赴任する前に…」
貴志がブツブツと呟くと、要人は頬に緩やかな笑みを浮かべる。
「…そういう、真面目なとこが、ええなぁ。そういえば、しっとる?」
「なにを?」
貴志が要人の顔に視線を合わせると、要人は一瞬にして真面目な顔になっている。
「過労死の噂」
「…あれ、ほんとだった?」
「林だ。」
「えっ?要人と高校一緒だった?」
司法研修所の教室でよく見かけた、ひょろっとして眼鏡をかけて真面目そうな姿が脳裏に浮かぶ。
「そうだよ。あそこ、前年にも一人出してんだ。だから、かげでは別名、過労死事務所。葬儀費用とか事務所がこっそり全額負担するそうだよ。」
「まじ。あんなに有名なとこなのに…しかも、こっそりって…」
「うん。事務所も、責任を認めるわけにはいかないからなぁ。…お前んとこはキツイか?札幌来れんかったのは、そのせい?」
貴志は要人の変化にドキリとする。普段、要人は気さくな低姿勢のおしゃべり坊ちゃんだが、いざとなるとオーラを全く変えて化けることを貴志は知っている。真実を見透かされ、射抜かれるような感覚。口調は柔らかく、問い詰められているわけでもないのに何かを話さなければと思ってしまう。彼は彼なりに裁判官の適性に合っているのである。
「それは…違うから、大丈夫。」
「いつも何時ころ帰宅なんや?」
「だから、大丈夫だって。」
「何時?」
要人は真剣な顔をして、貴志がちゃんと応えるまで引きそうもなかった。林は要人とは高校が同窓で、東京に進学した大学が違うものの数少ない同期入所だから、単なる同期入所だった貴志と違って特別な思いもあるのだろう。
「…遅くともだいたい夜8時には家にいるよ。」
「そっか、それなら過労死事務所とは言えないなぁ…なぁ、お前の名刺くれへんか?」
貴志をじっと見つめて、要人が片手を立てて頼むようなポーズをする。仕方ないなぁと肩を竦めて、貴志は自分の名刺をカード入れから1枚抜き出して、指先に挟んで要人に差し出す。事務所の名称、住所、連絡先、弁護士・弁理士の肩書と神谷貴志の名前。要人は名刺を受け取ると、これ、かっこええなぁー、とつぶやく。さらに、貴志に頼まれなくとも、要人は自分の名刺も貴志の左手を掴んで受け取らせる。要人の新しい名刺は、固い厚めの白地の紙に裁判所のマークと東京地方裁判所民事部の部署名と役職、名前のみ。住所すらない。
「地味でまっ白いやろ―。でも、ないよりましって感じ?」
「渋いって言えばさまになるだろ?しかも、裁判官の名刺を見たの、初めてだよ。あるんだ?」
「持ってない奴もおるけどな。」
裁判官は通常営業活動などがないため、自分の名刺を持っていない人もいるぐらいである。名刺を持っているのは対外的に活動する可能性があるか自分の趣味で作っているか。しばらく要人は何かを言おうとしているかのように貴志の顔を見ていたが、『Air』J.S.Bachバッハ作曲の管弦楽組曲の携帯音が鳴る。貴志は自分の携帯音ではないと要人を見ると、要人は貴志の左手首に巻き付けている腕時計に視線を下げ、一瞬にしてあわてた顔をする。
「あ、やば。また、部長にどやされる。」
「早くいけよ。」
貴志が苦笑しながら要人の広い背中を押す。
「でも、名残惜しい。」
「ばかいえ。」
要人はこのところ新規赴任の挨拶回りに追われていたり、午後一番には部内ランチミーティングが入っていて超多忙らしい。貴志がやっと屈託なく笑うと、要人は少し安堵をしたような柔らかな笑顔になる。そんな表情でも要人は以前にもまして男らしさが際立つ気がする。体格がいいのは前からだが、ここまで男臭かったかなと貴志は考える。3年、歳食ったということか。
「ま、今日はおおきに。」
「どういたしまして。」
要人はやっと携帯を取り出すためか背広の胸ポケットから手を突っ込みながら、弁護士会館の裏手にある裁判所合同庁舎に向かう。貴志からちらりと見えた艶のある黒色のスマートフォン。昔持っていたのともう代替わりをしている。歩いている要人は、スマホを耳にあてながら、口パクで手を貴志に向かってサヨナラと手を振る。公衆環視の中なのに大の大人が…、いや裁判官様がガキみたいだと思いながら、貴志は早く行けと鳥を追い払うようにシッシと手を動かす。要人は満面の笑顔を浮かべ、軽く駆け足で去って行った。