17. 残りの期限
「体調が優れないと聞いたが、大丈夫か?」
そう言って、陛下がお見舞いに来てくださったのは孤児院へ出向いた翌日の事だった。
やはり体調の良くない状態で出掛けた事が良くなかったらしく、今日は特に気分が優れない。朝から寝台の住人となり、シェディルには怒られ次は決して体調の悪い状態では出掛けないと約束させられた。たいした事ではないと思っていたが、こうして陛下にまでご心配をおかけしてしまったのだ。やはり無理矢理行くべきではなかったのだろう。
私は気まずい思いをしながら、寝台の上で頭を下げた。
「少し気分が優れませんが、大丈夫です。ご心配をおかけしてしまい申し訳ありません」
「そなたは毎年この季節になるとこうなるからな。仕方ないだろう」
そう言って、陛下は苦笑する。
王都に移り住んでもう10年経つのにいつまでもこの暑さに慣れない自分が情けない。だが、ここまでくれば最早体質だ。もしかしたら一生この夏の暑さには慣れる事はないのかもしれない。
「食欲がないらしいが、こういったものなら食べられそうか?」
「……少しなら大丈夫です」
陛下が持ってきてくださったのは、オレンジの一種のようだった。それほど大きなものではなく、拳ほどの大きさだ。
さっぱりしたものなら食べられそうな気がして頷くと、すかさずシェディルが果物を受け取り食べやすいように皮を剥きだす。最近食欲がないせいか、シェディルは私に食べさせる事に執心しているのだ。
あっと言う間に果物がのった皿が差し出され、ひとつ手にとって口に運んだ。程よい甘みと酸味が口に広がる。
「おいしいです」
「そうか。ではまた届けるように言っておく。少し痩せたようだからな。食べられそうなものがあれば言うといい。用意しよう」
「ありがとうございます」
心配そうにおっしゃる陛下に申し訳なくなると同時に嬉しくなる。
こんな些細な事でさえ喜んでしまう自分に呆れるが、これもあと少しの事なのだ。自制するよりも素直にこの感情を受け止めようと思った。
果物を食べるように促され口に運ぶ。それからなんとか半分程は食べたが、残りはどうしても食べられず残してしまった。
「思ったよりも、随分食欲がないようだな」
眉をひそめて陛下が呟く。
しかし、これでも最近の私にしては食べた方だ。シェディルは嬉しそうな顔をして皿をさげ、かわりにお茶を淹れると、一礼して静かに部屋を出て行った。
「……これは母茶か?」
母茶の独特の匂いに気付いたのか、陛下が言った。
「はい。普通のお茶も飲めないことがあるので、最近は母茶を飲んでいるんです。どうやら母茶なら大丈夫なようですので」
味の濃い料理もそうだが、最近はお茶も飲めない事が多い。しかし幼い頃から馴染んだ母茶なら特に問題なく飲めるようで、最近は母茶を飲んでいる。一応大丈夫かシェディルの勧めで侍医に見せたが、栄養もあり体に良いのでぜひ飲むように勧められた。
「陛下が花をたくさんくださったのでまだ茶葉がたくさんあるんです。おかげで助かりました」
母茶を口に含む。独特の香りが口に広がり、ほっと息をついた。
陛下は穏やかに微笑み、母茶を飲む。
「昨日は孤児院へ行っていたそうだな。孤児院の様子はどうだった?特に、アズルムの子供達は」
「一緒に来た青年の職員がうまくまとめているようです。問題はなさそうでした」
アズルムの孤児院からの引き取りは、国が依頼した事だったらしい。これからアズルムの民を受け入れていくための一種の実験として行ったのだ。
私が見た限りでは子供達は国など関係なく仲良くしているようだった。きっと保護者の対応が良いのだろう。あそこの院長は常日頃から子供は宝だとどんな子供であろうと可愛がる人であるし、あの青年も母国を滅ぼされた事などまるで気にしていないようにナセルの子供達にも笑いかけていた。
「子供は大人を見て学ぶものです。どこの孤児院でも上手くいくとは言えませんが、あのように分け隔てなく接する事のできる教育者がいる所であれば、きっと上手くやっていけるかと思います」
「そうだな。今後孤児院を選んでいく上で、それが第一前提になるだろう。それにやはり、まだあまり偏見のない子供達だととけこみやすくて良いな。大人だとそう容易くはいかぬ。特に“神”を信仰していた者達ほど厄介なものはない」
アズルムを併呑して数ヶ月。現在ではまだ上手くいかない事も多いのか小さな暴動が何度か起こっていると聞く。そのほとんどが宗教の問題らしく、その事を思い出してか陛下は少し疲れたような表情でため息を吐いた。
「だが、かの国の行いが悪かったのか、想像よりは信徒が少なかったのが救いだ。大半のアズルムの民、特に一部の裕福層以外にはナセルの民と同等の扱いをすると言えば、むしろ喜んで受け入れる者もいた」
基本的にアズルムの民は生まれにより住める地域や職が決まっており、それが一生変わる事はない。またその最下層である貧民街に住む民は、人としてすら扱われていなかったと聞く。その生活はその日の食べ物に困るほど悲惨であり、毎年多くの餓死者が出ていたらしい。
国からそのような扱いを受けていれば信仰が離れるのも当然だと思えた。
「問題は裕福層にいた者達だ。今まで甘い蜜をすすっていた奴らはナセルに併呑されるのがよほど気に喰わないらしい。恭順せず逆らう者は捕らえ、あるいは処刑したが、いまだに逃れ水面下で何やら企んでいる者どももいる。——だが」
ふっと、陛下が嗤った。
背筋が凍る。
つい先ほど穏やかな微笑みを浮かべていたとは思えないほどの冷たい笑みだった。
「それも、あと少しだ」
「……」
あと少し。それは、アラム様との婚姻を意味しているのだろう。
アラム様を王妃に据えてしまえば、ナセルに“神”を取り込んでしまえる。彼らが新しい太陽の瞳の持ち主を見つけ出さないかぎり、彼らの“神”はナセルのものなのだ。
そしてもうひとつ。アラム様を王妃にする宣誓式にも意味がある。
宣誓式は、カラハ教の法王のもとに行われる。つまりナセルだけでなく、カラハ教にもアズルムは下る事になるのだ。
かつてカラハ教を消し去ったアズルムが、今度はカラハ教によって消し去られる。
アズルムの復興を願う者たちはさぞ焦っていることだろう。宣誓式を終えてしまえばアズルムの復興は限りなく難しいものとなるのだ。
アズルムの“滅びの日”は迫っている。
そして、私の終わりの日も。
「……すまない。見舞いに来てする話ではなかったな」
思わず俯いてしまった私に気付いたのか、元の穏やかな様子に戻り、陛下が申し訳無さそうに言った。
「いいえ。構いません」
首を横に振り、陛下を見上げる。
あと少しだ。あと少しで私はノード様に降嫁する。
迷いはない。納得はしている。——けれど。
「どんなお話でも良いのです。あなたが話してくださるのならば」
けれどせめて、思い出が欲しい。
どんな他愛ないものでもいい。陛下と過ごした思い出が、少しでも多く欲しいのだ。
それがあればきっと、これからの人生に耐えられるから。
「……」
ふと陛下の顔から表情が消えた。
陛下は無表情のまま、大きな手を伸ばした。撫でてくださるのだろうかと思ったが、その手は触れる直前に躊躇うように止まった。 そのまま触れる事なく手が下ろされる。
「……すまない」
「……」
それは何に対しての謝罪だろうか。
思えばいつからか陛下は私を撫でる事さえしなくなった。隣に座り共にお茶を飲んだり酌をする事はあれど、陛下は私には触れない。お渡りはあるけれど寵はなく、大きな寝台の中で距離を置いて共寝をするようになった。
思わず自嘲に唇が歪む。
陛下はこうして私の身を案じてお見舞いに来てくださっている。だからきっと、厭われたわけではないのだろう。
つまりこれは、私自身が望んだ結果なのだ。降嫁を自ら願った、私の望んだ距離。
私は自ら陛下に触れていただく資格を放棄したのだ。
「セーレ」
名を呼ばれ顔を上げる。
陛下はじっと私を見つめていた。
その顔には笑みはない。ただ真剣な目で私を見ていた。
「あと少しだ」
「……」
「あと少しで……」
何かを言いかけて、陛下は沈黙する。
その言葉の先に何があったのかは私には分からないけれど。
——そうですね、陛下。あと少しです。あなたのお側にいられるのは。
あなたに触れる事はもう叶わない。だからその分、こうしてお側にいられる時間を大切にする事にしよう。
そしてその思い出を抱いて、私はこれからを生きていく。
ただ死の訪れを待ちながら無為に過ごしていた以前のようには決して戻るまい。
陛下は私に生きる希望を与えてくださった。だからこそ、想いが叶わずとも陛下を愛した事に意味はあったのだと、そう思える人生を送ろう。いつか最期を迎える時、母に、陛下に、そして自分に胸を張れるように。
この恋を、誇れるように。