12. 臆病者の選択
空気が固まるのを肌で感じた。
陛下からいつもの笑みが消え、沈黙がおりる。
「……相手は誰だ」
しばらくしてから響いたのは、怒りが滲んでいるかのような低い声だった。
末席の側室の事など、あまり気にされないと思っていた。予想外の反応に 一瞬体が震え、声が詰る。
「答えよ、セーレ。相手は誰だと聞いている」
「……相手はおりません。どなたでも、陛下の都合の良いように嫁がせ下さい」
嫁ぐ相手など誰でもいい。例え年をとった者の後添えとされても黙って従うつもりだった。
「嫁したい相手はいないが、後宮は出て行きたいと?」
「……そう言う事になります」
「……」
再び沈黙がおりた。
陛下からは変わる事なく怒気が放たれている。私は耐えきれず、視線を逸らした。
逸らした視線の先には花瓶に生けられたセーレの花があった。つい最近までは部屋に溢れんばかりに飾られていたが、今はもう寝室とあの花瓶にしかない。
もうじき、春が終わり夏が来る。花の時期はもう終わりだ。新しい花は咲くことなく、今ある花が最後になるだろう。
その事を淋しいと思う。けれど同時に、どこか安心している自分もいた。
「……——ではなかったのか」
不意に声が聞こえ、ハッとして逸らしていた視線を戻した。
目が合うと、陛下は再び呟くように言った。
「そなたは何も望んでいないのではなかったのか」
「……」
陛下の表情も声音も先ほどと変わりはない。
けれどそれは、どこか子どもが拗ねるような、責めるような響きで私には届いた。
そしてそれを受けこの胸にわき上がるのは——確かな歓喜だった。
誰にも弱みを晒さないご立派な陛下。この方が弱音を吐くのは私の前だけだ。こんな風に拗ねるような事を言うのも、きっと私にだけ。
それは私が特別だからではなく、陛下に何も望まない都合の良い側室であるからだという事は分かっている。それが、関わりのない他人に愚痴を言うような行動と大差ないということは。
それでも力になれれば嬉しく、それが他人に渡れば痛みと苛立ちにも似た感情が心を苛んだ。
子ども染みた独占欲だ。愚かしいが、きっと誰もが持ってしまう事のある当たり前の感情。
けれど、私はそれが恐ろしい。
そんな感情を持ってしまう事が。——人に、執着してしまうことが。
人に執着などしたくない。執着するほど大切な人など欲しくはなかった。それが陛下なら尚更だ。
私は失ってしまう事の恐ろしさを知っている。何故死なないのかと不思議に思うほどの心の痛みを知っている。
どんな形であれ、失うことは恐ろしい。そこに心をかけていればいるほど。
側室であるとはいえ、陛下は雲の上の存在だ。どれほど望んでも最後には別れが待っている。
それを知っていて、手を伸ばす事などどうしてできるだろう。陛下のお側に居続けられるほどの力もなく、寵愛もないこの私が。
そうでなくても、私はもう大切な人など欲しくなかった。私はただ、母の願い通りに生きられればそれで良いのだ。それ意外は望まない。望みたくない。望んで、失って、またあのような痛みなど味わいたくはない。
なんて弱い人間だろう。
自分でも呆れるほど、私は臆病で卑怯だ。最初に陛下に手を伸ばしたのは私だった。けれどその手を頼りにされた瞬間、少し怖くなっただけでその手を引こうとしているのだ。
「……畏れ多くなったのです。私は本来このように長く後宮に置いていただけるはずのなかった者ですから」
愚かな本音など言えるはずもなく、用意していた言い訳を述べる。けれどこれもまた理由のひとつではあった。
戦争のせいで後宮の調整が遅れたためとはいえ、父や一族の者も私がこれほど長く留まる事になるとは思いもしなかっただろう。 本当なら今頃とっくに何処かへ降嫁しているはずだった。
そうであれば良かったのだ。
もっと早く何処かへ嫁していれば、このような気持ちを抱いてしまう事もなかったのに。
「後宮の采配をとるのは私だ。私が許可している以上、例えそなたの親族が何を言ってこようと、そなたが後宮にいることを臆する必要はどこにもない」
「それは承知しております。けれど、私は庶子です。本当なら陛下のお側に侍る事さえ畏れ多いことなのです」
「アラムとて庶子であろう。そのような事は関係ない」
「今や唯一の方であるアラム様と私では、比べるべくもありません。陛下、どうかご一考ください」
どこか縋るように私を見ている陛下と目を合わせることに耐えきれず、深く頭を下げて答えを待った。
陛下がお怒りになりこれほど引き止めようとなさるのは、きっと自分で思っていた以上に陛下の安らぎとなれていたからなのだろう。私は政治的にはお役に立てなかったが、精神的にはお役に立てていたのだ。
そのことが嬉しくもあり、同時にその期待を裏切る事が苦しくもあった。
「……分かった。考えておこう」
「ありがとうございます」
長い沈黙の後手に入れたのは、確かに私が望んだ答えだった。
それなのに胸に込み上げるものがあり、顔をあげないまま礼を述べた。
「だが、色々な調整もあるためすぐにとはいかぬ」
「はい。それは承知しております」
これで良い。これで良いのだ。
今ならまだ間に合う。
私は何にも関心を持たない元の私に戻れる。陛下も前に戻るだけだ。
このような事をしなくても、いずれ別れは訪れた。それが少し早まっただけのこと。
こみ上げるものを押さえ込み、笑みをつくって顔を上げた。無様な顔は見せたくない。
せめて別れるその時まで、陛下の前では笑っていよう。
陛下にとって都合の良い側室のまま、後宮を去ろう。
これはささやかな私の矜持。そして、私が陛下に出来る唯一のことだろう。