「半分嘘で、半分ほんと」、四月1日の避難所(シェルター)で
エイプリルフールは、「嘘をついていい日」と言われています。
けれど、大人になるほど、気づいてしまうことがあります。
「本当に言いたいことほど、簡単には言えない」ということに。
この物語は、そんな「言えなかった本音」を、ほんの少しだけ嘘に預けた二人の話です。
軽い気持ちで読んでもらっても構いませんし、もしどこかで、誰かの言えなかった言葉に重なれば、それもまた嬉しく思います。(*人´ω`*)
四月一日。
街は、春特有の湿り気を帯びた熱に浮かれていた。
「エイプリルフールだから」
誰かが軽薄に笑うたびに、色とりどりの「嘘」が空気に溶け出し、街の輪郭を曖昧にしていく。
昼休みのオフィス。
営業課の喧騒から切り離された片隅で、佐藤健太はスマートフォンの冷たい感触を握りしめたまま、彫像のように固まっていた。
網膜に焼き付いたのは、恋人・中村彩花からの短すぎる一文。
> 『ごめん別れよう』
句読点すら拒絶するようなその潔さが、かえって凶器のように鋭く胸に刺さった。
「……嘘だよな。今日は四月一日だ」
独り言は、乾燥した喉を通って掠れた。
今日は世界中が嘘を許容する日だ。
いたずら。ドッキリ。サプライズ。
希望的な観測を並べてみるが、彩花の横顔を思い出すたびにその仮説は脆く崩れる。
幼い頃に事故で両親を亡くして、ひとりで生きてきた彼女。
彼女は、冗談で人の心を試すような器用な真似ができる女ではなかった。
「どうしたんすか、佐藤さん。顔、真っ青ですよ」
後輩の明るい声が、静寂を無理やりこじ開ける。
「いや……彼女から、別れるってラインが来て」
「あー、今日それ、トレンド入りするくらい多いらしいっすよ。さっき総務も奥さんから離婚するってライン来て、半泣きで電話してましたしねぇ〜」
後輩は笑って去っていく。
「みんなエイプリルフールの"魔法"にかかってるだけですよ」
その無邪気な軽薄さが、今の健太には耐えがたかった。
もしこれが『魔法』なのだとしたら、あまりに悪趣味すぎる。
返信を打とうとして、指先が微かに震えた。
『これ、嘘だよね?』
その一文を送信することは、自分の逃げ道を塞ぐことになるかもしれない。
もし「本当」だったなら――その瞬間に、二人の時間は二度と巻き戻せない確定事項へと変わる。
──結局、健太は逃げるようにスマホをポケットに押し込み、午後の仕事という名の「日常」へ潜り込もうとした。
だが、ディスプレイに並ぶ数字は意味をなさず、書類の文字はただの黒いシミとなって視界を滑っていく。
(……いつからだ?)
思考の濁流が、仕事の手を止める。
最後に二人で心から笑ったのがいつだったか、思い出そうとしても霧がかかったようにぼやけていた。
「仕事が忙しいから」
「今は大事な時期だから」
そんな言い訳を、自分にも彼女にも何度繰り返しただろう。
デートの約束をキャンセルし、溜まっていたLINEをスタンプ一つで済ませ、彼女が寂しそうに笑うたびに「わかってくれているはずだ」と甘えていた。
彩花のメッセージは、決して突発的な悪戯などではない。
自分が「仕事」という名の盾の後ろに隠れている間に、彼女は一人で、何度もこの別れの言葉を飲み込んできたのではないか。
積み重なった沈黙が、彼女をここまで追い詰めたのではないか。
(なんで、今日なんだよ……)
冗談だと笑い飛ばせるはずの日に、笑えない現実を突きつけられた自分への苛立ち。
そして、その原因を作ったのが自分かもしれないという自覚。
(…俺の…俺のせいか……)
怒りにも似た嘆きが、胃の奥をじりじりと焼いた。
──定時を待たず、健太は半ば強引に会社を飛び出した。
夕暮れが街を紫に染め始めている。
向かう先は、彩花の部屋。
歩きながら、頭の中では二人の「健太」が言い争っていた。
一人は「ドッキリなら笑い飛ばせばいい」と楽観し、もう一人は「本気なら、今日が最後になる」と冷徹に告げる。
どちらにせよ、嘘と真実の境界線が消えかかるこの日のうちに、決着をつけなければならなかった。
インターホンを押し、ドアが開く。
そこに立っていたのは、いつもの柔らかな彼女ではなく、ひどく疲れ切った、透明なほどに蒼白い彩花だった。
「……来ると思った」
その第一声で、健太の心臓はさらに強く跳ねた。
「これ、どういうことだよ」
健太は、呪いの言葉が刻まれたスマホの画面を彼女に突き出す。
「今日だぞ? エイプリルフールだろ? 冗談だろ?」
言葉が止まらなかった。
まるで自分に言い聞かせるように、健太は矢継ぎ早に言葉を重ねる。
「なあ、そうだよな? 嘘だって言ってくれよ」
彩花は視線を床に落とした。
長い睫毛が影を落とす。
「…エイプリルフールだから、だよ…」
沈黙が、重たい鉛のように二人の間に降り積もった。
「……嘘じゃ、ないんだな」
声が裏返る。
「うん」
短く、拒絶のない、けれど確かな肯定。
「なんで……。理由くらい言えよ」
「…嘘なら、笑って終われると思ったから」
彩花は消え入りそうな声で続けた。
「本当のことって、言うのが怖い。傷つけるのも、壊れるのも、もう耐えられないから」
「……」
逃げ道として用意された「四月一日」という避難路で、二人は初めて、隠していた痛みに触れた。
「最近、ずっと苦しかった。一緒にいると、自分が自分じゃなくなるみたいで」
彩花は震える身体を抑えるように、自分の肩を強く掴んだ。
「でも、それを言ったら全部が終わっちゃう気がして、言えなかった」
その言葉が、健太の思考を真っ白に塗りつぶした。
春の生ぬるい風が、二人の間をすり抜けていく。
「なんで……言ってくれなかったんだ。言ってくれなきゃ、分からないだろ」
彩花は小さく、しかしはっきりと首を振った。
「…言えなかった。怖かったから。だから今日、エイプリルフールの力を借りたの」
その動きに合わせて、揃えた髪がふわりと揺れ、頬に張り付いた涙をかすめる。
「“嘘でした”って、最後に逃げ込める場所がある今日なら、言える気がしたから…」
まるで「違う」と言葉にする代わりに、必死に否定しているようだった。
花の匂いが、やけに遠い。
「…だから、今日なのか……」
「うん」
彩花は、泣き出しそうなのを堪えるように、歪な微笑を浮かべた。
「でもね――もし健太が、“嘘にしてほしい”って言ってくれたら、そうするつもりだった」
「…じゃあさ」
健太の声は、不思議なほど凪いでいた。
「……嘘にしてほしい」
彩花が驚いたように顔を上げる。
「別れるのをやめよう、なんて安易な話じゃない。……“苦しい”って言えなかった、今までの俺たちの沈黙を、全部嘘にしよう」
「……え?」
「怖いとか、壊れるとか、そんな理由で本音を飲み込むのはもうやめだ。嘘はやめる。怖くても、傷ついても、全部言えよ。俺も、全部言うから。」
健太は一歩踏み出し、逃げ場のなくなった彼女の瞳をまっすぐに見据えた。
「それでも……それでも、やっぱり一緒にいられないって思ったら、その時は潔く別れよう。逃げ道として嘘を使うのは、今日で終わりにしよう」
言葉の一つ一つに、これまでの身勝手な自分への決別と、彼女ともう一度向き合いたいという切実な願いを込める。
──長い、長い沈黙が流れた。
街の騒音も、他人の笑い声も、今は何も聞こえない。
彩花は視線を伏せ、震える指先で自分のスマホを取り出した。
「ちょっと……待ってて……」
掠れた声でそう呟くと、彼女は何かを打ち込み、送信ボタンを押した。
微かな振動。健太のポケットの中で、スマホが短い通知音を鳴らす。
健太はゆっくりとそれを取り出し、あの呪いのようなメッセージを開いた。
> 『ごめん別れよう』
その下に、新しく届いた通知。
> 『さっきの、半分嘘。半分ほんと』
スマホを仕舞い、健太は再び彼女に問いかける。
「…俺は…俺は彩花が好きだ……今の彩花の気持ちは……?」
健太は、自らの震える声が自分のものではないように感じていた。
それでも、彼女の瞳の奥を逃さずに捉え、今日一番の勇気を振り絞って問いかける。
指先の震えが、今さらになって止まらなかった。
沈黙が、張り詰めた糸のように二人の間に伸びる。
「……ほん、とうは……」
不意に、彼女の瞳の縁から大粒の涙が溢れ出した。
それは溜め込んでいた感情が、言葉という形になるのを待てずに決壊したかのようだった。
彩花は小さく肩を震わせ、込み上げる嗚咽を必死に抑えながら、掠れた声を絞り出す。
「…まだ…健太が好き。……でも、今のままじゃ苦しい」
涙が頬を伝い、言葉にならない感情が彼女の表情を激しく歪めた。
苦しさも、後悔も、そして捨てきれなかった執着も。そのすべてが濁流となって押し寄せ、彼女の心を突き動かしていく。
その切実な告白を聞いた瞬間、凍りついていた世界の音が、一気に色彩を取り戻した。
彼の真っ直ぐな言葉が、彩花の頑なだった心の輪郭をゆっくりと溶かしていった。
健太は少しだけ口角を上げ、確かな重みを感じながら返信を打った。
>『じゃあ、残りの半分は、明日から二人で決めよう』
それを彩花が見た瞬間、彼女は堪えきれなくなったように一歩踏み出し、健太の肩を強く掴んだ。
指先がわずかに震えている。逃げ場を探すような弱さと、それでも離したくないという矛盾が、その細い指に滲んでいた。
視線は逸らされたままなのに、その手だけが、必死に何かを繋ぎ止めようとしていた。
──その日、街にはまだ嘘が溢れていた。
けれど、抱きしめ合う二人の間には、もう必要なかった。
曖昧だった輪郭が、ようやく形を取り戻していた。
藍色に染まった空には、薄い雲がたゆたっていた。
四月一日。
嘘が許される、不思議な一日。
けれど、それは単なるお遊びの日ではない。
抱えきれなくなった「本当のこと」を嘘の形にして差し出し、誰かに拾い上げてもらうための、不器用な大人たちのための避難所なのだ。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。m(_ _)m
エイプリルフールは、誰かを驚かせたり、笑わせたりするための一日です。
けれど同時に、「本当のことを、少しだけ違う形で差し出せる日」でもあるのではないかと思いました。
この物語の中で、嘘は避難所でした。
けれど最終的には、その嘘を手放し、本音に触れることを選びます。
もし現実の中で、言えなかった言葉や、飲み込んでしまった気持ちがあるなら――
それが、いつか誰かに届く形になることを願っています。
そして願わくば、その言葉が“嘘”ではなく、“本当”として届く日が来ますように。(ꈍᴗꈍ人)




