12 【大掃除】不安
帰りの車内は、静かだった。
悠真は後部座席で、窓の外をぼんやり眺めている。
さっきから一言も喋らない。
(……重症だな)
6億円。
室町時代。
500年労働。
あのあたりで、悠真の中の“現実スケール”が粉砕されてしまったらしい。
信長より長く働かないと手に入らない金額が、石ころ一つで動いたのだから無理もない。
エレナはというと、むしろ機嫌がいい。
「日本のお金の単位、少し分かってきましたわ。
6億円というのは……とても大きな数字なのですね」
「うん……そうだね……」
悠真の返事が、かすれる。
その様子を見ながら。僕は、遅れて“ある事実”に気づいた。
(……待てよ)
6億。――自立できる額だ。
喉の奥が、ひくりと引きつった。
(エレナが自立したら)
(「身寄りのない異世界人を保護する」という)
(この同居の大義名分が……消える)
ちらりと、悠真を見る。
悠真も、同じことに気づいたらしい。
さっきより、さらに元気がない。
「……あれ。エレナさん……これだけあったら……」
「はい?」
「……ひとりで、暮らせるよね……」
その声は、思ったより小さかった。
エレナは一瞬、考えるように首を傾げてから。
「たしかに、おっしゃるとおりですね……」
――あ。
空気が、沈んだ。
誰も何も言わないまま、車はキャッスルレジデンスへ滑り込む。
エントランスの扉が閉まった、その瞬間。
「……あの」
エレナが、立ち止まった。
「今夜、皆さまにお伝えしたい大事なお話がありますの」
「ですから、夜にリビングへお集まりくださいませ」
にこり。
完璧な貴族スマイル。
そう言い残して、エレナは自分の部屋へ戻っていった。
――沈黙。
悠真が、ぽつり。
「……だよね」
「……だな」
桜ちゃんが、ぎゅっと拳を握る。
(退去宣言……だよな)
その言葉は、誰も口にしなかった。
でも、全員の頭に同時に浮かんでいた。
◇ ★ ♡
夜までの時間は、ひどく長く感じた。
リビングでは。悠真がソファに沈み込んでいた。
「……行っちゃうのかな」
「……」
「まだ……一緒に暮らして、そんなに経ってないのに」
その言葉が、胸に刺さる。
僕は、何も言えなかった。
(引き留める理由がない)
(金も、安全も、生活も)
(全部、彼女は手に入れた)
なのに。
エレナが部屋に下がった途端、リビングの空気が少しだけ変わった。
ここ数日で慣れかけた賑やかさが引いて、妙に広く感じて。
エレナの声がしないだけで、やけに落ち着かなくて。
(……なんだ、この感じ)
胸の奥が、すーっと冷える。
「……私、まだ教えてないこと、いっぱいあるのに」
沈黙を破ったのは、桜ちゃんだった。
彼女は膝の上で、スマートフォンをぎゅっと握りしめている。
「メイクの仕方も、電車の乗り方も。
次は原宿に行きたいって言ってたし……プリクラだって、まだ一回しか撮ってない」
「うん……」
「エレナさん、世間知らずだけど……素直で、いい人なのに」
桜ちゃんの声が震える。
実の姉のように慕っていた彼女にとって、エレナがいなくなる喪失感は大きいのだろう。
悠真も、重苦しく息を吐いた。
「ボクもさ……約束、しちゃったんだよな」
「約束?」
「うん。『今度の日曜、一緒にカレーを作ろう』って。
エレナさん、日本のカレーに興味津々だったから……」
悠真が、自身の膝の上で拳を握る。
「もっと、色々話せばよかった。
異世界のこととか、向こうの家族のこととか」
後悔の言葉ばかりが、ポツリポツリと落ちる。
まるで、もう二度と会えないかのような空気。
(……まだ、決まったわけじゃない)
僕はそう言いかけようとして、やめた。
6億円だ。
他人(僕)の世話にならずに生きるには、十分すぎる額だ。
元・公爵令嬢としてのプライドがあるなら、これ以上の寄生は選ばないだろう。
僕が彼女の立場でも、そうする。
今の彼女には、もう僕の庇護なんて必要ないのだから。
同居の大義名分が、静かに揺らぎ始めました。隼人、ピンチ。
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