19. 母となる娘
「おっしゃっている事の意味が分かりません」
今聞いた言葉が信じられず、いや、信じたくなくて、私は震える声で言った。
「驚くのも無理はない。そなたが理解するまで何度でも言おう。そなたは妊娠している」
「そんなはずありません。ありえないでしょう。だって……」
いつ、子ができたと言うのだ。
本当の意味でのお渡りがあったのは、もう何ヶ月も前の話だ。
その時にできていれば、今頃腹は膨らみ始めているはずだ。さすがに私だって気付く。
だが実際には私の腹には何の変化もない。つまりここに子がいるはずなどないのだ。
「おや、忘れたのか?」
陛下は不意に私の手をとると、唇を近づけた。
貴族達の挨拶のように口づけでもするのだろうか。
何故今そうするのかは分からないもののされるがままにしていると、予想外の痛みが指に走った。
「……っ!」
咄嗟に手を引く。
痛む場所を見れば、指の付け根にひとつ確かな歯形が刻まれていた。
「お返しだ」
そう言って、陛下が笑う。
全く意味が分からず困惑したが、ふと噛み痕を見て思い当たる事がひとつ見つかり、私はざっと血の気が引くのを感じた。
「ま、さか」
一ヶ月程前。そう、ちょうど父に降嫁を願った日だ。
あの日、私は陛下に抱かれる夢を見た。夢の中で、私は陛下を噛んだ。今この指に付けられた痕よりもなお強く、血が滲むほどに。
だが、あれは夢だ。夢だったはずだ。
「思い出したか?そなたは夢だとでも思っていたのかもしれないが、あれは現実だぞ」
陛下はあっさりと夢であった事を否定した。
あまりの事に、私は首を横に振る事しかできない。
「噛み痕は消えてしまったため見せる事はできないが、なに、数ヶ月もすれば腹から子が生まれるだろう。それが何よりの証拠だ」
「でも、あの事が本当にあったことだったとしても、私は堕胎薬を飲んだはずです」
後宮から出る際、堕胎効果もある避妊薬を飲むのは私達側室の義務だ。
陛下が避妊し、側室も事あるごとに避妊薬を飲む。
そうやって、ナセルでは不義の子及び予定外の子ができる事を防いでいる。
陛下が何故あの夜に避妊しなかったのかは分からないが、本当に私が身ごもってしまっていたのだとしても、つい先日孤児院に行く際に避妊薬を飲んだのだ。今妊娠している事などありえない。
だが陛下は私の言葉に動揺する事もなく笑うと「あの薬か」と呟いた。
「味が、違っただろう?」
「味?」
「そうだ。いつもと違うとは思わなかったか?」
思わなかった。何故ならあの薬は改良中で、いつ飲んでも味が変わっている。変わっていないのはあの強烈な苦さくらいだ。
今日だけで何度目か分からない“まさか”という気分を味わっていると、それを肯定するように陛下は頷いた。
「私の子を身ごもっているそなたに堕胎薬など飲ませるわけがないだろう。あれは苦みが強いだけのただの栄養剤だ」
「……」
つまり侍医はもちろんのこと、偽物の避妊薬を飲ませた女官長も私が妊娠している事を知っていたのだ。
「どうして……」
どうして私が妊娠している事を隠していたのか。
どうして陛下は避妊しなかったのか。
どうしてあの夜陛下は私を抱いたのか。
多くの“どうして”が渦巻き呟きがもれる。
陛下はふと笑みを消すと、ひどく真剣な目で私を見た。
「もはやそなたは外に出る事は叶わぬ」
ナセルでは、王の子を身ごもった者は一生後宮で過ごすという決まりがある。たとえ子が流れようと子ができない体になろうと、一度王の子を身ごもったならば生涯後宮の住人となるのだ。
つまり、私は一生陛下のお側から離れられない。
他の者達とも子を生す陛下を見続けなければならない。
「何も望んでいないと言ったのはそなただ、セーレ。ならばここに居よ。私の子を身ごもったそなたに、畏れ多い事など何もない」
「……」
今胸にあるこの気持ちを言葉にするのなら、何と言うのだろう。
分からないまま、涙が一筋頬を流れる。陛下はそれを拭うように私の目元に口づけた。
さわさわと、風に吹かれてカーテンが揺れる。
長椅子に掛け、私はぼんやりとそれを眺めていた。
妊娠を告げられてから3日が経つ。あの日、陛下は去り際に来月の宣誓式が終わるまで部屋から出る事を禁じていったため、現在私は散歩にでる事すらできない。あの日以来陛下はいらっしゃらず、もちろんお茶会に出ることもできないので会うのはシェディルや新たに付けられた他の侍女達のみ。しかし彼女達は私の世話だけでなくこの部屋から出ないようにするための監視でもある。そう思うとシェディルとすらあまり話をする気分にもなれず、できる事といえば本を読むか、こうしてぼんやりとする事くらいだ。
無意識に、手が腹を撫でる。ここ3日ですっかり癖になってしまった。
撫でたところで何も感じられず、本当に妊娠しているのか今でも疑問に思う。
それでも相変わらず食欲はなく匂いを嗅げば吐き気がある事もあるのだから、今私は悪阻という状態なのだろう。実感はないものの、かすかにある知識に照らし合わせれば納得のいく部分もあった。
さわさわと、カーテンが揺れる。
あれからずっと考え続けていた。
これから生まれるであろう子供の事。
これからの事。
でも、いくら考えても何も思い浮かばなかった。
何故なら生まれる子も私の処遇も、私が決めるのではなく陛下が、国が決める事だからだ。私に求められるのは、ただ国の意志に従う事だけ。
きっと数ヶ月前の私ならば、特に何も思う事なくこの状況を受け入れていただろう。
けれど今の私は、正直よく分からない。
私以外の女性と添う陛下を見続ける事は、相変わらず嫌だと思う。
けれど考えようによっては、私は陛下のお側に居続ける権利を手に入れたのだ。多少の嫌な事には目を瞑って、ただ流されるままに生きれば良い。これまでのように。
そう思っても、心の何処かでそれはできないと言う自分がいた。それではいけないと。
けれど今まで流される事しかしてこなかった私に、いったい何ができるというのだろう。自分の意志の通し方など何一つ分からないのだ。そもそも自分の意志たるものが私にあるのかすら疑問であるくらいなのに。
結局いつものように考えが堂々巡りとなりため息を吐いていると、扉を叩く音が小さく部屋に響いた。
私が振り返るよりも早く部屋の隅にいたシェディルが扉を開け、確認に行く。
やがてどこか困惑した様子でシェディルが私のもとへ来た。
「あの、セーレ様。宰相閣下……お父上がいらっしゃっています」
「それは、面会室に?」
「いいえ、こちらにです。只今応接間でお待ちいただいております」
思わず目が丸くなる。
確かに親族は後宮に入る事ができるが、それも後宮の入り口付近にある面会室までだ。自室のような後宮の奥まで陛下以外の男性が立ち入ることなど基本的に許される事ではない。
だが実際に来ていると言う事は、特別に許されたと言う事だ。
何の話をしに来たのかは明白である。
「お会いするわ。支度を」
私はこの3日のうちで最も素早く立ち上がると、控えていた侍女達に指示をとばした。
「息災か」
応接間で待っていた父は、私の顔を見ると全く常と変わらない様子でいつもの台詞を言った。
「はい。お父様もお変わりなく」
言葉とは裏腹に今はとても“息災”と言える状態ではないものの、 つい私もいつもと同じ台詞を返す。
父は特に気にした様子もなくひとつ頷くと、侍女達に向けてさっと手を挙げた。退出の命令だ。私の監視である侍女達もさすがに宰相閣下には逆らう事ができないのか大人しく下がっていく。最後の一人が去り扉がしっかりと閉じられるのを見届け、やっと父は口を開いた。
「妊娠したそうだな」
「はい」
「間違いなく、陛下のお子か」
「間違いありません」
何の前振りもなく単刀直入に言う父に、私も短いがはっきりと答える。
入れないはずの後宮の奥で本来ならありえるはずのなかった話題を口にしているのに、父の様子は普段と全く変わりない。
「それはお前が望んだ事か」
「……いいえ」
親として残酷かもしれないが、これが事実だ。
私は子を望んではいなかった。
いや、考えた事すらなかったと言った方が正しいだろう。
だってずっと、いずれ私は降嫁するかして後宮から去る事になると思っていたのだ。無論その後に誰かとの子を生す可能性は十分あったが、そこまでは興味などなかった。
けれど実際は私は後宮を去る事なく、子を孕んだ。
今、この腹の中に子がいるのだ。
そして、私は母になる。今なお恋いこがれる“母”という存在に、今度は私がなるのだ。
それを思うとひどく不思議な気分になる。
「以前お前は降嫁を願ったが、子を孕んだ以上、もうお前は後宮から出る事はできない」
「分かっています」
「その腹の子は、この国の王子か王女となる。王女ならば良いが、王子ならば難しい立場に立つ事になるだろう。お前の他にもディアレを含め側室がいる。皆お前よりも立場が上の者ばかりだ。他の有力な者も男子を生んだ場合、将来継承争いになる可能性がある。最悪、その腹の子は国の害になるだろう」
「……」
十分考えられる話だ。
だからこそ、ナセルは後宮を作ってなお子を生ませる女を選ぶ。
通常であれば後宮の調整が終わった後、第一子を生むに相応しい女に子を孕ませる。だが今回は後宮の調整がまだ終わっていない上に、末子ならともかく第一子を生むに私は全く相応しい者とはいえない。
避妊しなかった以上陛下にとってはどうかは分からないが、国にとってこの子は予定外の子以外の何者でもないだろう。
先の戦争で陛下が異母弟を粛正したように、生まれる子を調整してさえも争いになる事はある。だというのに、全くの予定外の子であるこの子は尚更争いの種となってしまう可能性が高い。
「……もし男子であった場合、継承権を放棄する事はできますか?」
「無理だ。一族の者が黙ってはいまい。さすがに押さえる事は不可能だ」
私の生む子は私の子である前に王の子であり、ローディル一族の子。子の未来を決めるのは、私でも子でもない。
予想できていた答えに、それでも落胆を隠せなかった。
「堕胎するという選択肢もある」
「……え?」
いったい、父は今なんと言ったのか。
理解できていない私を他所に、父は淡々と続けた。
「陛下は反対なさるだろうから、秘密裏に薬を運ばせる。まだ子が育ちきっていない今なら体への負担も少ないだろう。不安定なこの時期なら流産したと言えば——」
「嫌です!!」
気付けば私は叫んでいた。
恐怖にかられ椅子に座ったまま後ずさる。背中に勢いよく背もたれがあたり、椅子がギッと耳障りな音をたてた。
「この子は私の子です!陛下の子です!!」
「そうだ。お前と陛下の子だ。その子が何を背負う事になるのか、お前は理解しているのか?」
「分かっています。でも——」
「いいや、分かっていない。たとえ平時でも王族は多くの苦労を背負う。その子はそれ以上に苦労する事になるだろう。国に害を及ぼすだけでなく、その子供自身にも苦しみを背負わせる事になる。それでもお前は、子を生むのか」
「それ、は……」
冷水を浴びせられたような気分だった。
——この先に苦しみがあると知りながら生きる人生は、果たして望む価値があるのだろうか。
それは、いつかの問い。
アラム様に、そして私自身に問いかけた、母が死んで10年経ってなおも答えが出る事のなかった疑問だった。
強ばっていた肩の力が抜ける。どこか呆然とした気持ちで、腹を撫でた。
母が死んでからの10年。
辛かった。いつも心の何処かで死ぬ事を願っていた。
けれどこの子が背負う事になるものは、こんなありふれた不幸とは比べ物にならない。きっともっと辛いものになるだろう。
多くの人を巻込み苦労の多い人生を歩ませてしまうくらいなら、生まれてこない方がこの子には幸せなのではないだろうか。
そんな考えが脳裏を過る。
父と目を合わせていられず視線をそらすと、ひとつの花瓶が目に入った。
何も生けられていない、空っぽの青いガラスの花瓶だ。
少し前まで、そこには花が生けられていた。
黄色い花弁の、私と同じ名前の花が。
『生きて、セーレ』
どうしてか、母が今際に言った言葉を思い出した。
そして、ふと思う。
母もきっと、今の私と同じ問いを前にしていたのではないかと。
では、何故母は私に生きてと言ったのか。唐突に、それが分かった気がした。
「生みます」
自分自身にも言い聞かせるようにはっきりと言った。
それまで全く表情を変えなかった父が僅かに眉を寄せる。一瞬怯みそうになったが、我が子の命がかかっている以上ここで引くわけにはいかない。睨むように父を見据えた。
母と同じ立場に立って初めて分かった。
子に苦労を背負わせてしまうかもしれない。そう思うととても恐ろしい。
だが、どれだけこの子が生まれる事で生じる問題を知らされても、どうしても諦められない事があった。
それはとても、単純なこと。
「将来多くの者を争いに巻込む事になってもか」
「それでも。私はこの子を生みます」
確かにこの子は私が望んでできた子ではなかった。
けれど、陛下の子だ。
父に引き取られ貴族になった時から、愛する人との子を得る事など 望む以前に諦めていた。
けれど私は得られたのだ。あの方との子を。
周りの事を気にして気付けなかったが、思えばなんて幸福な事なのだろう。ただ死を願って淡々と生きていた人生に、こんな素晴らしい事が訪れたのだ。
だからこそ決して、子を得た事を不幸な出来事にはしない。
私はこの子を愛しているのだ。
だから国など関係なく、ただひとりの母として願う。
幸せになって欲しい、と。
生きる事は必ずしも幸せな事ではない。けれどきっと、私が母と暮らしたように、陛下に出会えたように、子を得たように、幸せは生の中にこそあるものだ。
だからこそ、私はこの子が幸せになれる可能性に希望を託したい。未来はまだ、決まったものではないのだから。
「……お前も、リィラと同じか」
ぽつりと呟くように父が言った。
父の顔が一瞬歪む。それは以前母の話をした時と同様、苦しそうな表情だった。
「では、逃げるか?」
「え?」
「この後宮から、いや、陛下のもとを去り、ただの平民として、子と生きるか?」
「……」
あまりに予想外の提案に言葉を失った。
そんな選択肢がありえるのだろうか。
追放される事はあっても、王の側室が逃亡するなど聞いた事もない。
「そんな事は不可能でしょう。それに可能であったとしても、もし事が露見すればお父様とてただでは済みません」
「いいや、可能だ。既に私の手の者をこの後宮に引き入れている。お前が望むなら、明日にでも後宮から出してやろう。それにもし事が露見しても、すぐに私の首を差し出せば良いだけの話だ」
「……どうして」
何故、命をかけてまで私とこの子を逃がそうとする。
未来に起こりうる争いを避ける事はできるかもしれないが、宰相たる父であれば他にいくらでも手だてがあるはずだ。 私達を逃がして父の利益になる事など何もなく、むしろ危険しかない。
父は何かを思い出すように、もしくは忘れようとするように一度きつく目を閉じた。
「私はリィラに償わねばならない」
淡々とした口調で父は言った。
だが再び見えた私と同じ青い目はどこか感情的で、いつもの父の様子とはかけ離れている。
思えば母の話をする時はいつもそうだ。いつだってどこか苦しそうな表情をする。まるで何かをひどく後悔しているように。
「いったい何を償わなければならないんですか?母との間で、いったい何が」
思わず禁句としていた質問が口をついていた。
だが言った途端、父はいつもの無表情に戻った。もうその目からは何の感情もうかがえない。答えるつもりはないのだろう。
無表情のまま父は口を開いた。
「……選べ。このまま後宮に居続けるか、堕胎するか、逃げるか。どれを選んでも、私はお前を助けると約束する」
「……」
父と母の事が一瞬で消え去る。
国の未来さえも関わってくる選択肢を与えられ、私は戦いた。
もしかしたらこれは、人生で初めて訪れた選択肢なのかもしれない。
今まで流されるだけであった私にはあまりにも荷が重い。だが、選べないとは口が裂けても言えなかった。
この選択肢には私だけでなくこの子の人生も関わっている。私の子の事だからこそ、他の誰かには決められたくない。
恐ろしさで麻痺しそうになる頭を働かせて必死に考えた。
父は私に三つの選択肢をくれたが、実質私の前にある選択肢は二つだ。
つまり後宮に留まるか、逃げるか。
だがそれも、私の中で既に答えはでているのかもしれない。
「……後宮から逃げ出す事は、本当に可能ですか」
「可能だ」
「事が露見する可能性は?」
「ないとは言えないが、低いだろう。益になる娘を逃したなど誰も思うまい」
「……」
例え人を愛しても、子どもを得ても、人間の本質など変わりはしない。結局私は自分が大切に思っているもの以外はどうでもいいし、国にも興味を抱けないのだ。
そんな私にとって重要なのは、陛下と我が子の事。
どうしても許す事はできないのだ。この子が国の害となる事で苦しむ事も、陛下がそのせいで非難される事も。
たとえ私が逃げ出す事で父や一族の者を危険に晒す事になろうとも、それだけは許せない。
だから。
「逃げます」
だから、逃げよう。
我が子以外の、全てを捨てて。
「この子と共に、ただの母として子として、外で生きます」
申し訳ありません、陛下。
私は結局力にはなれなかった。それどころか、陛下を傷つけようとしている。
それでも、愛しているからこそ後宮にはいられない。
思えば私はいつも逃げてばかりだった。
母の死から、苦しむ事からいつも逃げて来た。私の弱さ故に。
だが、私は母になる。弱いままではいられない。
だから逃げるのはこれで最後。この子を守っていけるように強くなろう。
そして、遠い昔に母と暮らしたように、今度は私が母となって我が子と生きるのだ。
セーレの花咲く、どこか遠い地で。