10. 夢と金の少女
「お母さんっ!お願い、死なないで!ひとりにしないで!いくなら私も連れて行って!!」
滂沱の涙を流し声を枯らして私は叫ぶ。寝台には力なく母が横たわっていた。
病のせいで体はやせ細り、元気だった頃の見る影もない。その息は細く、もう母に残された時間が少ない事は明白だった。
何度も何度も、私は母に呼びかける。
その声が聞こえたのか、母が薄く目を開けた。
縋り付いていた母の手に微かに力が入る。私はその手を自分の頬に押し付け、何かを言おうと震える母の唇を見つめた。
「…———」
ほとんど吐息のような声だった。
けれど何を言ったのかはっきりと分かり、私は首を横に振った。
母はそんな私を見て、震える手で私の頬を撫で、もう一度言った。
「生きて、セーレ」
頬に押し付けた母の手に新たな涙が流れる。
母がどうしてそんな事を言うのか理解できなかった。裏切られたような気さえした。
答えない私を、母はじっと見つめる。
死の淵にいるとは思えない、強い眼差しだった。
本当は、母が死んだらすぐに後を追うつもりだった。母がいない世界で、少しだって生きていたくなかった。
ああ、だけど。
だけどこれが、母の最期の願いなのだ。
ひどい人だ。私と母はこの寒い村で寄り添い温め合うようにして生きてきた。いつも二人で生きてきたのだ。
私には母しかいないと分かっているくせに、私が母の最期の願いを拒否する事なんてできないと分かっているくせに、『生きて』なんて言うなんて。
母の手を涙で濡らしながら、必死の思いで私は小さく頷いた。
それを見て、母は笑った。とてもとても幸せそうに、満足そうに笑った。
そうして、笑ったまま静かに目を閉じた。頬に押し付けていた手からも力が抜け、手を離せば力なく寝台に落ちた。
あぁ、お母さん。
そんな幸せそうな顔で、私をおいて何処へいくというの。
お母さんがいなければ、私はひとりぼっちになってしまうのに。生きる意味なんてなくなってしまうのに。
お母さんがいない世界で、私は誰のために生きればいい?何のために生きればいい?誰が私を愛してくれるの?私は誰を愛せばいいの?
お母さん。
お母さん。
「……おかあさん」
ふと目を開けると、見慣れた天井が見えた。
「夢……」
呟くのと同時に、いつの間にか目尻にたまっていた涙が頬を流れた。涙で冷えた頬を撫でると、指先に水滴がまとわりつく。
コンコン、と扉を叩く音が響いた。ぼんやりとしながらも許可を出すと寝室の扉が開きシェディルが顔を覗かせた。
「セーレ様、お目覚めですか?今日は天気が良いから、絶好の散歩日和ですよ」
「……そう」
「すぐにお着替えなどお持ち致しますわ。少々お待ちください」
「ええ」
扉が閉まり、再び寝室にひとりになった。
シン、と静寂が訪れる。
寝台の横にある小さなテーブルには、セーレの花が日の光に反射してきらきらと光っていた。
誘われるように手を伸ばし、花弁のひとつをそっと撫でる。
「……お母さん。どうして“生きて”なんて言ったの?」
花に聞いても答えは返って来ない。
何故、母が死の間際に私に『生きて』と言ったのか。
10年経った今もなお、私には分からなかった。
「最近アラム様はよく陛下のお側におかれているようですよ。噂では、ご政務中もお側にいらっしゃることがあるそうです」
「そう」
「……あまりご興味ありませんか?」
「そうでもないけれど……」
鏡越しに私の髪を結い上げているシェディルと目が合う。私は頭を動かしてしまわないよう気をつけながら、曖昧に微笑んだ。
今、王宮ではアラム様の噂でもちきりだ。それは今までに例にない扱いを彼女が受けているからだろう。
基本的にどれほどの寵姫でも陛下のお側にいられるのはお渡りの時と夜会の時だけだ。しかしアラム様は王宮の陛下のお部屋の近くに部屋を賜り、時間に関係なく陛下のお側におかれているらしい。そしてそれは格別なご寵愛ゆえと噂されている。
しかし私は、陛下がアラム様を正妃にすると仰ったのは彼女を殺したくないがためだと言うのを知っている。それがご寵愛ではなく同情や憐憫のような感情から仰っていた事も。
その事を知っているため、噂を聞いても何かお考えがあるのだろうと思いこそすれ、それ以上の感想は正直何も浮かばなかった。
「……セーレ様、なんだかお元気ないですね。何かありましたか?」
シェディルの顔が心配そうに曇った。
確かに今日は夢のせいで調子が少し悪いかもれない。気を抜くとすぐにぼんやりとしてしまう。
「大丈夫よ。今日は少し、夢見が悪かったの」
「まあ。そうですか。きっと庭園に行かれれば気分も晴れますわ」
「そうね」
薄手のショールを渡され、それを肩を覆うようにして巻く。シェディルを伴い、後宮の庭園へ足を運んだ。
少し強くなった日差しがぽかぽかと温かく気持ち良い。
春の盛りは過ぎたが、庭園には色鮮やかな花がまだ多く咲いていた。
日差しが強くなるこの時間帯は、日焼けを厭うため他の側室達はいない。私のお気に入りの散歩時間だ。
私は日傘を手にのんびりとした気分で庭園を歩いた。
「良いお天気ですね、セーレ様。よろしければ外でお茶でも飲まれますか?」
眩しそうに目を細めながらシェディルが言った。
いつもは散歩だけしてすぐに帰るが、たまにはそれも良いかもしれない。
もうすぐこの庭園も見納めかもしれないと思うと、自然と私は頷いていた。
「そうね。お願いしようかしら」
「では手配して参りますね。場所はどこにされますか?」
「そこの——……」
シャン シャン シャン シャン
突然、どこからか忙しない鈴の音が響いた。
思わず話すのを止め、シェディルと二人顔を見合わせる。
聞いていると音はだんだんと大きくなり、こちらに近づいてきているようだった。
後宮でこんな鈴の音を聞くのは初めてだ。しかしその音に覚えがある気がした。
何の音だっただろうか。思い出せそうで思い出せない。
しかし私の中で答えが出る前に、その鈴の音の正体は姿を現した。
「えっ!?」
隣でシェディルが驚きのあまり小さな声をあげ、私は逆に言葉を失った。
直接会った事はなくても、その姿を見れば誰でも分かる。
白い独特の衣装を纏う太陽の瞳の少女——アラム様だった。
何故かアラム様は侍女もおらず1人だった。護衛の姿もない。
今や貴人である彼女が共の1人もいないのはおかしい。それにアラム様は後宮ではなく王宮の方にお住まいだったはずだ。その彼女が、何故ここにいるのだろう。
アラム様は走って来たのか息は乱れ、頬は赤く上気していた。
アラム様が一歩歩くごとにまた鈴の音が小さく響く。
そうだ。アラム様は確か足に鈴を付けていた。
頭の隅で先ほどの鈴の音の正体が分かり納得していると、金色の瞳と目が合った。
こんな間近で見るのは初めてだが、本当に太陽のような瞳だ。神とまでは言わないが、確かに特別な何かを感じてしまうのも無理はない。
アラム様はその金色の瞳で私を見つめると、どこか不安そうな顔をして言った。
「こんな、いきなりですみません。あの、セーレ様……ですよね?」
ディアレならともかく、こんな目立たない側室の名を知っているとは思わなかった。
思わず目を丸くしてしまいそうになるのを押しとどめ、私はドレスをつまみ頭を下げた。
「はい。セーレ•ロサ•ローディルはわたくしでございます。お初にお目にかかります、アラム様」
「あっ。初めまして、アラムです。姓はありません」
そう言って、アラム様はぎこちない動作で礼をした。それを見て、まだ貴人の挨拶に慣れていないことがうかがい知れる。
何故だろう。最近、こういう事が多い気がする。
先日お会いしたノード様の事を思い出し、思わず口元に笑みが浮かんだ。
「……あの、セーレ様。もしよかったら、今少しだけでも時間をいただけないでしょうか」
顔を上げると、少し遠慮がちにアラム様は言った。
アラム様が、私にいったい何の用があると言うのだろう。
心当たりは全くないが、今や正妃候補であるアラム様の言葉を一介の側室が拒むわけにはいかない。
それに、私自身興味もあった。
孤児院で平民として育ち、その後突然王族としての役割を背負わされた少女。
私とは似て非なる人生を送ってきた彼女がいったいどのような人物なのか。
そして正妃になることを、どのように思っているのか。
不安そうに見上げてくるアラム様に視線を合わせ、私は頷いた。
「ちょうど、そこにある東屋でお茶を頂こうかと思っておりました。よろしければ、アラム様もご一緒にいかがでしょう」
「ありがとうございます。ぜひご一緒させてください」
視線でシェディルに合図する。シェディルはひとつ頷くとすぐに去って行った。
「お疲れでしょう。すぐに侍女がお茶を持って参ります。わたくし達は先にあちらで待っていましょう」
いまだに頬の赤いアラム様に日傘を差しだす。
あまり大きくはない日傘だけれど、角度を調節すれば十分私達二人に影をさしてくれる。
アラム様は目を丸くし、少し躊躇った後におずおずといった様子で日傘に入って来た。
その様はやけに子どもっぽく見える。けれど、考えてみればアラム様はまだ14歳だったはずだ。後宮入りするのにおかしな年齢ではないが、城下に出ればまだ子どもとも言われる年頃である。
こんな幼い少女に、私達は重責を背負わせているのか。
アラム様を生かすためであるとはいえ、苦い思いが胸に広がった。