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セーレの花  作者:
14/28

14. 愚かな夢

長椅子を立ち、部屋の中を無意味に歩き回る。置いてあったショールを肩に掛け、再び長椅子に腰掛けた。

そわそわと落ち着かない気分に皺が残るほどショールをにぎり締める。その時ドアをノックする音が響き、私は思わず立ち上がった。

「セーレ様、陛下がいらっしゃいました」

「すぐ行くわ」

はしたないと分かりながらもドレスの裾を翻して部屋を出る。

早足で応接間へ行くと、いつも通り長椅子に腰掛ける陛下の姿があった。

「セーレ?どうした、そんなに慌てて」

私を見て苦笑なさる姿もいつもと変わりない。いたってお元気そうな様子に安堵のあまり涙が出そうになり、気付かれないように押さえ込んだ。

「……陛下、ご無事で何よりです」

あの凶刃が陛下に届かなかった事は見ていたのだから知っている。けれど目の前でご無事を確認するまでは不安で仕方なかった。

不意に陛下が立ち上がり、私の頬に触れた。

——あたたかい。

それがどうしようもなく嬉しく、目を瞑り少しだけ頬をすりつけた。

「……そなたには救われたな」

「え?」

陛下をお救いしたのは私ではなくノード様だ。

言葉の意味が分からず目を開けると、真剣な眼差しで私を見下ろす陛下と目が合った。

「あの時、そなたの声が聞こえた。あの声がなければ誰も男に気付く事なく、私は殺されていただろう。……そなたのおかげだ」

「……」

あの時、陛下を失う恐怖にかられ叫んだ私の声。

それが、届いていたのか。あなたを救う事ができたのか。

せっかく堪えていた涙がじわりと滲む。それでもそれ以上は堪え、震える手を伸ばした。

「……無事で良かった」

飾る事のない本音がこぼれ落ちる。

触れた陛下の頬は手と同じであたたかい。生きている証だ。

無事で良かった。あなたが生きていて、本当に良かった。

あなたが健やかであってくれるのならそれで良い。それだけで十分だ。

この先、お側を離れるのだとしても。






陛下が襲撃されるという事件があったにも関わらず、夜会は依然として頻繁に行われている。

きらびやかに踊り談笑する様は、まるであんな事などなかったと言わんばかりだ。よほど肝が据わっているのか、それとも他人事だからなのか。おそらく後者なのだろう。

いつものように表面上はにこやかに笑う人々の間をすり抜け、私は目的の人物を探していた。

「お父様」

ちょうど話終えたところだったらしい。ようやく見つけた父は話相手に挨拶を告げ、私を振りかえった。

「息災か」

「はい。お父様もお変わりなく」

いつもの挨拶をし、頭を下げる。今日は義兄は近くにおらず父一人だった。その事にほっと胸を撫で下ろす。滔々と毒を吐く義兄は昔から苦手だ。義兄がいたほうが事は上手くいくかもしれないが、あまりあの人に引っ掻き回されたくはない。

「……お父様、お話したいことがございます。ここでは人目がありますので、できれば休憩室へご足労願えますか」

なるべく周りには聞こえないように低い声で言う。

父は僅かに目を細めただけで、理由を問う事もなく頷いた。



広間の近くには休憩室がいくつかある。

用途は文字通り休憩するための場所だが、男女で休憩室へ行けば異なってくるものだ。しかしそれが親子ならば疾しい事などあるはずもない。私と父は誰に見とがめられる事もなく休憩室へ入った。

「話とは何だ」

長椅子に座って早々父が言った。

もとより父が意味のない世間話などするはずない。念のために扉に鍵をかけ、机を挟んだ父の前に腰掛ける。二人きりで話すのは初めてだが、父は特に動揺した様子もなく、いつも通りの無表情だ。

「陛下に、わたくしの降嫁をお願いしていただけませんか」

率直に要望を告げると、父の眉が一瞬動いた。だが、それ以外は変わりなく、淡々とした様子で父は言った。

「誰か降嫁したい者でもできたのか」

「いいえ」

「では理由は」

ほんの数日前に同じようなやり取りをした事を思い出す。その時は前に座っていたのは陛下で、私はまだあの方への想いに気付く前だった。

「……」

陛下にそうしたように建前の理由を言おうとし、けれど無表情に私を見る父を見て、言うのをやめた。

後宮に入った娘の処遇について、基本的に親族の者が口出しする権利はない。降嫁させるか否か、また誰にやるのかさえ決めるのは陛下だ。しかし、こういった決まりは実際は建前で、親族が願い出るという形で口出しすることは多くある。

だが、父は珍しいくらい真面目な人だ。以前義兄がノード様を私の降嫁先に推した時も反対していた。その父にこのような事を頼むのなら、建前の理由などでは納得してくれないだろう。

「……陛下のお側にいることが辛いのです」

平静を装いたかったが、絞りだした声は僅かに震えてしまった。

手に爪を食い込ませ、高ぶった心を鎮める。そっと息を吐き、無表情なままの父をひたりと見つめた。

「お父様の陛下への忠誠は知っています。けれど、わたくしは後宮にいてもいなくても良い存在でしょう。一族にも陛下にも、どちらの役にも立たない。ならば降嫁させてはもらえませんか。意味も価値もなく、陛下のお側に居続ける事は辛いのです」

貴族の娘として、これほど愚かしい願いはないだろう。

本来王侯貴族の婚姻は政治や血を繋げるためのものであり、情など関係ない。それを『辛いから』などという理由で辞せるのなら、誰も苦労などしないだろう。

どれほど愚かな事を言っているのかは自分でも分かっている。けれど、言わずにはいられなかった。

無関心ではなくなろうとも私が臆病な人間であることに変わりなどないのだ。

どんな形であれ想う人の側にいたい。——そんな事は私には思えない。

意味も価値もないのにお側に居続け、他の女性達と子を生すのを見ていられるほど私は強くはない。それならば、どこか遠くで陛下の安寧を祈っていたいと思う。

つい先日、また一人の側室の降嫁が決まった。けれど、相変わらず私のもとへ降嫁の通知はこない。

陛下は私の降嫁を考えるとおっしゃってくださったが、万が一調整が上手くいかず後宮に残る事になったらと思うと身がすくむ。だからこそ、降嫁を確実なものとしたいのだ。

「……」

父は何も言わない。

やはりこのような理由では駄目なのだろう。けれど、以前言ったように「畏れ多くなった」と言っても、きっと陛下と同じように否定されるだけだ。

だから卑怯だとは分かりながらも、私は口を開いた。

「……お忘れかもしれませんが、わたくしは母の娘です。お父様のもとではなく、たった一人辺境の村でわたくしを育てた母の娘」

母の事を口にした途端、それまで変わらなかった父の表情が僅かに険しくなった。

「何が言いたい」

これまでにないほど強い視線に射竦められ、怯みそうにになる。さらに強く爪を手に食い込ませ、私は続けた。

「母がお父様のもとを去ったのは、わたくしと同じような理由からではありませんか」

「……お前の母がそう言ったのか」

「いいえ。母がお父様の事を話した事は一度もありませんでした。ただの推測です」

父は真面目で、それでいて厳しい人だ。そして、母は穏やかで優しく、堅気な人だった。

そんな二人が何故身分差というものを超えてまで私を生したのか。きっと、よくある話のように主人が気まぐれで使用人に手を出しただとか、そんな理由ではない。もっと違う何かがあったはずだ。父の人柄を知った時から、私はずっとそう思っていた。

けれど二人は決してお互いの事を私に話す事はなかったから、なんとなくそれが禁句だという事は理解していた。だからこそ今まで尋ねる事はしなかったのだ。

それを今ここで持ち出すことの卑怯さは理解している。けれど揺るぎない父を動かす方法は、これしか思いつかなかった。決して父を傷つけたいわけではない。ただほんの少しでいいから同情してほしいのだ。

父は低い声で言った。

「お前の推測は間違っている。リィラが去ったのは、そんな理由ではない」

「……」

——リィラ。

母の名だ。父の口からその名を聞いたのは初めてだった。

母の名を言った瞬間、父は苦しそうに顔を歪めた。

それはとても思い入れのない人の事を語る目ではない。やはり、父と母の間には特別な何かがあったのだ。

「……では、母はどうして——」

「それをお前が知ってどうする。お前がいなければ、リィラは今も私のそばにいた」

「……っ」

責めるように、いや、実際責めているのだろう。父に睨みつけられ、私は耐えらず視線を逸らした。

疎まれている事は知っていた。父に望まれて生まれたのではないと分かっていたけれど、これほど父にとって私の存在が不本意なものだとは思っていなかった。

母はどうだっただろう。母はいつも笑っていた。私がいて幸せだとも言ってくれた。

けれど隠していただけで、母にとっても私は不本意な存在だったのだろうか。私など生まれてこなければと思っていたのだろうか。

父を揺らがすつもりだったのに、ぐらぐらと自分の中の何かが不安定に揺れる。

それは理性なのか、私の存在意義なのか。やはり禁句など言うべきものではないと、どこか冷静にそう自嘲する自分がいた。

何も言う事ができず俯いていると、父は唐突に立ち上がった。そして真っすぐに扉の方へ歩き出す。

「お父様」

咄嗟に立ち上がり呼ぶと、父は扉に手をかけ立ち止まり、振り向くことなく言った。

「……陛下には、お前の降嫁を願い出ておく」

「おと——」

呼ぶ間もなく扉が閉まる音が響く。

父は出て行ってしまい、私一人が部屋に取り残された。

「……」

崩れ落ちるように長椅子に座る。次いでこぼれ落ちたのは、深いため息だった。

陛下の事、父と母の事、降嫁の事、色々な事が頭の中をぐるぐるとまわる。頭の中と同様に心もぐちゃぐちゃだった。

泣きたいのか、笑いたいのか、嬉しいのか、悲しいのか。その全てを混ぜたような言いようのない衝動が胸をつく。

父の説得には成功したが、以前のようにこれで良いとは思えない。どう転んだにせよ苦しいのは変わりないのだ。私はただ、その苦しさが少しでも少ないだろうという道を選んだだけ。

ふらふらとした足取りで立ち上がり、休憩室を出た。

今日はもう笑える気がしない。部屋へ戻りたいと近くにいた侍従に伝えると、よほど顔色が悪く見えたのかすぐに後宮まで送られた。

予定の時間よりだいぶ早く帰った私にシェディルは驚いた顔をしたが、すぐに就寝の準備を整えてくれた。

寝台へ寝転がり目を瞑る。疲れているのに眠気は一向に訪れない。

そうしていると、眼裏に先ほどの父の姿が浮かび上がった。初めて私に表情を見せた父。

そして父は消え、次に母の姿が。

どこか淋しそうな横顔。私の前ではいつも笑っていたけれど、時折ふとした拍子にそんな顔をすることがあった。指摘したら母が泣いてしまいそうな気がして、私はずっと気付いていない振りをしていた。

そして母の姿も消え、陛下の姿が浮かび上がる。責めるような顔をした陛下。何も望んでいないのではなかったのかと、無言で私に訴えている——。

「……」

とても眠る気分になれず、私は寝台から起き上がった。水差しのグラスを手に、そのまま寝室を出て応接間へ向かう。蝋燭の明かりを頼りに部屋を進み、隅にある棚を探った。

この棚の中には酒がある。いつも陛下にお出ししているものだ。それを持ってきたグラスに注ぎ、一気に飲み干した。

いつも陛下はもっと飲まれているが、下戸の私にはこれだけでもかなりの量だ。すぐに体が熱くなり、立ち眩みのように頭がふらふらとする。そのままなんとか寝室へ戻り、寝台へ身を投出した。

先ほどとは違い、すぐに瞼が重くなる。

これで良い。何も考えたくない。

何もかも忘れて、今はただ眠りたい。






ふと気付くと、目の前に陛下がいた。

何故、陛下がいらっしゃるのだろう。ぼんやりとした頭のまま、目の前の陛下を見つめる。

陛下は無表情に私を見下ろし、不意に顔を近づけてきた。唇が重なる。

反射的に口を開き、舌を迎え入れた。優しく絡められる舌にうっとりとした心地で目を瞑る。直後にこの3年で染み込んだ感覚が体を突き抜け、私は息を呑んだ。宥めるように陛下が優しく私の頬を撫でる。目を開くと、愛おしそうに私を見つめる陛下と目が合った。


——あぁ、これは夢か。


あさましい私が見る、愚かな夢。心の奥底にしまいこんだはずの願望。

現実で陛下が私を愛おしそうに見るはずなどない。こんな夢を見てしまうなんて自分が情けなく、自嘲に唇が歪んだ。

けれど同時に、別にいいかとも思う。現実は苦しいばかりだから、夢でくらい私だって幸せになりたい。

私に覆い被さっている陛下の背中に抱きつくように手をまわした。陛下は一瞬驚いた顔をしたが、嬉しそうに微笑んで再び口づけを落とす。

私はそれに応えながら強く抱きつき——その背中に爪を立てた。

一瞬陛下の体がビクリと震えたが、構うことなくより鋭く爪を立てる。皮膚を傷つけた感触が手に伝わった。

どれだけ快楽に溺れても、陛下の体に傷をつけたことは今まで一度もない。

けれどこれは夢だ。私の願望をうつした愚かな夢。

躊躇うことなく腕にも爪痕をつけ、肩に噛み付く。血の味がするまで噛んだそこを、今度は癒すように舐めた。

陛下が呻くような声をあげ、余裕のない性急な動きに変わった。私はそれに抗うことなく身を任せる。

もし、叶うのならば。

もしも叶うのならば、このままこの痕が現実の陛下にも付いて消えなければいい。私という存在をその体に刻みつけてしまえばいい。

何故この感情は母を想うように穏やかなものではないのだろう。そうであったなら、きっと陛下の幸せを純粋に願い、それで私も満足できただろうに。

子供染みた独占欲はどこまでも肥大化し、陛下の幸せを願う一方で、陛下を傷つけることさえ望んでしまう。

なんて愚かで、おぞましく、醜い——。

けれど、醜悪でひどく苦しいこの感情こそが、人々が尊ぶ『愛』だというのなら。


愛しています、陛下。

あなたを傷つけてでも痕を残したいと願うほどに、あなたが死んでしまったら生きていけないほどに、深く、深く——。






「おはようございます、セーレ様」

声と共にさっと辺りが明るくなり、私は目を覚ました。

強烈な光が目を灼き、何故か頭がひどく痛む。あまりの痛みに呻き声を上げ、再び寝台に沈んだ。

「……もしかして昨日お酒を飲まれました?」

シェディルの少し呆れたような声が耳に届く。その言葉に昨日寝る前に酒を飲んだ事を思い出し、私は手で光を遮りながら頷いた。情けない事に二日酔いのようだ。強烈な頭痛がする上に全身が気だるい。

「お薬いただいてきましょう。でもその前にお水飲んでお顔を洗ってください。多少はすっきりしますよ。今洗顔用のお水もってきますから」

そう言ってシェディルは寝室を出て行った。

痛む頭を抑えてなんとか起き上がる。言われた通りに水を飲めば、依然として頭は痛むものの確かに多少はすっきりとした。

「……」

体を見下ろす。眠る前に着た寝間着は特に乱れなどなく、体も気だるいものの不快感はない。敷布も清潔だ。

やはり、アレは私がみた都合の良い夢であったようだ。落胆か安堵か、あるいはそのどちらも混じった複雑なため息がもれた。

「お待たせしました」

シェディルが水の入った盥を手に寝室へ戻ってきた。盥を差し出され、大人しく顔を洗うべく手を入れる。

水に手を沈めた瞬間、ふと爪が赤くなっている気がした。

だが引き上げた手の爪はどこも赤く汚れてなどいない。いまだに現実であったならと期待する自分に、抑えきれない自嘲をこぼした。



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