22. 新たな争いの種
「セーレ様!」
少しぼんやりとした様子だったアラム様は、目が合うなり叫ぶようにそう言った。そして寝かされていた寝台を降り、一目散に私の元へと駆け寄ってくる。走るたびに足首に付けられた鈴が忙しない音をたてた。
「セーレ様、お怪我は、お怪我はありませんか!?」
あまりの事に言葉が出ない。それに構う事なくアラム様は私の身を確かめ、特に異常がない事を察したのか涙ぐんで手をとった。
「心配しました。 ああ、でもご無事で良かった!」
「アラム様こそどうして、こんな」
どうして後宮で厳重に保護されているはずのあなたがここにいる。
オルドの仲間が後宮に押し入ったのだろうか。それとも父が私を逃がしたように、どこからか抜け道でも使ってこっそり彼女を連れ去ったのか。
それにしたって、アラム様の身の回りには必ず誰かしらお側についていたはずだ。気付かれずに連れ去るなど不可能に近い。それこそ私のように内部に協力者がいなければ——
「まさか、マキアが!?」
ふと常にアラム様の近くにいるはずの彼女の存在を思い出していうと、アラム様はハッとし、僅かに青ざめた表情で口を開いた。
「マキアさんは——」
「お話中失礼致します」
しかし遮るようにオルドがそう言ってアラム様の傍らに膝を突いたため、アラム様は口を閉じてしまった。
手を放し、警戒心も露にオルドを睨む。
見ればオルド以外にも部屋にいた数人の男達も膝を突き、祈るように頭を垂れていた。
「我らが神よ、よくお戻りになりました。あなた様のご帰還、我ら一同首を長くしてお待ちしておりました」
「……違う、あたしは神なんかじゃない」
「何をおっしゃいます。その太陽の瞳こそ神たる証拠。どうか天の園にお戻りになってしまった方々の分まで、我らをお導きください」
「違う!あたしは神じゃない、人間だ!あんた達のことなんか知ったもんか!!」
顔を赤くしてアラム様は叫ぶ。しかしそんなものはまるで聞こえないとばかりにオルド達は粛々と頭を垂れたままだ。
瞳の色以外は特別なところなどないやせ細った少女を、幾人もの男達が“神”と崇める。
それは異様な光景だった。そしてひどく腹立たしい。
彼らは気付いているのだろうか。
王宮に保護されてから多少は良くなったものの、アラム様は依然として痩せ細っている。それは、彼女がこれまで満足に食事もできず苦労して生きてきた証だ。
アズルム神王国において孤児というのは最下層を意味する。貧富の差が激しいあの国の孤児院で育ったアラム様は、私を含めここにいる者には想像できないほど大変な日々を過ごしてきたに違いない。
そのアズルム神王国が作り上げた“貧しさ”という病の被害者のひとりであるアラム様に、彼らは加害者の復活を乞うているのだ。
その滑稽さと理不尽さを、彼らは理解しているのだろうか。
「……ただの少女に縋って国が戻るなど、あなた方は本当に信じているのですか?」
声が震える。それが恐怖のためか怒りのためか、自分でもよく分からなかった。
オルドは立ち上がり、私を見下ろして笑った。
「その方はただの少女ではない。神だよ、側室殿」
「ええ。あなた方にとってはそうでしょう。ですがアラム様はアラム様です。病を治す事も国を平定する事もできない、14歳の普通の少女。この子にあなた方が求める事のいったい何ができるというのですか」
「神とはおられるだけで意味があるものさ。あとの事は我ら信徒の役目。心配せずともお隣のルナハトから協力を得る算段はすでについているよ。あとは神と人質であるあなたを連れて行くだけだ」
「ルナハト……?」
ルナハトとはアズルム神王国を挟んだ向こう側にある国——つまり、アズルムを併呑した今はナセルの隣国にあたる国だ。
アズルムとの戦争において、他国は干渉せず表向きは静観の構えをとっていた。けれど実際はそれとなくナセルに協力をしてくれた国もあり、ルナハトはそのうちのひとつだったはずだ。
「あの国とはそれなりに友好関係を築いているはずです。何故今になって……」
「簡単なことだよ。“船”が誕生してもう10年。遠く離れた大陸との貿易も随分安定してきた。つまりこれからは“船”の時代がくるのさ。ナセルは位置的にこの大陸の“玄関”にあたるから、この大陸のどの国よりも恩恵を受けるだろう。ルナハトは、それが欲しいんだよ」
「まさかルナハトはナセルとの戦争を考えているというのですか。その戦力を集めるために、あなた方と……?」
思っていた以上の規模の話に目眩がした。ついこの間やっと戦争が終わったというのに、また始まるというのか。
どうか間違っていて欲しいと祈ったが、オルドはあっさりと頷いてしまった。
「その通りだよ、側室殿。」
「待ってください。それならば先の戦争でアズルムの方についていれば良かったはずです。何故わざわざナセルを助けるような真似をしたのですか」
ナセルの港が欲しいというのなら、アズルムと手を組み、先の戦争でナセルを滅ぼしていれば良かったのだ。アズルム神王国だけが相手でも勝てる見込みは半々であったのだから、ルナハトが参戦していればナセルに勝ち目などなかったはずだ。
「おや、忘れたのかね側室殿。我らはそもそも『大陸を穢さぬため』、ひいては大陸全土で鎖国をするために戦争を始めたんだ。貿易をしたがっているルナハトでは、味方にはなり得ない。それにおそらくルナハトはナセルが負けると思っていたのではないのかな。助けたのは少しでも我らに傷を負わせるため。そして戦争が終わり弱った我らごと、ナセルを喰らうつもりだったのだろう。いやはや、今は味方ながらに恐ろしい国だ」
「ですがあなた方は、その恐ろしい国と手を組むおつもりなのでしょう」
「そうだとも。だが安心したまえ側室殿。人は感情で生きるものだ。だからこそあの国へ行ったのならば、我らの信仰の力で乗っ取ってみせるよ。もともとあの国は隣国だったため信徒も多くいる。ナセルへの報復はそれからだ」
未来を思い描いてか、楽しそうにオルドは笑った。まるでそれが実現すると信じているように。
「……夢物語だわ」
ぽつりと、思わず言葉がこぼれ落ちた。
しまったと思ったが、なかった事にはできない。だが度重なる驚愕で恐怖心が麻痺してしまったのか、気付けば訂正するどころか勢いのまま口を開いていた。
「そんなの、うまくいくはずがない。現状をみれば分かるでしょう。“神”の資格を持つのはアラム様ただひとり。信徒だって多くない。あなただって本当は分かっているのでしょう?アズルムの信仰はもう廃れかけいる。あの戦争にナセルが勝った事こそその証拠です。大陸中に信徒がいるのは事実でも、その数はきっともう多くはない。本当に信徒が大勢いるのなら、あの戦争にナセルが勝つ事などできなかった」
アズルム神王国の最大の強みは、国に関係なく大陸中に信徒がいる事だった。
自国の貴族の中にさえ信徒がいるかもしれず、誰が裏切るのか分からない。実際戦争が始まった時反旗を翻した貴族も確かにいたのだ。
だがその数は、当初考えられていたものよりずっと少なかった。最悪諸外国も敵に回してしまう可能性もあったのに、実際はほとんどの国が静観し、裏で助力さえしていたのだ。
それらが示す意味はただひとつ。
「“神”はもう、必要とされていない」
「……」
決定的な言葉に激昂するかと思ったが、オルドは静かだった。他の男達も相変わらず黙っている。
私の言葉に納得したのか、それとも嵐の前の静けさか。
今頃戻って来た恐怖を感じ、手が震えた。刺激を与えるでは済まされないほどの事を言ったのだ。怒り狂った彼らに殺されてもおかしくはない。
けれどまだ、今を逃せば言えない言葉がある。震えそうになる唇を叱咤して、私は口を開いた。
「もう、終わりにしませんか」
自分でも呆れるほど小さな声だった。だが、この静かな部屋の中なら十分に響く。
「 戦争が起これば真っ先に戦場になるのはルナハトと国境を接するアズルム領です。民をまた戦火に巻込むのは、あなた方とて本意ではないでしょう。現状ではルナハトがナセルに勝てる可能性は低い。 あなた方が行動を起こさなければ、きっと下手な真似はしないでしょう。……だから、あなた方はこのまま身を隠し生きる事はできませんか。私とアラム様を返しナセルを害する事がなければ、追っ手はそこまで厳しくないはずです」
甘いと言われてもいい。このまま諦めて、オルド達にはどこかに逃げて欲しいと思う。
だってもう十分ではないか。アズルムとの戦争では多くの人が巻込まれ傷ついた。陛下は身内をその手で殺し、オルド達も主を失った。皆もう十分傷ついてきたのだ。
また戦争を起こしたところで、きっと彼らの望み叶いはしない。新たな血が流されるだけだ。
だから全て諦めて、何処かへ逃げてしまえばいい。何もかも投げ出して、せめて穏やかに生きればいい。
もう誰も傷つかなくてもいいではないか。
為政者ならば失格だ。この考えこそが夢物語だという事は分かっている。けれど、願わずにはいられないのだ。
オルドはそれまでの演技のような表情を消し、苦く笑った。
「ご高説身に沁みたよ、側室殿。あなたの言う事は良く分かる。それが、私達のためでもあるという事もね。……だが、諦める事だけはできない」
「どうして」
問いながらも、心の隅でやはりとも思った。
だってきっと、今諦められる事ならば最初から行いなどしない。その程度の執着ならばここまでナセルの手から逃れる事もできなかっただろう。
それを肯定するように、オルドは言った。
「どれほど無謀でも、愚かでも、諦められない事はある。私とて我らの行いが何を招こうとしているのかくらい分かっているんだよ。それでも止める事はできない。“必ずアズルムを取り戻せ”。これが殿下の、我が君の最期の命なんだ。我が君を失ってなおのうのうと生きる私に残された、唯一の意味なんだ」
「……」
苦く、苦く、オルドは笑う。 それに誘われ一粒だけ私の目から涙がこぼれた。
同情、あるいは共感というべきかもしれない。彼と私が背負っているものは全く違うものだが、大切な人においていかれる苦しみはよく分かる。それ故に死者の最期の願いに縋ってしまうその気持ちも。
死者は勝手だ。未来を見届ける事もできないくせに、 最期の願いという重い枷を嵌めて去って行く。そして残された者は、死者を大切に思えば思うほど、その願いに振り回されるのだ。
「……でも、その未来には破滅しかありません。あなたの主はもういない。今後のことは死んだ主ではなく、生きているあなたが決めるべきです」
私もオルドと同じだ。枷はまだ外れず、いつだって心の中に強く根付いている。
けれど本当は気付いてもいるのだ。
生きて行く中で出会う不幸も幸福も、全て受けるのは死者ではなく私自身。他の誰でもない自分の人生なのだから、願いに振り回されるのではなく自分の意志で、自分のために生きていくべきなのだ。この世にいない死者の願いに振り回され破滅の道なんて歩むべきではない。
オルドは苦く笑ったまま、首を横に振った。
「残念ながらこれは私の望みでもあるんだよ、側室殿。だからこそ、どれほど無謀でも可能性があるのなら諦めるわけにはいかない」
その言葉には少しの迷いも感じられなかった。
絶望にも似た諦めが胸に広がる。それほどまでにオルドの主が素晴らしかったのか、ルト一族の忠誠心が厚いのか。何故主の願いを自分の願いとできるほどの忠誠心を持てるのか分からない。分かるのは、もう何を言っても無駄だという事だけだ。それこそ破滅の未来を迎える以外に、彼が止まる術はきっともうない。
「悪いが側室殿には我らに付き合ってもらう事になる。そして神よ。あなたには、少しでも早く新たな神を孕んでいただかなくてはなりません」
「何を言って……」
信じられない言葉に耳を疑う。だが、動揺している間に後ろで静観していた男達が動き、抵抗するも無理矢理アラム様と引きはがされた。ひとりの男に羽交い締めにされる。
「やだ、嫌だ!!」
「アラム様!」
先ほどまで寝ていた寝台に連れて行かれながらアラム様は必死に叫ぶ。私も必死に手を伸ばすも、力ではとても敵わず全く進む事ができなかった。
「やめて、やめさせて!あの子はまだ子どもなのよ!!」
「子はもう生める体だ。我らとてここまで急ぎたくはなかったが、神はもうあの方しかいない故仕方がない」
「その子は神じゃない、神なんかじゃないわ!ただの人間よ!アラム様、アラム様っ!!」
どんなに叫んでも男達は誰ひとりとして一瞬も躊躇わない。呆気ないほど簡単にアラム様は寝台の上に押し倒され、何人もの男達に押さえつけられた。そしてひとりの男がアラム様の服に手をかける。
「いやああああああ!!」
「アラム様!」
アラム様の甲高い悲鳴が響き渡ると同時に服が引き裂かれた。怒りで頭の中が白く染まる。
だがその瞬間、何故かアラム様を襲っていた男達の動きが止まった。
「腹が、黒い……?」
男の小さな呟きが聞こえた。オルドにも聞こえたのか、急ぎ足で寝台に向かって行く。
アラム様を見下ろしたオルドの顔が見る間に青ざめていった。
「なんて事だ……!」
呻くようにオルドが言う。
分からないが、何か重大な事が起こっているのは確かだ。動揺したのか男の拘束が緩んだ隙に身をよじり抜け出す。そのままアラム様に駆け寄ると、原因と思われるものが見えた。
——へそよりも少し下。その辺りが、痣というには濃すぎるほどどす黒くなっているのが。
「これは……」
初めて見る症状だ。だがその原因には心当たりがあった。
「これは病ですか?神のお体にいったい何が……」
アラム様を取り押さえている男のひとりが戸惑った声を上げる。
オルドは顔を強ばらせたまま首を横に振った。
「……病ではない。薬だ。これではもう、神は子を生めない」
「そんな!」
男が悲痛な声を上げた。
薬と言う事は、今思い至ったものに間違いない。
常用すると次第に激痛が体を苛むようになり、腹が黒く染まっていく。そして染まりきった頃には子が生せなくなっているという、ナセルでその昔使われていた避妊薬。
そういえば、お茶をしていた時にアラム様は倒れた事もあった。確かあの時彼女は腹を抑え痛みをこらえている様子で、それをマキアは持病のようなものだと。
あの避妊薬を飲んでいたためだとしたら、あの腹も倒れた事も、全てに説明がつく。
「アラム様……」
目の前のこの痩せた少女が哀れで仕方がない。
この子はいったいどれだけ奪わればいいというのだろう。
生活を奪われ、子を生める可能性を奪われ、自由な未来さえ奪われようとしている。
子を生めなくしたのは、きっとアラム様の命を救うための条件だったのだろう。仕方がないと理解はできるが、それでも同じ女として納得できるものではない。
私以上に納得できないのだろう。それまで取り乱す事のなかったオルド達は、今や顔色を変えてざわめいていた。
「これではどうやってアズルムを復興させればいいんだ」
「ナセル王め、神を囚人にするだけでは飽き足らず、肚まで潰したというのか……!!」
「囚人……?」
アラム様は正妃候補として保護されていただけで囚人扱いはされていないはずだ。違和感のある単語を思わず呟くと、オルドは僅かに顔を青くさせたまま私を振り返った。
「側室殿が分からないのも無理はない。アズルムでもごく一部の者しか知らない事だが、アズルムには太陽の瞳を持って生まれなかった神の“なりそこない”を収容するための囚人の塔があってね。そこの囚人は万が一逃亡してもすぐに分かるように足に鈴が付けられるんだ。まさに、こんな風にね」
そう言って、露にされたアラム様の足首を指し示す。
じっくり見るのはこれが初めてだが、見たところ単純に紐で付けられているのではない。金属の足輪だ。いや、今の話からすると足枷と言った方が正しいのかもしれない。
「つまりナセル王は神を正妃にすると言いながら神である事を否定し、実際は囚人として扱うと我らにだけ分かるようにに主張していたのさ。そうして我らの怒りを煽りおびき出したかったのだろう。こんなもの今すぐ取って差し上げたいところだが鍵がなくてね。あげく肚まで潰すとは、まったくどこまでも忌々しい……!」
彼は言葉を吐くと共に壁を殴った。ドン、と鈍い音がし部屋が微かに揺れる。音が聞こえそうなほど歯を食いしばるその形相は火傷の痕と相まってひどく恐ろしかった。
その怒りを察して他の男達がオルドの様子をうかがうようにして押し黙る。
張りつめた空気の中、沈黙が降りた。
男達に襲われた事に強い衝撃を受けたのだろう。 外套を脱いでアラム様に着せてもあまり反応を示す事なく呆然としている。
彼女を神と崇めるのなら、何故傷つけるような事をする。何故大切にしない。
疑問に思うも、答えは分かっている。結局彼らはアラム様ではなく神を、ひいては自分たちの国を求めているのだ。その証拠に彼らは一度も彼女の名前を呼ばなかった。
だが今分かった通り、アラム様では彼らの要望には応えられない。神を増やせない以上、彼女ひとりが死んでしまえば全てが終わりだからだ。アズルムの核たるものが存続できなければ、国も続くはずがない。
「……もうお分かりでしょう」
震える声で沈黙を破る。
男達の視線を感じたが、オルドだけを見て言葉を続けた。
「ご覧の通り、アラム様は子を生める体ではありません。だからもうやめてください。これ以上はアラム様を無意味に傷つけるだけです」
「……」
オルドは何も答えない。
だが、これ以上進めても意味がない事はわかっているはずだ。恐ろしい形相のままだが、僅かに迷っている様子も垣間見える。
「お願いします」
最後に一押しするように懇願する。
オルドの表情が怒りから迷いに変わったその瞬間——
「まだ分かりません!」
男のひとりが声を上げた。
「薬を飲まされていたのだとしても、まだ間に合うかもしれません。そうでしょう!?」
「いや、この薬は腹が染まる頃にはもう子は生せなくなっているはずのものだ」
「でもそれは知識として知っているだけでしょう。実際はまだ間に合うかもしれません。諦めるのですか!?」
声を上げた男につられて他の者達も縋るようにオルドを見る。
私も知識としか知らないが、これほどまでに黒くなっているのならもう子を生せる可能性などないはずだ。あったとしても実際に子を宿し生み落とすまでにどれだけの負担がかかるか分からない。
「……そうだな」
オルドは頷いた。もうその顔に迷いはない。
嫌な予感がし、説得しようと私が口を開くよりも先に彼は言った。
「試してみよう。少しでも可能性があるのなら、諦めるわけにはいかない」
その言葉に男達は歓声をあげた。そして再びアラム様に手を伸ばし始める。
「やめて、やめてください!」
触らせまいと庇ったが、簡単に彼女から引きはがされてしまった。
「いやああ!助けて、先生っ!先生ーー!!」
アラム様が再び悲鳴を上げる。
私は渾身の力で身を捩り拘束する手から逃れ、アラム様を襲っている男のひとりにつかみかかった。
「やめてください!アラム様を殺すつもりですか!?」
「うるさい黙れ!」
その瞬間、頬に衝撃が走った。
体が傾ぎ壁に頭を打ち付け床に座り込む。ぬるりと何かがこめかみを伝う感覚がした。
じんじんと頬と打ち付けたこめかみが熱を持って脈打つ。
それでやっと、殴られたのだと気付いた。
「やめろ、子が流れたらどうする!」
「我々を惑わす毒婦などいっそ見せしめにすべきです!人質はまた他の者を攫えばいい!」
「やめろ!」
オルドの制止も聞かず、男は拳を振り上げた。
——殴られる。
回避する方法は既になく、反射的に目を瞑り、腹を庇って背を向けた。
「………?」
だが、覚悟していた衝撃はいつまでたっても訪れなかった。
代わりに訪れたのは何かの衝撃音と男達の悲鳴。
おそるおそる目を開けると、そこに先ほどまで私を殴ろうとしていた男の姿はなかった。それどころかアラム様を襲っていた男達の姿もない。
見れば私達の狼藉を働こうとしていた者は皆、腹や頭を押さえ呻きながら床に転がっていた。
「まったく、そろいもそろってなに無意味な事やってんだか」
そして、転がる男達を見下ろし場違いなほどのんびり呟いていたのは——
「ノ、ノード様……?」
「こんばんは、セーレ様。とりあえず、無事なようでなによりです」
ひょうひょうといつもと変わらない笑みを浮かべるノード様だった。
ノード様は何でもない様子で私の前にしゃがみ込み、懐から取り出した手巾を私のこめかみに押し当てた。
「ここは、ただのかすり傷ですね。他に腹とか腰とか痛いとこないですか?」
「ない、ですけど。……ノード様?」
「はい?」
ノード様は笑う。笑って、首を傾げる。
きっと助けに来てくれたのだろうが、あまりにもいつも通りすぎて逆に戸惑ってしまった。
だが彼がこの様子であるなら、助かったという事なのだろう。
安心して肩の力を抜いた。——その時だった。
「セーレ様から離れろ!」
白い何かが飛んできて、ノード様の背に当たって落ちた。
見れば、それは枕だった。飛んできた元を辿るように見ると、アラム様が近くにあった花瓶を掴み、振りかざしているところだった。
「アラム様……?」
「セーレ様、離れてください!そいつは敵です!そいつがあたしをここまで連れて来たんです!」
「……え?」
敵とは何の事だ。ノード様はたった今私達を助けにきてくれたところだというのに。
「ノード様、いったい何の事ですか?」
わけが分からず目の前のノード様に聞くと、彼は相変わらず笑っていた。
その笑みに、ふと嫌な予感がこみ上げる。
「離れろ、この裏切り者!!」
アラム様は叫ぶように言うと、花瓶をノード様に向かって投げた。
彼は素早く立ち上がり飛んできた花瓶を払い落とす。花瓶は床に落ち、甲高い音をたてて粉々に砕け散った。
「……ノード様?」
呼んでみても、彼は何も答えない。
今、アラム様は何と言ったのか。
敵。
裏切り者。
戦争の英雄である彼が。
——なんて笑えない冗談だ。
「嘘でしょう?」
そうだ。きっと何か悪い冗談に違いない。
だって彼はアズルムを滅ぼした戦争の英雄で、陛下を救いもした。そして私を二番目に好きだと言ってくれた優しい人だ。
そんな彼が裏切り者だなんて、そんな事あるはずがない。
引き攣った笑みを浮かべながら縋る思いで聞く。だがノード様は無言で振り向きもせず、アラム様はきつく彼を睨みつけたままだ。誰も否定してはくれない。
「ガゼス、遅かったな」
「ちょっと手間取ってね」
それどころか、言葉を交わしたオルドとノード様は知己であるようだった。
「そっちこそ部下の躾はちゃんとしてくれなきゃ困るよ。——兄さん」
「……え?」
耳を疑った。
ノード様は今、何と言ったのか。
「嘘よ」
頭では理解できたけれど認めたくなかった。
ノード様は振り返り、いつもと変わりない様子で申し訳無さそうに笑って言った。
「驚かせてしまってすみません。でもこれは嘘ではないんですよ、セーレ様」
そして、手に嵌めていた手袋を脱ぎ捨てる。手の甲にある火傷の痕が露になった。
以前は『ヘマをした』と言っていたが、それが本当だったのかどうか今となっては分からない。いや、きっと嘘だったのだろう。
「ここには以前、とある紋章がありました。何の紋章だったかは、言わなくても分かりますよね」
「……」
その通りだ。分かりたくないけれど、分かってしまう。
そこにはかつてオルドの顔にもあったものと同じ、鳥の形を象った紋章があったのだろう。
それが意味することはただひとつ。
——ノード様は、ルト一族の生き残りだ。




