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セーレの花  作者:
25/28

25. それは、もうすぐ

「セーレ様、お茶はいかがですか?」

明るい日が差し込む部屋の中、長椅子に座ってぼんやりしているとシェディルが言った。

振り返ると彼女は微笑んで私の返事を待っている。それに頷きながら、シェディルと再び以前のような関係を取り戻せた現実を噛み締めた。

城に連れ戻され待っていたのは、医者と私がいなくなった事を知らされ取り乱したシェディルだった。

傷だらけで戻ってきた私を見たシェディルは一層取り乱し、泣きながら私の世話をしてくれた。

侯爵家の家政婦長の姿はなかった。おそらく逃亡の手引きをした事に気付かれたからだろう。無論、その裏に父がいるということも。その証拠に、父の手の者はひとり残らずいなくなり、侍女は以前の者に戻っていた。

幸いだった事といえば、怪我は多いがどれもたいしたものではなく、子も無事だった事だ。

殴られた頬が腫れだした時はとても人前に立てるものではなかったが、それも今では治まっている。刺された腕だけは完治とはいえないが、動かすのに支障はない。

シェディルとも和解し、生活は一見以前の平穏な日々に戻ったようだ。しかし、あれだけの事が起きてそうそう以前の日々に戻れるはずがない。

ちらりと部屋の入り口を見ると、後宮には入れないはずの男の兵士のひとりと目が合った。しかし彼は反応することなく彫像のように動かない。もう一人の兵士も同様だった。物々しい雰囲気に少し息苦しさを感じるが、それも自業自得だという事は重々承知している。

城に戻ってから私は部屋から出る事を一切禁止された。あれからしばらく経つが依然としてこの護衛という名の監視が解かれる事はない。

そしてほとんどの情報も規制されているため、父や義姉、実家のローディル家がどうなったのかは分からなかった。

私達が行った事を考えれば家を取り潰されても全くおかしくない。むしろ義姉の事も含めれば一族全員が極刑を言い渡されても仕方ないくらいの行いだった。

だが今のところ何の沙汰もなく、恐ろしいくらい平穏に過ごしている。

そして、後宮に戻ってから陛下とは一度もお会いしていない。

会議と宣誓式のために集まってきている高貴な客人の対応に忙しいらしいが、罪人である私とはもう会う事がないのかもしれない。

思わずため息を吐いていると、お茶を淹れに行ったはずのシェディルが困惑した表情で扉から顔を覗かせた。

「どうしたの?」

「お客様がいらっしゃっているのですが、その……」

そう言って、困りきった様子でシェディルは後ろを振り返る。つられてそちらに目を凝らすと、ずず、と何かを引きずるような音とともに、見覚えのある姿が見えた。

「お通しして」

「……ですが」

「大丈夫だから」

渋々といった様子でシェディルが身を引く。ずず、ずず、と足を引きずりながら部屋に入ってきたのは、アズルムの残党から助けられた時、傷の手当をしてくれた男だった。

「お久しぶりでございます、セーレ様」

手には何やら大きな箱を持っており、彼はそれを持ったまま丁寧に頭を下げた。

「お久しぶりです。あの時はありがとうございました」

「とんでもございません。大事ないようで安心致しました」

椅子を勧めると、男は足を引きずりながらゆっくりと歩き出す。思わず大丈夫なのか見守っていると、男は私の視線に気付いたのか右足を叩いて苦笑した。

「お見苦しくて申し訳ありません」

「そんな事はありません。ですが、お怪我でもされているのですか?」

「いえ、これはもう治らないものですので。ご心配痛み入ります」

戦争で負ったものだろうか。気にはなるが聞くのは躊躇われて、何も聞かずに向いの席に腰掛けた。

それと同時にお茶が配られ、セーレの花の香りがふわりと漂う。

「あの時は結局名乗れずじまいでしたね。遅ればせながら、グスタフと申します。姓はありません」

姓はないという事は貴族ではないという事だ。

少し意外だった。見た所足以外は貴族達と遜色なく、所作も綺麗なものだ。おそらく年齢は陛下よりいくつか上くらいだろう。 焦げ茶色の髪にそれよりも少し濃い色をした目で、 優しげに整った顔立ちは高貴さが伺えた。なんとなく誰かに似ている気がしたが、分かりそうで分からない。

思い出せず密かにもやもやしていると、グスタフが深く頭を下げた。

「本来後宮へ入るべきでない男の身でありながらこちらへ参った非礼をお詫び申し上げます。そこにいる兵士達とセーレ様の侍女殿が不義のない事の証人となりますので、どうぞご安心ください」

「いいえ。もとより疑ったりなどしておりません」

後宮のこんな奥まで堂々と来ているという事は、監視の兵士同様陛下の命を受けていると言う事だ。私に拒否する権利もないし、無論その気もない。

「恐れ入ります。本日は、陛下の遣いでこちらをお届けに参りました」

そう言って、ずっと持っていた大きな箱をテーブルの上に置く。

素早く側に控えていたシェディルが蓋を開けると、そこには青い色のドレスが入っていた。

「これは?」

「宣誓式にこれを着て出席せよとの事でございます」

箱に入ったドレスを持ち上げると、それは通常のドレスよりゆったりした意匠のものだった。おそらく子がいる事を考えてくださったのだろう。

光沢のある布地で上品に仕上げられたドレスはとても美しく、瞳と良く似たこの青を見れば、私のために作ってくださったのだと言う事がよく分かった。

「……私のような者が宣誓式に出席などしても良いのでしょうか。私は陛下のお子を連れ去ろうとした大罪人です」

もはや社交界に出られるかどうかも分からないこの身だ。例え私がしでかした事がなかった事にされるのだとしても、さすがに宣誓式という重要な行事に出席する事は躊躇われる。

「おそれながら、これは陛下のご命令にございます」

穏やかな笑みを浮かべてグスタフが言った。

しかしその表情とは裏腹に、言葉は私の意志など関係ないとはっきりと語っていた。もし拒否をしたとしても、この陛下の忠臣は決してそれを許さないだろう。もとより陛下のご命令だというのなら従う他ない。

「かしこまりました。宣誓式には出席させていただきます」

「ご理解いただけたようで安心致しました」

本当に安心したように嬉しそうに笑う。

なんとも言えない気分になり、湯気の上がっているお茶をゆっくり飲み込んだ。馴染んだ香りに、無意識のうちに口から深く息がもれる。きっとため息も多分に混じっているだろう。

それを聞き止めたのか、心配そうにグスタフは言った。

「宣誓式へのご出席はされたくありませんか?」

「……どちらとも言えません」

本音を言ってしまうのなら、宣誓式へは出たくない。

何が悲しくて愛した人が正妃を娶るところを見たいというのか。

けれど一方で、オルド達と関わったこともあり、全てを見届けるべきだとも思えた。

宣誓式を機に、歴史は大きな転機を迎える。それを見られるのは栄誉な事だろう。

それに私も、アラム様との宣誓を見る事できっと気持ちの区切りをつけられる。今後どうなるにせよ、それは必要な事だと思えた。

「陛下は、何かおっしゃっていましたか?」

最後に見たあの辛そうな顔が、ずっと頭を離れない。

私の瞳と同じ色のドレス。陛下はこれをどんな思いで用意したのだろう。

私はもう、どうすれば良いのか分からない。

今だって子を未来の火種になどしたくないが、さすがにもう逃げようなどとは思えないし手段もない。

あの顔を見てしまった今ならば尚更だ。

陛下の弱さを私は知っていたはずなのに、あんなにも傷つけてしまった。今はもう後悔しかない。

「陛下はただ、こちらをセーレ様にお持ちせよと私に命じただけでした」

「そうですか」

やはりあの時私という存在は陛下の中で切り捨てられてしまったのだろうか。それだけの行いをしたのだから、傷つくのは筋違いというものだ。けれど、理性ではそう分かっていても、感情だけはどうにもならない。

「今は大変忙しくしておいでですので、時間がとれないのでしょう。宣誓式が終わればお会いする機会もあると思われます」

明らかに沈んだ私に対する気遣いか、本当の事なのか分からないが、グスタフが言う。

グスタフの同情するような表情を見たら気遣いのような気もしたが、どうしようもなく心はその言葉に縋っていた。

もしも、もう一度陛下とお会いする機会を得られたなら。

その時は、ちゃんと話そうと思う。

子の未来の事や、陛下を愛している事、今まで隠してきた事や思ってきた事を正直に話して、考慮していただけるように陛下に願おうと思う。

どうなるかは想像もつかない。けれど陛下なら、きっと悪いようにはしないだろう。例え私にとって都合の悪い事になろうとも、それにはそれなりの理由があるはずだ。それならきっと、受け止められる。

けれどひとつだけ、どうしても気になる事があった。

「グスタフ様。差し支えなければもうひとつ教えてください。私の家族は今、どうしていますか?」

罪を犯した父と義姉。巻込まれたであろう義兄。

私達家族が起こした問題は、元を正せば全て私を引き取ってしまった事に起因する。

気にならないはずがなかった。

「今回の騒動の事は公表しておりませんので、宰相閣下と兄君はまだ以前と変わらず仕事に追われておいでです。今は宣誓式のご準備で特に忙しくされているでしょうね」

「義姉、は」

「後宮の自室にて謹慎されています。あなたを含めローディル侯爵家の方への正式な沙汰は宣誓式後に下る予定です」

「……そうですか」

敵と通じた者など情報を引き出し次第処刑されてもおかしくはないのだ。 牢に入れられる事なく、自室にいられるだけかなりの温情をいただいているのだろう。

それは分かるが、途方もない罪悪感がこみ上げるのは止められなかった。

「義姉はどうやってオルド達に接触したのですか?」

「お茶会を開いた時、伯爵家の令嬢がルト一族の話をしているのを聞いて彼の家がアズルムの信徒である事に気付いたそうです。それで令嬢を通じて接触したと。女性には後宮の出入りが寛容なのが仇となったようです」

そのお茶会には私も覚えがある。おそらくそれは私の妊娠が発覚したあの時のお茶会の事だろう。

確かディアレはルト一族の話を聞いて、他の令嬢達に口止めをしていた。きっとあの時すでに気付いたのだ。

令嬢達に口止めしたと言う事は、その時はディアレは国のために行動しようとしていたはずだ。その後に私の妊娠を知る事がなければ、きっと父か陛下に報告するつもりだってあっただろう。

なんて皮肉な事か。

私の妊娠をあの時に知る事がなければ、こんな事にはならなかったのだ。

「許して欲しいとは言いません。けれどどうか、全ての原因は私にあるのだとお伝えしていただけませんか。父も義姉も、本来は国と陛下に忠実な方々です」

「此度の事は国に関わる問題です。残念ながら、咎人でもあるあなたに口を出す権利はありません」

「分かっています。…分かっているんです」

ただ、言わずにはいられなかっただけだ。

けれどこれはただの自己満足にすぎない。父も義姉も気高い人達だから、私などに減刑を嘆願されたなどと知れば感謝するより怒るだろう。できる事は何もない。

やるせなさに唇を噛んだ。

「ご家族の事です。お心を乱すなとは言えませんがどうかお子のためにもあまり思いつめないでください。宰相閣下やディアレ様が今まで国に尽くされてきた事は、おっしゃらずとも陛下は全てご存じです。それらを考慮された上で沙汰を下されるでしょう」

「……はい」

俯きそうになる顔をなんとか上げて頷く。けれどそれ以上は何も言えず、ただ沈黙した。

グスタフは何も言わず、ただ心配そうに眉尻を下げている。だが、不意に見張りの兵士が「お時間です」と声を上げると、お茶を飲み干し立ち上がった。

「申し訳ありませんが、私はこれでお暇します。どうか、お体に気をつけてお過ごしください」

「はい。色々と、ありがとうございました」

部屋からは出られないのでせめて扉の所までは見送りについて行くと、扉を出たところで不意にグスタフは立ち止まり振り返った。

「セーレ様、最後にひとつだけ失礼致します。——あの子を助けてくださって、ありがとうございました」

「え?」

問い返す間もなく扉が閉まる。

“あの子”とはいったい誰の事だろう。心当たりがなくよく分からないが、扉を開けて追いかける事は見張りの兵士達が許してくれそうもない。

「セーレ様」

いつまでも扉の前に佇んでいたのを気遣ってかシェディルに声をかけられた。

気になるが、確かにここに立っていても答えは返って来ない。 またお会いできた時があったら聞いてみようと諦め、踵を返した。もっとも、その機会が今後あるのかは疑問だが。

椅子に掛けると、自然とテーブルに置いたままだったドレスが目に入った。それに気付いたのか、シェディルが言う。

「一度袖を通されませんか?もしかしたら調整が必要かもしれませんし」

「……そうね。早めの方が良いでしょうから、今から着るわ」

入り口にいる兵士に顔を向ければ、察したのか静かに部屋を出て行った。すぐに代わりの女官が部屋に入ってくる。

それを視界の隅で確認して着替えると、特に調整は必要ないようだった。妊娠しているせいで補正具を付けられないが、ゆったりとしたこのドレスならそれも問題ない。

「大丈夫そうですね。ついでに装飾品も合わせてみましょう。いくつか見繕って参ります」

そう言ってシェディルは部屋を出て行く。その楽しそうな背を見送り、そっとため息を吐いた。

鏡を覗き込めば青いドレスを纏った自分の姿が目に入る。ドレスは思った以上に似合ってはいたが、再びこれを着る時の事を思えば気が重い。

宣誓式は、ひとつの始まりであるのと同時に多くのものにとっての終わりの日でもある。

全ての人が幸せを享受できる世界などありえない。誰かが喜べば誰かが悲しむ。他国を侵略して富む国があれば、侵略されて滅ぶ国がある。——そんな世の希望と絶望を象徴したような日。

逃亡したノード様やオルドはその日のために今頃必死で抵抗しているのだろう。その一方で陛下はつつがなく終わるよう尽力している。もはや平和に終わる道はなく、どちらかが希望を受け取り、どちらかが絶望を受け取る事になるのだろう。

そして、私の恋も。

もっとも私の場合は、どちらを受け取る事になるのかは最初から決まっているけれど。

「セーレ様、こちらはどうですか?」

シェディルが弾んだ様子で装飾品を手に戻って来る。下がりそうになる口元を歪め、精一杯の笑みを作り振り返った。



——終わりの日は、もうすぐやって来る。



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