5. 穏やかな日々
ふわりと、甘い香りがした。
その香りに誘われ薄く目を開ける。どうやら日の温かさが心地良くて、少しうたた寝をしてしまったらしい。
まだ眠気でぼんやりした頭を緩く振ると、再び甘い香りがした。香りを追い見てみると薄黄色の花が日の光に反射してキラキラと輝いていた。
「……ふふ」
無意識に笑みがこぼれた。
手を伸ばし花弁をそっと撫でる。ひんやりとした滑らかな触感が、確かにセーレの花がここにあるのだと感じさせてくれた。
陛下に最初に花をいただいてから、半月が経つ。
あの時いただいた花は、侍女が綺麗な青いガラスの花瓶に丁寧に生けてくれた。
侍女は日当りや栄養剤をあたえるなど色々と気遣ってもくれたが、やはり数日経つと力なく萎れてしまった。
土から離された花がすぐに枯れてしまうのは仕方がない事だ。しかし、ずっと求めていた花が見られなくなるのはやはり惜しく思っていたところに、また新しく花が届けられた。
なんでも私への贈り物だけ手間や費用がかかっていないのを気にしてくださったらしい。
それ以来数日おきに花が届くようになり、部屋には途切れる事なくセーレの花が飾られている。
いつでもセーレの花を見られるというのは、母が生きていた頃以来のことだ。父に引き取られてからは滅多に見る機会はなく、出掛ける時に道端に咲いているのを馬車の中から見かける程度だった。
それが今は、毎日見て、触ることができる。
他人からすれば何をその程度でと言われるくらい、ささやかな事だろう。けれど私にとっては本当に嬉しくて、幸せな事で。
こんなにも心穏やかな日々を送るのは、母が亡くなって以来かもしれない。
もう一度甘い香りを感じたくて、そっと花に顔を寄せた。
「失礼致します。セーレ様、よろしかったらお茶はいかがでしょう」
控えめなノックの音が響き、侍女が扉から顔を覗かせた。 長椅子に寝そべり花に顔を寄せている私を見て、首を傾る。
「…もしかして、お休みされていましたか?」
「ええ。少し、うたた寝してしまったみたい」
苦笑して答えながら、起き上がって髪を手櫛で撫で付ける。
侍女は「失礼します」と言いながら私の後ろにまわり、櫛を取り出した。人と会う予定がないためおろしっぱなしになっている髪に櫛が通される。
優しく梳かれるのが気持ち良くて、また眠くなってくる。母に髪を梳いてもらったときも、いつも耐えきれずに気づいたら眠ってしまっていた。
「…本日はお渡りですね」
瞼が重い。近くで話しているはずの侍女の声が、どこか遠く聞こえた。
「…そうね」
うとうととしながらもなんとか答える。
堪えきれずに目を閉じれば、髪を梳かれる心地よい感触と、花の香りを一層強く感じた。
「やっと、花を届けるようにしてくださったことのお礼を、直接申し上げることができるわ…」
最初にセーレの花を届けていただいた時以来、陛下とはお会いしていなかった。
二度目に花をいただいた時にお礼の手紙は書いたが、もう一度きちんとお礼を申し上げたい。もちろん今度は、幼子のように泣くことなく。
まさか、後宮にいる間にこんな穏やかな日々を送れるとは思っていなかった。
後宮の生活は別に辛いものではなかった。けれど、同時に楽しいものでもなかった。ただ少しだけ息苦しさを感じながら淡々と過ぎ去っていくものだった。
今も淡々としているのには変わりはない。けれど息苦しさの代わりに微睡みの中にいるような、どこかゆったりとした温かな気持ちで日々を過ごしている。
たとえこれが陛下の気まぐれでも、この穏やかな時間をくださったことに感謝を捧げたい。
「……では、いつもより早めにお渡りのご準備をされますか?」
「え?」
唐突な言葉に、思わず目を開いて侍女を見上げた。
侍女は髪を梳かす手を止め、 何やらきらきらとした目で笑っていた。
「時間をかけて入念にご準備しましょう。きっと、陛下も喜ばれます」
いつも控えめに微笑んでいる侍女にしては珍しく、楽しそうな笑顔だ。
陛下は別に私を特別気に入っている訳ではない。誉めてはくださるだろうが、いつもより着飾ったところでそれほどお喜びにはならないだろう。
そう思ったが、私は侍女に頷いた。
「……そうね。たまには良いかもしれないわ」
「ええ!私も頑張らせていただきます」
侍女が嬉しそうに笑う。
陛下は気にされないだろうが、侍女が喜ぶのならそれも良い気がした。
侍女が再び髪を梳かし始める。うたた寝の髪の乱れはとっくに整っているが、それでもまたしてくれるのは、私が髪を梳かれるのが好きだと気づいているからだろう。
「少ししたら、ご準備を始めましょう」
「ええ…」
返事をしながらも、気持ちよくて再び瞼が重くなってくる。
眠気と戦いながら何度も瞬きをしていると、笑みを含んだ優しい声がした。
「…あと少しだけ、良いですよ」
お許しがでて、瞼をそっと閉じる。
すぐに訪れた微睡みは、どこまでも優しく穏やかだった。