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セーレの花  作者:
13/28

13. 心と命

「おや、珍しい。あの方が前に出られるなど」

「ついに自分でも降嫁先を探し始めたか?」

ひそひそと辺りから囁き声が聞こえる。

最初は気になって仕方なかったが、数度も経験すれば人間慣れてしまうものだ。私は声には気付いてない振りをして、目の前でダンスを申し込んでいる男の手をとった。曲が始まり、腰に手を回される。その居心地悪さを堪え、導かれるままにステップを踏んだ。

「今まで高嶺にいらっしゃったご寵姫の手をとる機会が訪れるなど光栄な事だ。頑だったあなたを一体誰が心変わりさせたのでしょうね。ぜひお礼を申し上げたいものです」

さり気なさを装って相手の男が話しかけてくる。

ダンスの最中の会話も夜会の嗜みのひとつ。それが情報収集というものであってもだ。

聞こえだけは良い空々しい言葉に私は薄く微笑み、男と目を合わせた。

「ご寵姫など畏れ多い。わたくしがファーストダンスを踊った事がないのはご存じでしょう?ただ、我が身を振り返ってみただけですわ」

「名高いローディル家のご息女が一体何をおっしゃいます。きっと誰か、きっかけになった方がいらっしゃるのでしょう?……例えばそう、彼の金の方など」

ちらりと男の視線が逸れ、その目に“彼の金の方”をうつす。答えを期待するように微笑まれたが私は何も言わず、ただ男と同じように微笑み返した。

「……彼の方がいらっしゃってからは何かと変化が多い。特に彼の方が後宮に移動されてからは、あなたの周りでも何かと変化があったのでは?」

「さあ、どうでしょう。わたくしはあまり関わる事がございませんので、よく分かりません」

素知らぬ振りをしクルリと体を回転させる。顔を背ける瞬間男の表情が歪んだのが見えたが、気付かなかった振りをして努めてにこやかにダンスを続けた。

「それでは。また機会がありましたら、この御手をとる栄誉をお与えください」

「ええ、そのときはまたお相手願いましょう」

ダンスを終えると、さも名残おしそうな素振りで男は私の手に口づけを落とした。

手の甲への口づけは通常振りだけのはずだが、手袋越しに確かな感触を感じるのは何も言わなかった事への嫌がらせか。引き攣りそうになるのを堪え笑みを保ったまま去って行くその背を見送り——どっとこみ上げる疲れに、私は密かにため息を吐いた。



先日父達と会った頃と変わらず、王宮では今でも頻繁に夜会が開かれている。

この幾度も開かれている夜会は後宮の調整のため。言わば陛下や側室のお見合いのようなものだ。早く降嫁したいのなら自分でも行動するべきだと思い、降嫁を願ったあの日以降私は精力的に前に出るようにしていた。

しかし今のところ引き取り手となってくれそうな相手は訪れていない。 私に近づいてくる者はあの男のように後宮やアラム様の情報を手に入れたい者ばかりだ。

ローディル家の娘とはいえ庶子で末席の側室に魅力は少ない、というのが原因のひとつ。しかしそれ以上に大きいのは、調整中のためか最近の後宮は変化が多いという事だろう。

現に少し前に2人が降嫁し、入れ替わるようにアラム様が王宮から後宮へ越して来ている。先日アラム様と後宮の庭でお会いしたのは、そういう訳であるらしい。今は私と同じように後宮の一室を賜っており、時折陛下と庭園を散歩する姿などを見かけるようになった。噂では陛下のご寵愛は変わりなく、今でもご政務中にお側に置いているという話だ。

他にも“現場”に住んでいれば色々と見聞きする事はあるが、何を聞かれても私は基本的に知らぬ存ぜぬで通している。心配せずともたいした情報など持ってはいないが、万が一にも厄介事に巻き込まれるのは避けたい。

しかし、慣れない嘘はダンス以上に疲れるものだ。

少し休憩しようと新たなダンスの誘いを避け、私はいつもの壁際に立った。

情けないがやはりここが一番落ち着く場所だ。夜会の喧噪から一歩引いたようなここは、あまり人に声をかけられる事もない。

「……セーレ様?」

そう思っていたのだが不意に名を呼ばれ、思わず驚き肩が跳ねた。

「すみません。驚かせちゃったみたいですね」

そう言って申し訳なさそうにしながら後ろ手に頭をかいていたのは、茶色い目と髪をした男——ノード様だった。

あか抜けていない様子は以前と全く変わりなく、相変わらず英雄などという大層な方には見えない。

言い方は悪いが王宮では珍しい庶民くさい雰囲気に、夜会の間ずっと張りつめたままだった肩の力が自然と抜けた。

「いいえ。お久しぶりです、ノード様。その後、ご挨拶は上手くいきましたか?」

「あ、はい。おかげさまであの助言には助かりました。上司にも馬鹿にしては上出来だって誉められました」

「……そうですか。それは何よりです」

正直それは褒め言葉としては微妙だと思うが、ノード様が嬉しそうだから良いのだろう。指摘の言葉は飲み込み、無難な答えを言うにとどめた。

ノード様と初めて会った時から2週間ほど経つ。時々姿は見かけたが話すのはあれ以来だ。

順調に顔を広めているようで、想像と本人の見た目の差違に驚く貴族達の話を時折聞いた。平民出身というせいで多少やっかみはあるようだが、功績のためかこの人柄のためか、ノード様の叙爵は基本好意的に受け止められているらしい。

豪商など元からそれなりの力がある者ならいざ知らず、本当の“平民”が叙爵する例は非常に珍しい。歴史的偉業と言っても過言ではない。

しかしその当の本人はそんな事など微塵も感じさせないへらりとした笑みを浮かべ、照れたように「いやあ」と言った。

「でも、口を開くとすぐに怒られるんですよ。今日もお前はもう隅にいろって言われてしまって。お偉い人達との話は難しいですね」

そう言って、少しわざとらしくため息をつく。

その様はあまり困っているようには見えないが、実際にはそれなりに苦労をしているのかもしれない。

特にノード様のように平民出身で貴族社会に慣れないうちに放り込まれてしまっては尚更大変だ。

あらかじめ貴族としての教育を受けていた私でさえ、馴染むのには時間がかかった。いや、ある程度は慣れたが、馴染んでいるとは言えないかもしれない。

先ほどのダンスでの会話を思い出し、つい私もため息を吐いた。

「そうですね。貴族の子女になって長く経ちましたが、わたくしもいまだに苦労します」

「え?セーレ様は生粋のお貴族様じゃないんですか」

「ええ。昔は辺境の村で暮らしていました」

私が庶子であり辺境育ちであることは周知の事だ。ノード様が知ったところでどうと言う事はない。

ノード様は目を丸くしながらも納得したように頷いた。

「だからセーレ様とは話しやすいんですね。他の人とは会話が続かなくて、ダンスなんて誘うどころじゃないです」

「ダンスは踊れるのですか?」

「はい。体動かす事だけが取り柄なんで」

そう言って、ノード様はその場でステップを踏んでみせた。

男性のステップには詳しくないが、きれのある良い動きだ。きっとお上手なのだろう。

「見てればだいたい動きは覚えれますが、一応練習もしたんですよ。誘ってみたくて」

そう言うと、ノード様はダンスホールの方へ視線を向けた。釣られて見れば、色とりどりのドレスが翻るきらびやかな光景が見える。特筆すべきことなどない、今ではすっかり見慣れた夜会の光景だ。

「あの中に、誰か誘いたい方が?」

ダンスホールには大勢の人がいて誰を見ているのかは判別がつかない。

ノード様はダンスホールを見つめたまま呟くように言った。

「ええ、実は。貴族の仲間に入ったとはいえ、俺には雲の上の人だって分かってるんですけどね」

「……」

——雲の上の人。

その言葉に、私は無意識に私の雲の上へ視線を向けていた。

シャンシャンと夜会の喧噪に紛れて鈴の音がする。ダンスホールの中心で、その音を響かせる少女の手をとり踊るその人。

「どうも目に見えるところにいると、つい諦め悪くなっちゃいます。いっそ姿も見えないほど遠くにいれば、諦めもつくんですけどね」

その通りだ。離れてしまえば諦められる。——きっと忘れられる。

まるで心境を言い当てられたような気がしてノード様を見上げると、彼はまだダンスホールに見入っていた。そして私の視線に気付いたようにこちらを向いて、へらりと笑う。

「地位だの身分だの、本当にお貴族様は難しいですね」

つい同意するように私も笑った。本当に、地位だの身分だのというこの“距離”は難しい。

二人笑い合っていると、流れていた曲が終わった。踊っていた人達はダンスホールを離れたり、続けてダンスを踊ろうとその場に留まったりしている。陛下とアラム様はもう一曲踊るようで、ダンスホールで楽しそうに談笑していた。

「……」

微かに心が疼くのは、子ども染みた独占欲のせいだ。お気に入りの玩具をとられて怒る子どもと同じ。

離れてしまえば、これもきっと無くすことができる。

まだ、大丈夫だ。私はまだ、陛下の都合の良い側室でいられる。まだ、元の私に戻ることができる。

そっとため息をつくと、次の曲が流れ始めた。

軽快に流れるその曲は、ダンスの練習で大抵皆初めに習う一番簡単なものだ。踊りやすいその曲に気付いたのか、ぱらぱらとダンスホールの方へ人が集まって行く。

「……俺達も、行きませんか?」

声が聞こえ隣を振り返ると、珍しく締まりのある笑みを浮かべたノード様と目が合った。

そして貴族の男達が行うように、恭しく手を差し出される。

「私と踊っていただけますか?」

「……喜んで」

断る理由もなく、私は差し出された手に手を重ねた。

途端にノード様の締まりのあった笑顔がへらりとなる。それがおかしくて、つい私の頬も緩んでしまった。

「ノード様。せっかく貴族の男性のように出来ていらっしゃいましたのに」

「え?ああ、慣れないものですぐに崩れてまうんですよ」

そう言ってまた締まりのある顔をする。けれどたぶん、しばらくすればきっと元に戻っているのだろう。

そう思い密かに肩を震わせながら、ダンスホールへと歩く。

「実は俺、こうしてちゃんと踊るのは初めてなんですよ」

ぽつりと呟くようにノード様が言った。

確かにダンスに誘うどころではないと先ほど言っていたので、夜会で正式に踊るのは初めてなのだろう。

「それは光栄です。……足を踏んでしまっても構いませんよ」

同じ平民出身だと思うと気が緩んでしまうのだろうか。思わずからかうような事を言うと、彼は器用に片方の眉をひょいと上げ、淀みない動作で私の腰に手を回した。

「大丈夫。そんなヘマはしません」

ぐいと手を引かれ、促されるままに踊りだす。

始めてすぐに問題ないことが分かった。音楽に合わせて踏み込まれるステップは正確で、リードはしっかりとしていて安心して身を任せられる。もちろん足を踏まれる心配もなかった。

「失礼しました。お上手です、ノード様。やはり身体能力に優れた方はダンスもお上手なのですね」

強いて言うなら腰を支える手が若干ぎこちない気がしたが、それでもその辺の貴族よりよほど上手だ。これだけ出来れば誰と踊るのも問題ないだろう。

本心から言うと、ノード様は先ほどの予想通りすっかり締まりのないへらりとした笑みを浮かべた。

「ほんと、体動かす事だけが取り柄なんで。でも相手が変わるとちょっと違和感がありますね。おかしなところがあったら言ってくれると助かります」

「そうですか?では……」

気になる点を指摘していくとすぐに改善していく。体を動かす事が得意とあって飲み込みの早い方だ。

すぐに指摘するところはなくなり、しばしお互い無言でダンスを楽しんだ。

「おや、あれは英雄殿か?」

「相手は滅多に前にでてこない末席の側室様か。随分と珍しい組み合わせだな」

しかし不意に密やかな話し声が聞こえ、高揚していた気分はすぐに霧散した。ここ数日で噂の的にされるのに慣れたとはいえ、やはり愉快なものではない。

ダンスに集中しようとしても、耳は自然と声を拾った。

「あの神崩れが出てきたので、見切りをつけたのだろうよ」

「それにあんな義姉がいれば、後宮には居ずらいか。器の違いを晒しているようなものだ」

「あぁ。あの発言をした側室か。あれがなければあんな神崩れを後宮に入れずに済んだものを。あんなもの、さっさと処分するべきだ」

「なに。そう言わずとも、近いうちに消えるだろうさ」

「………」

アラム様が消えるとは、どういうことだろう。

私の話などどうでも良いが、アラム様の話は少々気になる。

ステップを踏みながら声を探して視線を彷徨わせた。

会話がはっきりと聞こえるほどの距離のため、その二人はあっさりと見つかった。

壮年の男達だ。確か、どちらも男爵位だったか。あまり発言力のない中流貴族。

ちょうど角度も見やすい事もあり、探るようにじっと見つめる。見たところ、特に不振な点はない。企み事を話すように隠すそぶりもなく、ごく普通に話していた。

「あれを王妃に戴くには不満が多すぎる。そのうち何処ぞの者に消されるか、陛下も生かす事の難点に気付き自ら処分するだろう」

「まぁ、確かにそうだろうな」

話す内容もよくよく聞けばただの愚痴のようだった。

私の思い過ごしか。アラム様が来てから何かと王宮内が不安定だった事もあり、少々過敏になってしまっていたのかもしれない。

ひとつため息を吐いて視線を戻そうとしたその時、ふときらりと光るものが見えた気がして視線を止めた。

女性のアクセサリーや銀食器、男性のタイピンなど夜会に光るものなどいくらでもある。けれど妙に気になるその光の元を探し——私は動きを止めた。

「セーレ様?」

自然とスッテプも止まり、ノード様が怪訝そうな声を上げる。他にも私の突然の停止に不審がる声や視線をいくつも感じた。

けれど、私は動けなかった。

私の視線のある先。先ほどの男達のその奥に立っている、まだ若い男。その男が隠すように後ろに回したその手の中には、鈍く光る短剣があった。

原則夜会の席に武器の携帯は認められていない。認められているのは警備の兵だけだ。

明らかに兵ではない、きらびやかな服を着た男が持っているにはあまりにそぐわないそれ。

そして、ぎらぎらと光るような男の視線の先には——。



「陛下!!」



男が周りの者を押しのけ走り出すのと同時に、私は叫んでいた。

辺りから混乱の悲鳴が上がり、それにも怯まずに男は走る。私はただ呆然とそれを見るしかできなかった。

あっという間の出来事だった。

恐ろしい早さで男は陛下に辿り着き、その凶刃を真っすぐに突き出した。

陛下は咄嗟に側にいたアラム様を突き飛ばす。

そしてその刃が陛下の心臓に突き立てられそうになり——

「いやあっ陛下!!」


——次の瞬間、男は横に吹き飛んでいた。


何が起きたのか、一瞬理解ができなかった。

最悪の事態を想像し血の気が引く中、頭がゆっくりと事態を飲み込み始める。

そして理解できたのは、私の前にいたはずのノード様がいつの間にか陛下の元まで行き、男を蹴り飛ばしたという事だった。


「神よ、我らが神よ!」


男の叫び声でハッと我に帰る。見れば、男は兵士に取り押さえられているところだった。

何人もの兵に取り押さえられながらも、男は獣のように暴れる。ひとりの兵がはじき飛ばされ、また何人もの兵が折り重なるように男を押さえた。

「放せ!放せぇっ!!何故あの方が囚われている!あぁ、なんと畏れ多い事を!!神よ。今お助け致します。どうか、どうかお手を伸ばして!」

暴れながらも男は一心にアラム様だけを見つめて叫んだ。

陛下に突き飛ばされた時に転んだのか、アラム様は床に座り込んだままブルブルと体を震わせて男を見ている。男に近づく事も、その手を伸ばす事もない。

アラム様の前にはいつの間にかマキアが立ち、険しい表情で男を睨みつけていた。

「神よ、お救い申し上げます。今すぐその囚人の鎖を断ち切って——」

「うるさいよ」

不意にノード様が男に近づき、男を蹴り飛ばした。

辺りから悲鳴が上がる。

男はその場に沈んだが意識は失っておらず、すぐに起き上がろうと抗い出した。ノード様は更に蹴るように足を上げ——

「止めよ」

陛下の命令に足を下ろした。

だが次の瞬間、拳で男の顔を殴った。

再び悲鳴が上がり、男の顔からは血が飛び散る。床に崩れ落ち、気絶したのか今度こそ起き上がらなかった。

「ノード!」

「失礼しました。あまりにも耳障りだったもので」

飄々とした様子でノード様は肩を竦めた。

だが男を見下ろすその目はひどく冷たい。

陛下はため息をひとつ吐くと、指示を出し始めた。男は速やかに運ばれ、夜会は中断する旨が出される。

そしていつの間にか音楽も鳴り止み静まりかえっていた広間は、一気に興奮気味の話し声で満たされていた。

「……」

その中で、私はただ呆然と佇んでいた。

ほんの少しの出来事だった。けれどそれが本当に起きた事だったのか実感がない。数分前はいつの通りの夜会だったのに——。

「セーレ様、大丈夫でしたか?……セーレ様?」

目の前には、いつの間にかノード様がいた。先ほどとは同一人物とは思えないほど穏やかな雰囲気で、心配そうに私の顔を覗き込んでいる。

何か答えるべきだとは思うが、言葉がでてこない。ただノード様を見上げる事しかできなかった。

「……少し休んだ方が良いです。とりあえず、こっちに」

手を引かれるままに歩き、辿り着いたのはいつもの壁際だった。

「……すみません。女性には刺激が強かったですね」

落ち込んだ様子でノード様が言った。本当に、先ほどと同一人物とは思えない。よく似た別人がやったと言われた方がまだ信じられる。

「……いいえ、ノード様」

いつまでも黙っているのは申し訳なくて、私はなんとか声を絞り出した。

「でも、やりすぎました」

「いいえ。あなたがいなければ、今頃、陛下は——」

——死んでいた。

あの刃は、間違いなく心臓に突き刺さっていた。

その事実を改めて思うと体が震えた。そして意識しないうちに熱いものがこみ上げ、頬を流れた。

「セ、セーレ様!」

私の涙を見てノード様はひどく狼狽した。そわそわと落ち着かない様子で、無意味に手が空を彷徨う。

これ以上ノード様に迷惑をかけては駄目だ。こんな人のいるところで泣く訳にもいかない。

そう思うのに、後から後からこみ上げて止まらない。

せめて嗚咽は漏らさないよう、口を抑えて俯いた。

「……あー、うー……」

何か、唸るような声が聞こえた気がした。そう思った瞬間手を引かれ、温かいもので頭を覆われた。

「……ノード様?」

「応急処置です」

温かいと思ったのは、ノード様の腕だった。

気付けば私は、彼の胸に押し付けられるようにして抱きしめられていた。

「……こうすれば周りの人からは俺しか見えません。しばらくこうしていますから、安心して泣いてください」

「……でも」

「大丈夫です。それにこういうのって、男には“役得”って言うんですよ」

そう言って、おどけるようにノード様は笑う。私もそれに笑い返そうとし——けれども笑う事はできず俯いた。

「……っ」

温かい胸に額を預け、涙をこぼす。

恐ろしかった。

ただ、恐ろしかった。

どうでもいいと思っていた。この国も、陛下も、何もかも。

そうやって無関心でいれば、失ってしまっても平気でいられると思っていた。

けれどもう、手遅れだったのだ。

あの時、初めて陛下がセーレの花をくださったときから、もうとっくに手遅れだったのだ。

もしもあの時、陛下に刃が届いていたら、命を落としてしまっていたら。


今頃私は壊れていただろう。

今度こそ耐えられず、命を投げ出すだろう。


これは予感ではなく確信だ。

震える体が、恐怖に竦む心が、何よりも明確な答えだった。

「……ありがとう、ございます」

乱れる息で、嗚咽とともに言葉を吐き出す。

縋るようにノード様の服を掴み、何度も何度も私は声を絞り出した。

「陛下を救ってくださって、ありがとうございます、ノード様……!」

あなたが救ったのは陛下の命だけではない。

この国と、多くの民の安寧——そして、私の心であり命だ。



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