11. ひとつの決断
東屋は日陰だからか少しひんやりとしていた。少し気温が暑いくらいだったから丁度良い。
アラム様に席を勧め、私もテーブルを挟んだ向かいの席に腰掛ける。
シェディルはまだ来ていないから二人きりだ。
先ほどまでは普通に話していたが、今になって緊張し始めたのだろうか。向かいの席でアラム様は落ち着かない様子で肩を強ばらせていた。
しかしそれもつい最近まで平民だったのだから無理はない。アラム様の緊張を解くためにも、少し他愛無い話でもする事にした。
「……いつも身につけておられますが、少し変わったご衣装ですね」
声をかけると、目に見えてアラム様の肩がビクリと跳ね上がった。恐る恐るといった様子で視線があがり、目が合う。私はなるべく穏やかに微笑みかけた。
「げ、猊下が身につけていたものと同じものだそうです。陛下が用意してくださいました」
猊下とは、アズルム神王国で“最高神”であった王女のことだ。
その王女の衣装を常に着ているという事は、アラム様をアズルムの“神”であると印象づけようとしているのだろう。それと共に、ただの正妃候補ではなく私達とは格別の存在であるとしているのかもしれない。
アラム様は少し震える声で続けた。
「男女で多少は変わるそうですが、旧アズルム神王国の時代から、“猊下”はこの衣装を着てきたらしいです。あたしも直接見たことはありませんでしたが、話だけは知っていました」
「そうですか。大陸統一時代からのご衣装なら変わっているのも不思議ではありませんね。その刺繍には、何か意味があるのですか?」
いつも遠くから見るだけなので分からなかったが、この距離なら衣装の唯一の飾りである金糸の刺繍がよく見えた。
変わった刺繍だ。何か粒がたくさん実った植物のように見えるが、葡萄ではないし、麦とも少し違う。項垂れるように独特な曲線を描きながら粒を身につけている。
「あたしも実物は知らないのですが、これは“いなほ”の刺繍らしいです」
「いなほ……?初めて聞く名前ですね」
「植物の名前だそうです。統一時代にはあったとか、遠い大陸のものだとか聞きますが、実際のところ、今はもう正確に知っている人はいないと思います」
今となっては分からないものが伝統となって伝わっているのはよくある事だ。大陸で一番古い国だったのだから尚更だろう。
「では、鈴もご衣装の一部なのですか?」
聞いた途端、シャン、とまた鈴の音が小さく響いた。
遠い国の話だが、貴人が通る際それを知らせるために鈴を鳴らすというのは聞いた事がある。しかし鈴を足首につけるなどという話は聞いたこともない。
アラム様は一瞬足下に視線を移すと、気まずそうに笑った。
「いえ、これは……ある意味、お守りのようなものと言いますか……」
何か含みがあるような言い方だ。けれどそれを聞く前にシェディルと他の侍女達がお茶を持って来たのが見えて口を噤んだ。
「アラム様、セーレ様、お待たせ致しました」
そう言ってシェディルが私とアラム様のお茶を淹れ、他の侍女がテーブルの前にお菓子などを並べていく。
すぐに準備は整い、手伝いの侍女達は去って行った。しかし、1人だけシェディル以外に残った侍女がいた。どこか顔に見覚えがあると思ったら、夜会でアラム様の後ろに控えていた侍女だ。
「アラム様」
侍女が呼ぶとアラム様はその侍女の存在に気付き、一瞬目を丸くして、ひどく気まずげに縮こまった。
「……マキアさん、ごめんなさい」
「今日は許しましょう。これきりにしてください」
「はい……」
アラム様は落ち込んだ様子で俯いた。
この様子だと、アラム様はこの侍女——マキアを撒いて私のもとに来たのかもしれない。どうりで共が1人もいなかったはずだ。
「失礼致します」
不意にマキアはそう言うと、アラム様の前に置かれたお茶を手に取り口に含んだ。
お茶を淹れたシェディルはぎょっとした顔をする。これほど堂々と毒味を行われれば驚くのも無理はないだろう。シェディルを、ひいては私を疑っていると言っているようなものだ。
動揺するシェディルを視線で宥め、毒味をするマキアを見守る。
「失礼致しました。そちらの菓子はすでに毒味はすんでおりますので、安心してお召し上がりください」
マキアはお茶を元に戻すと、何事もなかったようにアラム様の後ろに控えた。
「……すみません」
アラム様が小さな声で謝る。私はそれに苦笑を返した。
「かまいません。アラム様のお立場を考えれば仕方のない事でしょう」
賛成の声があると言っても、義兄のようにアラム様を“処分”するべきだと考えている者は多い。それを考えれば警戒してしまうのも当たり前の事だろう。
前に置かれているお茶を手に取って一口飲む。私の好みに淹れられたお茶は芳しくてとても美味しい。
今までお茶も食べ物も、毒が入っているのか疑った事などなかった。何かを口にするたびに毒を警戒しなければいけないのは、どれほど恐ろしいことだろう。
「……むしろ、謝らなければならないのはわたくし達の方です。わたくし達の起こした戦争に、まだ幼いあなたをこんなところまで巻き込んでしまいました」
私は、あの夜陛下に『偉大な王』だと告げた事を後悔してはいない。
たとえその言葉のせいで、今この少女を危険な目に合わせているのだとしてもだ。何度同じ夜が巡ってきたとしても、私は同じ言葉を言うだろう。
だから私がアラム様に出来る事は、ただ謝罪の言葉を口にするだけだ。
「そんな!セーレ様が謝る事なんて何もありません!」
頭を下げると、音をたててアラム様は立ち上がった。そしてそんな自分自身に驚いたのか、少し顔を赤くして座りなおす。
「陛下に聞いたんです。セーレ様の言葉があったから、あたしを生かす道を選ぶ事にしたと。セーレ様がいなければ、あたしは今頃死んでいました。ずっと、お礼を言いたいと思っていたんです。ありがとうございました。あなたはあたしの命の恩人です」
そう言って、顔を真っ赤にしてアラム様は頭を下げた。
その言葉には何の含みも感じられない。本当にアラム様は私に感謝してくださっているのだろう。
恨み言のひとつも言っても当然だろうに、何も言わずただお礼を言うなんて優しい子だ。
でもだからこそ、そんなアラム様が心配でもあった。
「……亡国の神として、正妃として生きていくのはきっととても苦しい事です。今とは比べ物にならないでしょう。それでも、あなたは生きることを望むのですか?」
生きるということが、必ずしも幸せな事だとは私は思わない。幸せは確かにあるけれど、この上ない苦しみも生の中にこそある。この先に苦しみがあると知りながら生きる人生は、果たして望む価値があるのだろうか。母が死んで10年経った今でも、私には分からない問題だ。
けれどアラム様は私の疑問を断ち切るように、迷いなく言った。
「望みます。どんなに苦しくても、あたしにはこの手で守りたいものがある」
「……」
まっすぐな言葉だ。
なんて眩しいのだろう。そこには、私にはない力強さがあった。
アラム様は、ただ理不尽な運命に翻弄されるだけの無力な少女ではなかったのだ。その運命に立ち向かう強さを持っていた。
正妃となるには、足りないところもある。けれどこの強さを持っているなら、正妃としての重圧に耐えてみせるだろう。あとの足りないところは、ディアレや他の側室が補えば良い。
そうやって、アラム様はアズルム領を、ディアレ達は旧国内を支えるのに陛下のお役に立っていくだろう。そうして、この国はこの先きっと繁栄していく。
喜ばしいことだ。
国に興味などないと言っても、私とて平和な世である方が良いとは思っている。
だから、これは喜ばしい事なのだ。
それなのに何故、この胸には苦い思いが広がっているのだろう。
何故、私は——。
「あっ……、ううぅ……」
「アラム様?」
突然、目の前でアラム様がうめき声をあげ、私はハッと我に返った。
見ればアラム様は苦しそうな表情をしながら腹を抑えている。歯を食いしばり、必死に痛みに耐えているようだった。
「アラム様!」
明らかに尋常ではない様子に私は思わず立ち上がった。
毒はなかったはずだ。毒味をしたはずのマキアを見ると、彼女は苦しむ様子もなく冷静な顔でアラム様を見ていた。
「毒はないのではなかったの!?」
「ご心配なく、セーレ様。これは毒ではありません。持病のようなものです」
「なら、薬か何かあるでしょう!?」
「ございません。これはただ耐えるしかないのです」
マキアは苦しむアラム様に手を貸す事もなく言った。
苦しむあまりアラム様が椅子から落ちそうになり、慌てて彼女を支える。それでもマキアは動かない。青くなっているシェディルに視線を送ると、シェディルは「人を呼んで参ります」と言って走って行った。
「自業自得ですよ、アラム様。ご自分の立場を自覚なさらないから、そのような目に遭うのです」
冷たい声色だった。
マキアはただ無表情にアラム様を見下ろしている。けれど何か憎悪のようなものを感じ、ぞくりと背筋が粟立った。
「アラム!」
その時バタバタとした足音と男の声が響き、私はハッと声のした方向を振り向いた。
そこには慌てた様子で侍従と共に走ってくる陛下の姿が見えた。
陛下は私に気付いていないかのようにアラム様のもとにまっすぐ駆け寄り、側に膝をついた。
「アラム、大人しくしているように言っただろう!何故危険な真似をする!」
「もうしわけ、ありません。陛下」
「いい、しゃべるな!部屋へ運ぶぞ」
あまり刺激を与えないようにするためか、陛下はご自身で慎重にアラム様を抱え上げた。
そしてふと気がついたように私を振り返る。私が小さく会釈をするとひとつ頷き、慌てた様子で東屋を出て行った。マキアもそれについて行く。陛下とは行き違いになってしまったのかシェディルはまだ戻らず、私1人が東屋に取り残された。
「……」
まるで嵐が去ったかのようだ。
先ほどまでの喧噪が嘘のように、辺りがシンと静まり返る。
『アラム!』
不意に、つい先ほど聞いた陛下の声を思い出した。
焦りが滲んだ、アラム様を本当に心配していることが伺える声だった。
「……ふふ」
思わず、乾いた笑い声が漏れる。
『殺したくない』
あの夜、そう言って陛下は初めて私に弱った姿を晒した。
それを見て、私は陛下の力になりたいと思ったのだ。
けれど、何を驕っていたのだろう。陛下には、アラム様とディアレ、それに有力な側室達がいる。他にも優秀な臣下が大勢いるのだ。
しかも、アラム様は噂通り格別な寵愛を賜っているようだ。それに男女の寵愛があるかは別として、陛下は確かにアラム様を大切にされているようだった。
それに比べて、私はどうだろう。
私は末席の側室。優秀な義姉の保険でしかなく、寵愛すら最近受けなくなった。いてもいなくても変わらない側室だ。
その私が、陛下の何の役に立てるというのだろう。
アラム様が羨ましい。
例えば母が死んだ時、守りたいと言えるだけの存在が私にもあったなら、私も強く生きられたのだろうか。
例えば私にも太陽の瞳があったなら、何かひとつでも陛下のお役に立つことができたのだろうか。
今さら思ってもどうしようもない事だ。
けれど、わき上がる羨望は止められない。
陛下。
あの方の事を思い浮かべると、何故だか泣きそうになった。
そして、不意に気付く。
いつの間にか、陛下の存在は私の中でこんなにも大きなものとなっていたのだ。
どうでもいいと思っていたはずだ。陛下を気にかけるようになったのも、最初は同情からのはずだった。
それなのに、私は今や災いの種である太陽の瞳さえ羨ましいと思ってしまったのだ。——ただ、陛下のお役に立ちたいがために。
その事実にぞっとした。
今この胸にある感情が何というのか、その名前は知りたくなかった。
「セーレ様、陛下がいらっしゃいました」
夜部屋でくつろいでいると、シェディルが陛下の来訪を告げた。
昼にアラム様との事があったため、きっと事情を聞きに今日はいらっしゃると思っていた。
あらかじめ用意しておいたショールを羽織り、すぐに支度を整える。応接間に行くと、陛下はいつもの通り長椅子に腰掛けていた。
いつもは陛下の隣に座るが、今日はあえて机をはさんだ向い側に腰掛ける。陛下は一瞬不思議そうな顔をしたが、何も仰らなかった。
「セーレ、今日はすまなかったな。驚いたろう」
シェディルを退出させ二人きりになると、陛下はすぐに口を開いた。
「いいえ。それより、アラム様はご無事でしょうか」
「ああ。今は落ち着いている」
「そうですか。安心致しました」
アラム様のあの様子は尋常ではなかった。
持病のようなもの、と言っていたのでご病気か何かがあるのだろう。だがそれは、きっと私が知るべき事ではない。
小さな疑問は胸に押しとどめ、持っていたカップを机に置いた。
「陛下、お話があります」
「どうした?急に改まって」
居住まいを正した私に、陛下は首を傾げた。
重大な事を告げようというのに、不思議と心は落ち着いている。それが嵐の前触れだったとしても、今はそれで良かった。たとえ陛下にとっては些事であるかもしれなくても、この言葉はきちんと言いたい。
私は陛下をまっすぐ見据え、口を開いた。
「私を、降嫁させてください」