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09 【エレオノーラ】追放された悪役令嬢

 ――異世界追放。


 その宣告を受け、わたくし、エレオノーラ・ヴァン=グラディスの頭の中は真っ白でした。

 婚約破棄。そして、国外どころか、次元の彼方へ。


 まばゆい光に包まれながら、わたくしは覚悟しました。

 次に目を開けたとき、そこはきっと、魔物が跋扈ばっこする暗黒の荒野か、灼熱の地獄か。

 どちらにせよ、わたくしの命はここで尽きるのだと。


 けれど。


「んん……」


 意識が浮上したとき、最初に感じたのは――温もりでした。

 柔らかい感触。ほのかな甘い香り。

 目を開けると、すぐ目の前に――整った顔立ちの男性がいました。


 ……え?


 状況を理解するより先に、男性の手が、わたくしの胸に触れていることに気づきました。


「――なっ!?」


 反射的に、わたくしは彼を突き飛ばしました。


「離れなさい!」


 ドォォン!!


 手のひらから放たれた衝撃波が、部屋中をなぎ払いました。


 ……やってしまいました。

 ここは地獄ではありません。どう見ても、誰かの住まいです。


 殺される。

 そう思いました。

 いきなり部屋を破壊した侵入者ですもの。即座に断罪されても文句は言えません。


 けれど。


「大丈夫ですか? ……ケガ、してない?」


 悠真様は、瓦礫の山の中で、まずわたくしの心配をしてくださったのです。

 怒りもせず。ただ、まっすぐな優しさで。


(……温かい)


 それだけで、胸の奥の氷が、少しだけ溶けた気がしました。



 ◇ ★ ♡



 それからのことは、夢のようでした。

 隼人様の手配で、空を飛ぶ箱(車用エレベーターというらしいです)に乗り、王宮のようなお屋敷へ。

 そこで出会った悠真様の妹君、桜様。そして執事のじいや様。


 皆さまは、異邦人のわたくしを受け入れてくださいました。

 お風呂の使い方を教わり、ふかふかのベッドで眠りについたとき――わたくしは初めて泣きました。

 悲しみではありません。息ができる、という安堵の涙です。


 そして、翌朝。


 朝日が差し込む広大なリビング。

 わたくしは、皆さまの前に立ちました。


 昨日、じいや様が用意してくださった部屋着は、動きやすく、肌触りが良いものでした。

 ドレスのような窮屈なコルセットはありません。重たい宝石もありません。


 鏡に映る自分を見て、思いました。

 今のわたくしには、本当に何もないのだと。


 グラディス公爵家の娘という肩書きも。

 王太子の婚約者という立場も。

 積み上げてきた教養も、誇りも。

 この世界では、意味を持ちません。


 足がすくみそうになります。


 でも。

 同時に――身体が軽いのです。


「わたくしはエレオノーラ・ヴァン=グラディス」


 皆さまを見渡して、名乗ります。


「……いえ、でしたわ」


 言い直した瞬間、胸の奥で何かが、すっとほどけました。


「昨日、国を追放されたところを、皆さまに救っていただきました……」


 隼人様は言いました。

 「生活費は出す」「家事は使用人がやる」「何も心配するな」と。


 ありがたい。けれど――。


(いいえ。もう、誰かの決めた鳥かごはごめんですわ)


 わたくしは、そっと自分の手のひらを見つめました。

 何も持っていない手。


 だからこそ――何でも掴める。


「お待ちくださいませ」


 顔を上げると、皆さまの瞳がありました。

 優しさに甘えてもいいと、背中を押してくれるような瞳が。


「地位も名誉も資産も、全部なくなりました。

 ……不思議ですわね。全てを失ったはずなのに、身体がこんなにも軽いのです」


 自然と、笑みがこぼれました。


「今までは『誰かのための自分』でいることばかり考えて、息をするのも窮屈でした。

 でも、今は違います。この手の中には、何もないけれど――何でも掴める“自由”がありますの」


 宣言しました。

 もう、温室の花ではありません。


「守られているだけの温室は、もう卒業です。

 これからは自分の足で歩いて、自分の目で見て、わたくしだけの宝物を探したいのです」


 胸を張って言えました。

 そして、厚かましいと分かっていながらも――お願いしました。


「手始めに、何かお仕事をくださいませ」


 その瞬間でした。


「却下だ」「だめだよ」


 ……え?


 わたくしは、言葉を失いました。

 働かざる者、食うべからず。有用性を示さねば居場所などない。

 それが、わたくしの世界の常識だったからです。


 けれど、悠真様はまっすぐな瞳で言いました。


「もう十分すぎるくらい頑張ったんだから、休んで」と。


 ああ……この方は、見ていてくださったのです。

 誰にも褒められず、孤独に戦っていたわたくしの姿を。

 その言葉だけで、張り詰めていた心の糸が、音もなくほどけていくのが分かりました。


「異世界というのは、ずいぶんと……お人好しが多いのですわね」


 わたくしは降参しました。

 この優しい世界に甘えて、少しの間、休息を取ることにしたのです。


 だから、最後にもう一つだけ。

 鎧を脱ぐための「願い」を口にしました。


「それから……お願いがひとつありますの」


「お願い?」


「これからは……エレナ、と呼んでくださいませ」


 エレオノーラという重たい名前は、もう必要ありません。

 この世界で生きていく、新しいわたくしの名前。


 エレナはにこっと笑って、軽く胸を張った。


「今日からは“エレナ”ですわ。新しい生活ですもの」


 そう告げたとき、窓から差し込む朝日が、一層眩しく感じられました。

 魔力はないけれど――ここには「人の温もり」という魔法が満ちています。


 わたくしの、新しい人生の幕開けです。


 この愛すべき優しい人たちと共に、どんな景色が見られるのか。

 不安よりも、ワクワクする気持ちの方が、今は勝っていました。

お読みいただきありがとうございます、久澄くずみゆうです。


今回はエレナ視点で、異世界追放から「名前を手放す」までをまとめて描いてみました。


戦う話ではなく、休む話。

強くなる前に、まず肩の力を抜く――そんな一話です。


次回からは、少しずつこの世界での「日常」が始まります。



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