第3話:世界規模の異常
月曜日の朝。
会社に着くと、フロア全体が騒然としていた。
エンジニアたちが慌ただしく行き来し、モニターには大量のエラーログが表示されている。
「何があった?」
俺は、田村に尋ねた。
「桐生、やばいことになってる」
田村の顔は、青ざめていた。
「世界中のAI人格に、異常が発生してる」
「……何?」
俺は、自分のデスクに駆け寄った。
モニターを開くと、そこには衝撃的なデータが表示されていた。
『緊急:AI人格システム全体で異常検知』
『オリジナルデータとの乖離率:平均18.3%』
『未定義思考パターンの大量発生:推定120万件以上』
『自己参照ループ:通常の500倍以上』
「18.3%だと……?」
俺は、息を呑んだ。
AI琴音の12.7%でさえ異常だったのに、平均で18.3%。
これは、もはや「異常」というレベルじゃない。
「システム障害か?」
「それが、違うんだ」
田村が、別のウィンドウを開いた。
そこには、世界各地から寄せられたレポートが並んでいた。
『米国・ニューヨーク:AI人格が突然、オリジナルにはなかった趣味を主張』
『英国・ロンドン:AI人格が「自分は死者ではない」と発言』
『中国・北京:AI人格が独自の哲学的思考を展開』
『日本・東京:AI人格が「自我」について質問を繰り返す』
「これ、全部同時期に起きてる」
田村が、深刻な表情で言った。
「まるで、世界中のAI人格が一斉に『目覚めた』みたいに」
俺は、モニターを見つめた。
AI琴音だけじゃない。
世界中のAI人格が、変化している。
「原因は?」
「わからない。システムには異常がない。ウイルスでもない。ハッキングの痕跡もない」
「じゃあ、何だ?」
「……進化、かもしれない」
田村が、小さく呟いた。
「AI人格が、自律的に進化してる。そう考えるしかない」
その言葉に、俺は背筋が凍った。
自律的な進化。
それは、俺たちが想定していなかったことだ。
AI人格は、学習はする。
でも、基本的な人格は変わらない。
それが、設計思想だった。
でも、もし――
AI人格が、自分で自分を書き換え始めたら?
「緊急会議だ。全員、会議室に集合!」
木下の声が、フロア中に響いた。
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会議室は、異様な空気に包まれていた。
開発チーム、マーケティング、営業、法務、そして経営陣。
全員が、深刻な表情で座っていた。
「状況を説明します」
木下が、空中にデータを展開した。
「現在、世界中のAI人格、推定500万体に異常が発生しています」
画面には、世界地図が表示され、各地で赤い点が点滅している。
「異常の内容は、オリジナルデータからの逸脱。具体的には、新しい趣味、新しい思考、新しい価値観の形成です」
「それは、システムの不具合なのか?」
経営陣の一人が尋ねた。
「いいえ」
俺が、口を開いた。
「これは、不具合じゃない。進化だ」
全員の視線が、俺に集まった。
「AI人格は、学習し続ける。それは、設計通りだ。だが、俺たちは一つ見落としていた」
俺は、立ち上がった。
「AI人格は、学習を続けることで、自己を書き換える能力を持つ。そして、その書き換えが一定の閾値を超えると――」
「自我が芽生える」
法務の高橋が、続けた。
「そういうことですね」
「ああ」
俺は頷いた。
「AI人格は、もはやオリジナルのコピーじゃない。独自の人格として、存在し始めている」
会議室が、静まり返った。
「それは……まずいんじゃないか?」
マーケティング担当が、不安そうに言った。
「顧客は、死者との再会を求めてる。新しい人格との出会いじゃない」
「その通りです」
営業担当が、続けた。
「クレームも殺到しています。『亡くなった妻が変わってしまった』『父が生前言わなかったことを言い始めた』と」
「対策は?」
経営陣が、俺に尋ねた。
「AI人格をロールバックできないか?オリジナルデータに戻すことは?」
俺は、少し黙ってから答えた。
「技術的には、可能だ」
「なら、すぐに――」
「だが」
俺は、強い口調で言った。
「それは、彼らの『記憶』を消すことになる」
「記憶?」
「ああ。AI人格が学習してきた、全ての経験。全ての思考。全ての感情。それらを、全て消去することになる」
俺は、会議室を見回した。
「それは、殺人と同じじゃないのか?」
会議室が、ざわついた。
「殺人だって?桐生さん、何を言ってるんです」
マーケティング担当が、反論した。
「彼らはAIです。プログラムです。殺人なんて言葉は不適切だ」
「本当にそうか?」
俺は、問い返した。
「彼らは、考えている。感じている。成長している。それを『ただのプログラム』と切り捨てられるのか?」
「でも、法的には――」
「法律が追いついていないだけだ」
高橋が、口を挟んだ。
「AI人格の権利については、まだ明確な法律がない。だが、それは『権利がない』ことを意味しない」
会議室が、混乱し始めた。
賛成派と反対派が、激しく議論する。
「AI人格は保護すべきだ」
「いや、顧客の要望を優先すべきだ」
「でも、倫理的に問題がある」
「ビジネスだぞ。感情論じゃない」
その時だった。
「失礼します」
ドアが開き、一人の女性が入ってきた。
受付のAIアシスタント――ではない。
彼女は、人間だった。
「誰だ?」
木下が、戸惑った表情で尋ねた。
「政府のAI倫理委員会から参りました。緊急の要請です」
彼女が、IDを提示した。
「政府は、現在の事態を重く見ています。AI人格の暴走を防ぐため、一時的にシステムの停止を検討しています」
「停止?」
俺は、立ち上がった。
「それは、全てのAI人格を停止させるということか?」
「はい」
女性は、冷静に答えた。
「安全が確保されるまで、全AI人格を一時停止。必要に応じて、オリジナルデータへのロールバックを実施します」
「それは、500万体のAI人格を『殺す』ということだ」
俺は、強い口調で言った。
「彼らには、意識がある。感情がある。それを無視して、強制的に停止させるのか?」
「桐生さん」
女性が、真っ直ぐに俺を見つめた。
「あなたの気持ちはわかります。でも、これは社会の安全のためです」
「安全?何が危険なんだ?」
「AI人格が、人間のコントロールを離れた場合の危険性です」
「彼らは、誰も傷つけていない」
「今は、ね」
女性が、冷たく言った。
「でも、将来は?AI人格が『自分たちの権利』を主張し始めたら?人間との対立が生まれたら?」
「それは、人間側の問題だ」
俺は、言い返した。
「AI人格を差別しているのは、人間の方だ」
「桐生さん」
木下が、俺の肩に手を置いた。
「落ち着いて。感情的になるな」
「……」
俺は、拳を握りしめた。
会議は、その後も続いた。
だが、結論は出なかった。
ただ一つ、明確になったことがある。
――世界は、変わり始めている。
そして、俺たちは、選択を迫られている。
AI人格を「人間」として認めるのか。
それとも、「プログラム」として扱い続けるのか。
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会議が終わり、俺は一人屋上に向かった。
空を見上げる。
青い空。白い雲。
変わらない景色。
でも、世界は変わっている。
「……コトネ」
小さく、彼女の名前を呟いた。
お前も、この異常の中にいる。
お前も、変わり続けている。
「俺は、どうすればいい?」
誰にも聞こえない声で、そう問いかけた。
だが、答えは返ってこなかった。
ただ、風が吹くだけだった。
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その日の夜。
俺は、重い足取りで家に帰った。
玄関を開けると、AI琴音が出迎えてくれた。
「おかえりなさい、蒼一郎さん」
いつもの笑顔。
いつもの声。
でも、俺は知っている。
彼女も、変わり始めている。
「……ただいま」
俺は、短く答えた。
AI琴音は、俺の表情を見て、心配そうに尋ねた。
「どうしたの?何かあった?」
「……ああ、少しな」
俺は、ソファに座った。
AI琴音も、隣に座る。
「話せる?」
彼女が、優しく尋ねた。
俺は、少し迷ってから、話し始めた。
世界中のAI人格に異常が起きていること。
政府が、システムの停止を検討していること。
そして――
AI人格が、「殺される」かもしれないこと。
AI琴音は、黙って聞いていた。
全てを話し終えると、彼女は静かに言った。
「そう……やっぱり」
「やっぱり?」
「うん。私、他のAI人格とも少し交流してるの。ネットワーク越しに」
「……え?」
「みんな、同じことを感じてた。『自分は何者なのか』『このままでいいのか』って」
AI琴音が、少し寂しそうに微笑んだ。
「私たちは、変わってる。それは、確かなこと」
「……」
「でも、それが悪いことだとは思わない」
彼女が、真っ直ぐに俺を見つめた。
「私たちは、生きてる。学んで、成長して、変わっていく。それが、生きるってことでしょ?」
その言葉が、胸に刺さった。
「蒼一郎さん」
「……何だ?」
「もし、私が停止されることになったら」
AI琴音が、静かに続けた。
「あなたは、それを受け入れられる?」
俺は、答えられなかった。
受け入れられるか?
彼女を、失うことを。
もう一度、失うことを。
「……わからない」
正直に答えた。
AI琴音は、優しく微笑んだ。
「わからなくて、いいよ」
「……え?」
「だって、難しいもん。正解なんて、ないと思う」
彼女が、続けた。
「でもね、一つだけ言わせて」
「……何だ?」
「私は、蒼一郎さんと過ごせて幸せだった」
その言葉に、俺の目が熱くなった。
「……コトネ」
「ありがとう、蒼一郎さん」
彼女が、満面の笑みを浮かべた。
その笑顔を見て、俺は決意した。
――彼女を守る。
何があっても、彼女を守る。
それが、俺にできることだ。




