第5話 不穏な妊婦と壊れ始める父
第5話です。 愛の巣に漂うのは、甘い香りではなく、加齢臭と貧乏の匂いでした。
「……臭い」
リビングに入るなり、ミナが鼻をつまんで言った。
「ねえケンちゃん、加齢臭どうにかしてよ。私、今そういうの敏感なんだから」
「ご、ごめん。ちゃんと洗ってるつもりなんだけどな……」
仕事から帰宅したばかりの父は、スーツを脱ぐ間もなく謝っていた。
同居して一ヶ月。かつての「頼れる上司」の威厳は見る影もない。今の彼は、ヒステリックな妊婦の顔色を窺うだけの、疲れた中年男だ。
アパートの中は荒れていた。
「つわりが辛い」を免罪符に、ミナは一切の家事を放棄している。
もちろん私も、自分の分と最低限の共有スペース以外は掃除しない。「学業が忙しい」という正当な理由があるからだ。
結果、シンクには洗い物が溜まり、部屋の隅には埃が積もり始めていた。
「ああもう、イライラする! テレビの音もうるさい!」
ミナがリモコンを投げ捨てる。
彼女の情緒はジェットコースターのように乱高下していた。
金がない。狭い。そして目の前には、自分が家庭を壊した前妻の娘(私)が、涼しい顔で座っている。
そのストレスが、彼女を内側から蝕んでいるようだった。
「ミナちゃん、落ち着いて。身体に障るよ」
「誰のせいだと思ってるのよ! あんたがもっと稼いでれば、家政婦だって雇えるのに!」
理不尽な罵倒。
以前の父なら怒鳴り返していただろうが、今の彼は「ごめん」と繰り返すだけだ。彼は完全に自信を喪失していた。
その夜、父が私の部屋――といっても、リビングの一角をカーテンで仕切っただけのスペース――にやってきた。
「……なぁ、凛」
「何? お父さん」
父の声は小さく、情けないほど震えていた。
「あのさ、相談なんだが……お前、お年玉とか貯めてた貯金、あるよな?」
「ありますけど」
「それを少しだけ、貸してくれないか? いや、借りるだけだ! ボーナスが出たら倍にして返すから!」
私は持っていた参考書を閉じた。
予想はしていたが、まさかここまで落ちるのが早いとは。
「お父さん。私、来月から大学の入学金とか準備費用が必要なの。そのお金に手を付けろって言うの?」
「だ、だから返すって! 今月のカードの支払いが、どうしても数万足りないんだよ……ミナのやつ、ストレス発散だとか言って通販でベビー服買いまくって……」
「それはお父さんが監督すべきことですよね」
「そうだけど! 妊婦を刺激したくないんだよ! 頼む、凛。親の頼みだろ?」
親の頼み。
どの口が言うのだろう。
不倫して妻を捨て、娘を巻き込んでおきながら、その娘の貯金を愛人の浪費の穴埋めに使おうとする。
もはや軽蔑を通り越して、哀れみすら感じる。
「ごめんなさい。無理」
「凛!」
「お金がないなら、あの通販で届いた段ボール、返品すればいいじゃないですか。まだ開けてないやつ、ありますよね」
私がリビングの隅を指さすと、父は青ざめた顔で唇をわななかせた。
「そ、そんなことしたらミナが……」
「じゃあ、私が言いましょうか? 『お父さんがお金ないから返品します』って」
「や、やめろ! それはやめてくれ!」
父にとって、若い愛人の前で「金がない」と認めることだけは、死んでも避けたいプライドなのだ。
もうとっくにバレているのに。
「じゃあ、どうにか自分で工面してください。私には関係ありません」
私はカーテンをシャッと閉め、父を拒絶した。
向こう側で、父の重いため息が聞こえる。
「……クソッ、なんでこうなるんだよ……」
その呟きは、誰に向けたものだったのか。
壁の薄いアパートに、父の絶望と、隣の部屋ですすり泣くミナの声が混ざり合う。
崩壊の足音は、もうすぐそこまで迫っていた。
私はイヤホンを耳に押し込み、好きな音楽のボリュームを上げた。
雑音が消えるまで、あと少しだ。
娘の貯金に手を付けようとする父親。 人として、親として、完全に終わっています。
次回、いよいよ「決定的な事実」を突きつけます。 父と愛人が唯一の希望にしていた「財産分与で家がもらえる」という幻想。 それを粉々に砕く時が来ました。
物語はクライマックスへ。お楽しみに!




