18. 露見
神の狗と呼ばれる一族がいる。
いや、いたと言うべきか。彼らはアズルム神王国の滅亡と共にその存在理由を失った。
彼らは大陸統一時代からアズルムの王族に忠誠を誓っていた一族だった。王族の側に仕え身の回りの世話に護衛、時には諜報から暗殺まで王族のためなら何でもこなし、その絶対の忠誠から神の狗と呼ばれるようになったらしい。
その彼ら——正式にはルト一族という——は、ある者は主のために戦い、またある者は主の後を追って死んでいった。そして王族と共に、ルト一族の者も一人残らず死んだのだろうと思われていた。
——最近までは。
「それが、違ったようなのです」
赤みがかった茶色の髪が美しい伯爵家の令嬢が優雅にカップを持ちながら言った。
東屋にあるテーブルには、見た目も美しい菓子や軽食、果物などが並べられてる。それらを囲うように色とりどりのドレスを着た側室や令嬢が座り、お茶会が行われていた。
近くに水路が作られたこの東屋の木陰は涼しく、夏のお茶会には最適だ。風通りも良くさわさわと葉がこすれる音が耳に心地良い。爽やかな風が並べられた菓子と側室達の甘い匂いを攫っていき、外で良かったと私はこっそり息を吐いた。
「最近馬車が襲われる事件があるのはご存じでしょうか。それが、神の狗の仕業らしいのです」
「……」
馬車の襲撃がアズルムの残党の仕業かもしれないとマキアに聞いたのはまだ最近の事だ。伏せられているはずのその件がこうしてお茶会の話題に上がってしまっているのは、人の口に戸は立てられないという事か。
甘そうな焼き菓子を避け宝石のように赤いベリーに手を伸ばしながら興奮気味に語る伯爵令嬢の話に私は耳を傾けた。
「なんでも襲った者の一人の頬に大きな火傷の痕があったそうです。それはきっと刺青を消した痕だろうという話ですわ」
ルト一族の特徴として全員が体のどこかに鳥の形を象った一族の紋章の刺青を彫っているというのは有名な話だ。
だが、火傷の痕だけを見てルト一族だと判断するのは早計ではないだろうか。甘酸っぱいベリーを味わいながらそう思っていると
「でも、それは戦争で傷を負っただけではございませんか?」
と、他の令嬢も声を上げた。
「もちろん、その可能性もあります。でも、実はこの間わたくしの知人が被害に遭ったのです。知人は以前顔に刺青のある神の狗を見た事があったらしく、襲ってきた賊はかの者にとてもよく似ていたと……」
「まぁ……」
どうやら戸が立てられなかった口は伯爵令嬢の知人であったらしい。
密やかに語られた話に令嬢達が不安そうに眉を顰める中そう思っていると、私の向かいに座っていたディアレがパチンと持っていた扇子を閉じた。
「この話はこれくらいにしましょう。事実かもしれないとはいえ、確証のない噂を広めては捜査の妨げになるかもしれません」
すっかり伯爵令嬢の話に呑まれていた令嬢達は、ハッと我に帰ったようにディアレを見た。
「この件はわたくし達だけにとどめておきましょう。よろしいですね」
優美な笑みを浮かべながらも有無を言わさぬ雰囲気に、令嬢達は神妙な顔で頷く。原因の伯爵令嬢はおろおろとした様子で言った。
「申し訳ありません。わたくし、そんなつもりでは……」
「わかっております。とても貴重な情報ですもの、きっと陛下も捜査に役立てておられるでしょう。ですが事の真相を語るのは殿方の特権です。先に知ってしまっていたらきっとがっかりなさるから、わたくし達は知らなかった事にしておきましょう」
少し悪戯っぽくディアレが言うと、令嬢達はくすりと笑った。それまで固まっていた場の空気が驚くほど和やかになる。
さすが後宮で実質的に第一位の立場にいる方だ。先を考え行動し、場を支配するこの技量は並の令嬢では真似できない。陛下のお側に立つべくして育てられたのだと実感する。
ナセルの後宮は女性には割と寛容で、こうして外の令嬢を招いてお茶会を催す事ができる。義姉は積極的にこうしたお茶会を開き、外の情報を集めていた。今日も私が得る以上の情報を手に入れている事だろう。
話題はうつり、今度はドレスなど令嬢達が好む話で盛り上がる。
あまり興味のない話題でもいつもは集中して聞けるのだが、何故だか今日は集中できなかった。言葉が意味を理解する前に滑っていく。ぼんやりとした心地のまま、時折頷いたり微笑みながら相槌をうった。
そうしながら頭に浮かぶのは、馬車の襲撃事件の事だった。
マキアに聞いた時にはまだあまり騒がれてはいなかったが、その後何件も起こったこともあり、今やかなり貴族達の話題にのぼっている。私の耳にも頻繁に話が聞こえてくるくらいだ。
そしてついに先日、死者がでたらしい。
状況を考えれば、むしろ今まででなかった事の方が不思議なくらいだ。
こうも頻繁に捜査の目をかいくぐり襲撃する事ができたというのに、殺さず軽い怪我を負わせるだけなどわざとであったとしか思えない。しかも、もしも伯爵令嬢の言葉が真実であったのだとしたら、あの襲撃はルト一族の者が行っているという事になる。紋章こそないものの、それを彷彿とさせる火傷の痕を晒して。
それはつまり——
「では日も傾いてまいりましたし、今日はお開きに致しましょうか。皆様、本日はお集りいただきありがとございました」
ハッと気付くと、お茶会はちょうど終わりの時間となっていた。
令嬢を見送るべく立ち上がったディアレに続いて慌てて立ち上がる。
令嬢達は皆表面上はにこやかに去って行き、側室である私とディアレだけがその場に残った。
「ずいぶん、ぼんやりしていたわね。わたくし以外気付いていなかったから良かったものの、そのような醜態を晒すなどどういうつもり?」
「……申し訳ありません」
冷たい目で睨まれ、私は頭を下げた。
ぼんやりしていたのは事実のため弁解のしようもない。
「掛けなさい。話があるわ」
「はい」
椅子に掛けると、新しいお茶が置かれた。
その瞬間かすかにお茶の香りが鼻に届く。つい先日までは楽しめていた香りは今や私を苦しめるものでしかない。こみ上げた吐き気を必死に堪えた。
「お前、ガゼス•ノードに降嫁するそうね」
「はい。叙爵式の際にノード様にわたくしの降嫁を望んでいただく予定です」
「お父様から申し込んだと聞いているけれど、もしかして、お前がお父様にお願いしたの?」
「そうです。わたくしからお父様に降嫁を願いました」
「……」
ディアレは柳眉を僅かに寄せ、何かを考えるように目を伏せ黙り込んだ。
沈黙が降りる。
私から話す事などなく、並べられたお菓子やお茶に手を出す気にもなれない。気まずい思いで待っていると、少ししてディアレは目を伏せたまま言った。
「お前がガゼス•ノードに降嫁する事を、陛下はご存じなのかしら」
「おそらく、ご存じではないかと。ですが、降嫁に関しては陛下から考えるとお言葉をいただいておりますので問題はないでしょう」
「まさかお前、お父様だけでなく陛下にも降嫁を願ったの?」
ハッと顔を上げてディアレは言った。
親族からならともかく側室自身から陛下に直接降嫁を望む事など通常ならばありえない事だ。義姉が驚くのも無理はないし、父と同様真面目な義姉はそのような事は許さないだろう。
「はい」
怒りを買う事を覚悟して頷くと、義姉の顔が歪んだ。
「……お前はいつもそうだわ」
低い声だった。
頬が引き攣り、目の下に皺が寄る。そこから感じられるのは予想していた怒りではなく、紛れもない嫌悪だった。
「いつだって何もかもに無関心。責任も覚悟も何もなくのうのうと人が望むものを手に入れておきながら、簡単にそれを捨てるのよ」
顔に、声に、目に、何もかもに嫌悪を滲ませ義姉は言った。
「……」
ディアレが言っている事は正しい。まさしく私は彼女が言う通りの人間なのだと自分でも思う。
何も言い返せるはずもなくひたすら沈黙していると、吐き捨てるようにディアレは言った。
「お前のような者は陛下のお側には相応しくないわ。血の問題ではなく、お前という人間そのものがね。降嫁を直接願った事は決して誉められた事ではないけれど、今回は英断と言えるでしょうよ」
鋭い眼差しが、まっすぐに私を見る。
それを受けこみ上げたのは、何とも言えない衝動だった。
「……何を笑っているの」
「いえ、いつでもあなたは正しいと思いまして」
いつの間にか笑っていてしまったらしく、ディアレが苛立たしげに眉間に皺を寄せた。
思えばディアレは冷たく当たるが、間違った事を言ってきたことは一度としてなかった。
妾の子とは言われても母や育ちを侮辱された事はない。 いつだって不出来な部分を指摘していただけだ。
一族のためだとしても、きっと嫌いであろう私の事を正しく導いてくれた人だった。
たとえ嫌悪にかられて言った言葉であろうと、やはりそこに間違いなどないのだ。
「その通りです、ディアレ様。私は陛下のお側に相応しい人間ではない。あなたのような方こそが、国の母たる王妃にふさわしいのでしょう」
辛い事から逃げ、流されてきてばかりの私とは違う。
義姉は陛下のお側にあるために幼い頃から努力をし続けてきた人だ。
誰もが反対する中たったひとりででも自分の意見を言い、陛下のお考えを理解できる後宮の至高の方。
今更ながらに気付いた。
私が後宮において価値がないのは、私が庶子だからではない。
歴史を振り返ってみれば庶子だった王妃など何人も存在する。むしろ平民から後宮に入った者さえいるのだ。それを考えれば侯爵家という上流貴族の子である私には何の問題もない。
つまり問題は、私自身にあったのだ。
たとえ庶子であろうと、優秀な義姉や有力な側室達がいようと、王の側にいるに相応しい器量を示していれば良かったのだ。そうしていれば、後宮において不要な存在にはならなかった。
それなのに、私は陛下を愛した後でさえお側にいる努力をせず逃げる事しか考えなかった。つまり私は自らの手で価値を落としたのだ。
強く、気高く、いつだって努力を怠らない義姉に、そんな私が敵うはずがない。それこそ血の問題ではなく、私と言う人間が義姉の足下にも及ばないのだ。
後宮において器量で義姉に敵う者はおらず、家柄も他の側室達に劣るものではない。だからおそらく、アラム様が正妃になっても実際は義姉が陛下の隣に立つ事になるのだろう。
義姉は父に似てとても真面目な人だ。私には冷たいが、令嬢から使用人に至るまで多くの人に慕われるだけの人徳もある。
あの方の弱いところも、きっと受け止められるだろう。そしてディアレなら一緒に問題を解決に導く事もできる。
そんな方が陛下のお側に残るのだ。悲しい気持ちはあるけれど、安心もできる。
それらが入り交じった何とも言えない感情を抱きながら、私は義姉に笑いかけた。
「お前、は」
義姉の顔がさらに険しく歪む。だが怒ってさえディアレは美しい。
場違いとは分かりつつも思わず見蕩れた。
その時ふと、風向きが変わった。
先ほどまで匂いを攫っていた風が、今度は正面からぶつかるように頬を撫でていく。
甘い甘い菓子の匂いが、鼻に届いた。
「……つ!」
その瞬間吐き気がこみ上げ、口元を押さえ俯いた。
誤摩化す事もできず、ひたすら吐きそうになるのを堪える。
なんとか吐くのは耐えきり顔を上げると、ディアレは呆然とした表情で私を見ていた。
「申し訳、ありませ……」
「どうしてよ!!」
鋭い痛みが腕に走った。
反動で椅子から転げ落ちる。何が起こったのか分からず腕を見ると、赤い筋が刻まれ、そこから血が溢れていた。
「どうしてよ、どうしてお前は……!」
ディアレが叫ぶ。
泣きそうな顔をして髪を振り乱し、手を振るった。テーブルに阻まれて届かないそれが鋭く空を切る。
その手に握られたテーブルナイフを見て、私はやっと義姉に切られたのだと気がついた。
「セーレ様!!」
「ディアレ様、お止めください!」
話が聞こえないように少し離れた所にいた侍女達が駆けて来た。
シェディルが庇うように私の前に立ち、他の侍女達が必死の形相でディアレを止める。
「どうして、どうして!」
ディアレは押さえられてもなお叫び暴れた。
先ほどまでの、怒っていても気高かった義姉の姿はそこにはない。あるのはただ取り乱したひとりの女の姿だ。
いったい何故切りつけられたのか、ディアレはこんなに取り乱しているのか、起こっている事が何ひとつ理解できない。
ただ、いつもとかけ離れた義姉の姿が信じられなかった。
「お姉様……」
「姉と呼ばないで!お前なんか妹じゃない!!」
無意識のうちに呟くと、鋭く睨んでディアレは叫んだ。そして暴れ、侍女達の手から逃れようとする。
やがて騒ぎに気付いた者に義姉が連れて行かれるまで、私は呆然と見ている事しかできなかった。
「セーレ、大丈夫か!?」
そう言って、陛下が私の自室にいらっしゃったのは、あの騒ぎから少し経った頃だった。
走って来たのか息が少し上がっている。いつも部屋にいらっしゃるときに連れている女官長の姿もなく、よほど急いで来てくださったようだった。
「はい。腕ですし、ただのかすり傷です」
「そうか。無事で良かった」
珍しく険しい表情を浮かべていた陛下は、私の腕を見てほっと息を吐いた。
菓子を食べるためのテーブルナイフにさしたる殺傷能力などあるはずもなく、腕の傷は本当にたいした事のないものだった。血も止まり今では赤い筋が残っているだけだ。
シェディルが大袈裟に心配したため医者に全身を診察されたが、腕のかすり傷以外はどこにも異常はない。
「……義姉はどうしていますか?」
「自室に謹慎させている」
この件を苦慮されているのか、僅かに表情を曇らせて陛下は言った。
部屋に帰らされてからも、ずっと取り乱したディアレの姿が頭から離れなかった。
あんな義姉の姿を見るのは初めてだ。義姉は冷たく接する事はあっても、怒鳴りつけたりした事はない。いつも毅然としていて、私が知る限り感情的になる事はない人だった。
それがあんな風になりふり構わず取り乱すなど、今でも信じられない。
「そなたには悪いが、この事は公にはできない。侍女達には口止めし、なかったことにする」
「それは別に構いません。ですが、義姉は何故突然……」
政治的にいろいろとあるのだろう。その上今回は姉妹で起こした問題のため、公にしたところで一族の恥にしかならない。私としても大事にはしたくないし、その方がありがたかった。
それよりも気になるのは義姉の事だ。
あの時ディアレは怒ってはいたが、取り乱すほどではなかった。きっと理由は他にあったのだと思う。だが、それが何か心当たりが全くなかった。
おそらく政務からまっすぐ私のもとへ駆けつけてくださった陛下は義姉の事情など知らないだろう。それでも思わず疑問を口にすると、陛下はおもむろに口を開いた。
「それは、気付いたからだろう」
「気付いた?いったい、何に……」
不意に、陛下が笑った。
いつもとさして変わりない笑顔だ。それなのに何故か嫌な予感がして、この場から逃げだしたい衝動に襲われた。
「セーレ、そなた最近、随分体調が悪いな」
「はい。夏には弱いので。でも、毎年の事です」
夏になると暑気中りになるのは陛下もご存じのはずだ。いったい何故唐突にそんな事を聞くのか理解できないまま頷くと、陛下は僅かに首を傾げた。
「そうか?確かに毎年体調を崩しているが、ここまでひどくなかっただろう?少なくとも、茶が飲めなくなるほどではなかったはずだ」
「そう、ですが」
その通りだ。確かに毎年ここまでひどくはなかった。
でもこれは、今年が特に暑い事が原因であるはずだ。侍医もそう言っていた。
侍医の報告は陛下も聞いているはずなのに、何故疑うような事を言うのだろう。
侍医の腕を疑っているのか、それとも他の何かがあるのか。
嫌な予感が強まり、心臓が忙しなく動き出す。
顔が強ばる私とは対照的に、 どこか楽しそうに陛下は言った。
「個人差もあるが、暑気中りの症状によく似ているらしいな。男の私には一生分からぬ事ではあるが」
「……」
ひとつの可能性が頭を過る。
だが、それがありえるはずがない。
だって私は陛下のお側から去る者なのだ。その私に、そんな事が起こるはずなどない。
起こるはずなどないのだ。
「セーレ」
嫌だ。聞きたくない。
首を振り後ずさる。
だが陛下は構う事なく近づき、私の腹に手を当てうっそりと囁いた。
「ここに、子がいる。——私の子だ」