8. 母茶とペンダント
「セーレ様、陛下がいらっしゃいました」
部屋で本を読んで寛いでいると、侍女が陛下の来訪を告げた。
「少しだけ待っていただいて」
本を置き、傍らにあったショールを羽織る。
侍女に髪を簡単に整えてもらい他に乱れたところがないか確認すると、応接間へ向かった。
「陛下、お待たせいたしました」
応接間へ行くと、陛下は長椅子に座りお茶を飲んでいた。私に気付くと振り返り、ご自身の隣を叩く。私は指示された通りに陛下の隣に腰をおろした。
「変わった茶だな。初めて飲んだ」
今まで口付けていたお茶を指して陛下が言った。一般的な茶色いお茶と違い、緑がかった色のお茶だ。花と香草が混じった少し独特な香りが湯気と共にたちこめている。
「お気に召しませんでしたか?」
「いや、変わっているが、悪くはない。妙に癖になるな」
そう言って、また一口飲む。
私の前にもお茶が運ばれ、少し冷えた指先を暖かいカップで温めた。持ち上げて鼻先に持っていけば、懐かしい匂いが一層濃く香る。
「実は、セーレの花でできているんです。たくさんいただいたから、作ってみました」
「作った?」
意外だったのか、陛下が目を丸くした。
それに笑って頷き、お茶を口に含む。香りとともに独特の苦みが口に広がった。暖かさがじんわりと体に広がり、ほっと息をつく。
「昔、母がよく作っていたのです。 体を温める効果があるので寒村ではよく飲まれているんですよ」
私が母と共に幼少期を過ごしたのは、ナセルの辺境にある寒村だ。
冬は雪で家から出られなくなるほど寒い地だったが、セーレの花はそんな地でも根を張れる強い花だ。
その花や葉を乾燥させていくつかの香草を混ぜて作られる茶には体を温める効果があり、寒村では重宝されている。昔住んでいた家の近くには見渡す限り一面にセーレの花が咲く所があり、幼い頃は母と共によく摘みに行ったものだ。
「酒ではなく茶でそのような効果が得られるのか。初耳だな」
「こちらが茶葉です。よろしかったらご覧ください」
用意していた茶葉を見せると、陛下は物珍しそうに茶葉を手に取ったり匂いを嗅いだりしていた。
「この茶の名は?」
「正式な名前は知りません。私は母茶と呼んでいました」
「母茶?」
「はい。家によって葉と花の割合や混ぜる香草の種類が変わるので、これは母だけが作るお茶なんです。だから、母茶と」
各家によって味の変わるこのお茶は、親から子へと伝わっていくあの村の伝統のようなものだった。
母がこのお茶を作るのを何度も手伝っていたから、作り方はよく覚えている。
初めは花を見るだけで満足しようと思っていたが、思っていたよりも多くいただけたので茶も作りたいと欲がでて作ったのだ。
味を再現できるか不安だったが、作ってみたら自分でも驚くほど母茶そのものだった。
「では、今はそなただけが作る茶なのだな」
「そう、ですね」
言われて初めて気付いた。
もうこの調合でこの茶を作るのは私しかいない。だからもう、正確にはこれは母茶とは言えない。
それとも私もいつか子を生し、その子にとっての母茶となるのだろうか。
今まで考えた事もない未来を思い、不思議な気持ちになった。
「なら今はセーレ茶か?そのものだな」
そう言って陛下が笑う。確かに名前も素材もそのものだ。つられて私も笑ってしまった。
「では、また材料をやろう」
「ありがとうございます」
いつも通り数本束ねられたセーレの花を受け取った。ここのところ頻繁にいただいているので、部屋はセーレの花であふれている。後ろに控えていた侍女がまた新たな花瓶を用意していた。
「それと、今日はこれも持って来た」
渡されたのは、宝石が入っているような布に包まれた箱ではなく、紙でできた長細い箱だった。リボンで飾り付けられているが、どこか素朴な印象を受ける。
陛下に視線で催促されて、リボンをほどいて箱を開けた。
「これは……」
箱に入っていたのは、ペンダントだった。銀色の鎖の先には丸くて平らなガラスがぶら下がっている。そのガラスの中には、セーレの花が閉じ込められていた。
「そろそろ花の季節が終わるだろう。これがあればいつでも見られるだろうと思ってな。城下で売っていたものだから、妃への贈り物としてはあまりふさわしくないのだが……」
少し気まずそうに言う陛下に、私は慌てて首を振った。
「いいえ、陛下。嬉しいです」
チャリ、と手の中でペンダントが小さく音をたてる。その鎖は軽く、本物の銀ではないだろうことがうかがい知れた。ガラスの飾りも朴訥で、可憐だが普段身につけている装飾品のような派手さはない。
けれど、嬉しかった。
じわじわと、胸に暖かさが広がる。
いつでも花を見られる事ももちろん嬉しいが、何より陛下が私を気遣ってくださったその気持ちが嬉しい。これは王から側室への義務的な贈り物ではなく、陛下——ジルバード様という個人が私の事を考えて贈ってくださったものだ。
「ありがとうございます、陛下」
お礼を言うと、陛下の手が私の頭へ伸びた。そのまま初めて花をくださったの時のように少し乱暴に撫でられる。なんだか最近、お礼に頭を撫でられるのがついてくるようになっている気がする。
幼子に戻ったような気分になるが、心地良いのも事実なので私はされるがまま頭を撫でられ続けた。
「陛下、そろそろお時間です」
コンコン、と扉を叩く音と共に女官長の声がした。
一瞬撫でていた手がピタリと止まり、次に乱した私の髪を整えるように手櫛で梳いた。
「迎えが来てしまったな」
そう言って、陛下が私の頭から手を離す。私はさっと乱れたままの前髪を整え、頭を下げた。
「お越し下さり、ありがとうございました」
「また来る」
催促するように再び扉が叩かれ、陛下はそう言い置いて部屋を出て行った。
「陛下、最近よくいらっしゃいますね」
「そうね」
侍女に長椅子に座るように促され腰掛ける。侍女は制服のポケットから櫛を取り出し、まだ乱れが残る髪を梳き始めた。
陛下の弱音を初めて聞いたあの夜以来、陛下は頻繁にいらっしゃるようになった。
と言っても何をするわけでもない。時間があいた時に私の部屋に寄り、花をくださったり、少し話をしていかれるだけだ。本当の意味でのお渡りの頻度に変わりはない。むしろ減ったくらいだ。この前のお渡りでは行為はなく、ただ共寝をしただけだった。
あの夜に何かが吹っ切れたのか、あの文官が使えないだとかあの仕事がうまくいかないだとか、時折愚痴を言っていかれるようにもなった。疲れた姿も見せるようになり、何も語らずただ休んでいかれることもある。
つまるところ、今の私は無理に抱く必要もなく日頃たまった鬱憤を吐くのにちょうど良い、都合の良い側室なのだろう。
初めて陛下が突然いらっしゃった時は驚いたが、今では私も侍女もすっかり慣れたものだ。
「夜会の準備をする前で良かったですわ。陛下はすぐにセーレ様を撫でるんですもの。髪が乱れてしまいます」
最近何かと陛下が撫でるので、侍女のポケットに櫛が常備されるようになっている。もともと部屋にいる時は寛ぐためにもあまり髪は結わなかったが、陛下がいらっしゃるようになってからは用事がない限り結わなくなっていた。
「さすがに陛下も結い上げている時はそんな事なさらないわ」
「分かりませんよ。最近は癖になっていらっしゃいますから、うっかりなさってしまうかもしれません」
「それは困るわね」
「はい。だから、夜会でも気をつけてくださいね」
そう言って、侍女は悪戯っぽく笑った。
変化と言えば、前にお渡りの準備を頑張ってくれて以来、この侍女——シェディルと少し打ち解けて話すようになった。シェディルとはお世話になってきた3年間事務的な接触ばかりだったが、話してみると思っていたよりも明るくて楽しい人だった。こうして気軽に話せる同年代の女性は今まで身近にいなかったから、とても新鮮だ。
「さて、少し早いかもしれませんが準備を始めましょうか。他の侍女も呼んで参りますので、少し待っていてくださいね。寝ては駄目ですよ」
「分かってるわ」
シェディルはどこか楽しそうに部屋を出て行った。
手に持ったままだったペンダントを掲げる。ペンダントに閉じ込められたセーレの花がゆらゆらと揺れた。
それを見ていると陛下の顔が思い浮かび、私は自然と笑っていた。