4. 思い出の花
「お休みのところ申し訳ありません、セーレ様。陛下がいらっしゃいました」
侍女がそう言ったのは、床に入りうとうとと眠りかけていた時だった。
「え!?」
一瞬で眠気が覚め、私は慌てて飛び起きた。
今日はお渡りの報告は受けていない。前回のお渡りから一週間しかたっていないし、お渡り以外で私のもとに訪れたことなど今までなかった。
「何かあったの?」
事件でも起きたのかと思い聞いてみるが、侍女はただ困ったように首を振った。
「急にいらっしゃったもので、私も詳しくは…。とにかくお急ぎを」
「そうね」
陛下のお渡りの際は専用の衣装を着るのだが、着替えている時間はない。無礼かもしれないがガウンを着込んで寝間着を隠す。侍女が簡単に髪を櫛で整え、急いで応接間へ向かった。
陛下は長椅子に座り、書類を読んでいた。
いつもは書類など持ち込むことはないため、書類を読む陛下はなんだか新鮮だ。
どこかへ出かけていた帰りなのか、見慣れない外行きのマントが無造作に椅子に掛けてある。服装も後宮にいらっしゃる時のくつろいだ格好でも政務へ行かれる時の豪奢な格好でもない。平民が着るような地味な格好をしていた。
いつものお渡りの時とはあまりにも違う。不安になり侍女を見ると、侍女も困惑気味な視線を返してきた。
とりあえず侍女には待機するよう視線で命じ、私はガウンの裾を見苦しくないようそっと整えた。
「陛下。お待たせして申し訳ありません」
陛下は書類から顔を上げ、いつものように笑った。
特に深刻そうな様子はない。とりあえず事件や何かではないと考えていいだろうか。
一抹の不安を抱えつつ、私はいつも通りの笑顔を顔にはり付けた。
「いや、こちらも急に来て悪かった。起こしてしまったか?」
「いえ…」
そうです、と答えられるはずもなく曖昧に濁す。濁したところで伝わってしまったようで、陛下は苦笑して
「起こしてしまったようだな」と呟いた。
「…お渡りとは別件でいらっしゃったとお見受け致しますが、何かあったのでしょうか」
気まずくなり、本題に入ることで話題をそらす。
問いながら、お渡り以外で陛下が後宮に来る用件を考えた。
真っ先に思い浮かぶのは先日のディアレとのお茶会で言っていた、降嫁の件だ。
こんな唐突に、しかも夜中に降嫁の連絡がくるとは考え難いが、陛下が側室に用があるのはお渡りか降嫁くらいだ。
それとも、実家のローディル家で何かあったか。
何がくるかと身構えていると、陛下は傍らの荷物から何やら取り出し立ち上がった。
「起こしてすまなかった。これを渡そうと思ったのだ」
そう言って、陛下は何かを差し出す。
おそるおそるそれを見、私は目を見開いた。
細い緑の茎に、薄黄色の小さな花びら。
最後に見たのはいつだったか。
それは、リボンにまとめられた数本のセーレの花だった。
「今日は視察で外に出たから、ついでに摘んで来たのだ。思ったより視察が長引いたためこんなに夜遅くになってしまったが…」
陛下の言葉を聞きながらも、無意識に記憶の中と寸分違わぬ懐かしい花に手を伸ばしていた。
受け取った花は照明に反射して、黄色の花弁が滑らかに光った。ほんの微かに優しい匂いが甘く香る。
『セーレ』
優しい声が、聞こえた気がした。
——おかあさん。
いつもより鮮明に、恋しい姿が脳裏に過った。
切なさで胸が詰まる。でも、それと同じくらい嬉しくて、涙が滲んだ。
「……ありがとうございます」
なんとか絞り出した声はかすれていた。
言葉と一緒に涙もこぼれ落ちる。止めようとしたが次から次へとこぼれ落ちて止まらない。
私は子どものようにガウンの袖口で目元を抑え、すすり泣いた。侍女が慌ててハンカチを取り出し、そっと差し出してくる。それを受け取り、涙を拭う。
ああ、こんなかすれた声では駄目だ。私は本当に陛下に感謝しているのに。
乱れる息を必死で整え、何度も深呼吸してなんとか涙を止める。
花を潰さないようにそっと抱きしめた。
「ありがとうございます、陛下。嬉しいです。とても……とても」
今度は掠れることなく言う事ができた。これで少しは義理ではなく本当に感謝していると伝わっただろうか。
見上げると、陛下はじっと真剣な眼差しで私を見ていた。
しかし、不意に苦笑すると私の頭を幼子にするかのようにくしゃりと撫でた。
大きな手が荒っぽく頭を撫でる感覚に、思わず固まってしまう。思えば男の人に撫でられたのは初めてかもしれない。父とは撫でるどころか接触した覚えすらなかった。
母が撫でるのとは違い頭にくる衝動がすごいが、温かな手が心地良い。
「野花でそこまで喜ぶとは思わなかった。……よほど思い入れがあるのだな」
「はい。大切な、思い出の花です」
「そうか」
整えた髪をすっかりぐしゃぐしゃにすると、今度は手櫛で簡単に整え、陛下は頭から手を離した。
陛下の扱いのせいか、花のせいか、まるで幼子に戻ったように離れるぬくもりに寂しさを覚えた。
「では、面倒だがそろそろ戻る。今日は後宮にくる予定ではなかったからな」
陛下は椅子に掛けてあったマントを掴むと、無造作に肩にかけた。その様はいつもの威厳のある王というより、ただの男の人に見える。
遠くに感じていた人が不意に近く感じられて、違和感に胸が微かに騒いだ。
「はい。本当に、ありがとうございました。……お休みなさいませ」
内心を笑顔で隠し、いつも通りに陛下を見送る。
陛下はひとつ笑みを残すと、部屋を去って行った。
私は陛下の足音が聞こえなくなっても、その場に立ち尽くしていた。
泣いたせいか、いつもと違うことが起こりすぎたせいか、なんだか頭がぼうっとする。
不意に肩が温かくなり顔を上げると、侍女が私の肩にブランケットをかけ、微笑んでいた。
「夜は冷えますわ。温かくしてお待ちください。すぐにその花に似合う花瓶を用意致します」
侍女に促され、先ほどまで陛下が座っていた長椅子に腰掛ける。侍女はすぐに戻ると言い残し、花瓶をとりに行った。部屋に私一人だけになり、辺りが静まりかえる。
私は腕の中にある花に視線を落とした。
そっと花弁を撫でる。そのなめらかな触り心地も記憶の通りだ。
『お母さん!見て見て——……』
今となっては遠い遠い昔。母に誉めてもらいたくて野を駆けたあの頃。私が一番幸せだった頃。
セピア色だった思い出が、鮮やかによみがえる。
幸せな記憶は、胸をひどく締め付ける。けれど同時に、ひどく甘い——。
胸にセーレの花を抱きながら、私はしばしの間甘くて切ない幸せな記憶に浸った。