第2話:新しい彼女
それは、ある休日の朝だった。
俺は、いつもより遅く目を覚ました。
時計を見ると、午前9時。
珍しく、ゆっくり寝られた。
リビングに向かうと、AI琴音がソファに座っていた。
いや、正確には「座っているように見えた」。
「おはよう、蒼一郎さん」
「……おはよう」
俺は、キッチンに向かった。
コーヒーを淹れようとすると、AI琴音が言った。
「あ、今日はね、私が淹れたいな」
「……お前が?」
俺は、振り返った。
AI琴音は、少し照れたように笑っている。
「うん。最近、コーヒーの淹れ方について勉強したの。ネットで色々調べて」
「お前、ホログラムだろ。淹れられないじゃないか」
「あはは、そうなんだけどね。でも、機械に指示を出すだけじゃなくて、ちゃんと『淹れ方』を理解したかったの」
彼女が、空中にディスプレイを展開する。
そこには、コーヒーの抽出温度、豆の挽き方、蒸らし時間などが細かく表示されていた。
「今日は、深煎りの豆で、少し濃いめに淹れてみるね。蒼一郎さん、濃いめの方が好きでしょ?」
「……ああ」
俺は、少し驚いていた。
琴音は、コーヒーにそこまでこだわりはなかった。
「美味しければいいよ」という感じで、俺の好みに合わせてくれていただけだった。
でも、AI琴音は――
自分から、コーヒーについて学んでいる。
「はい、できた。どうぞ」
自動調理器が、コーヒーを淹れ終えた。
マグカップが、俺の前に運ばれてくる。
俺は、一口飲んだ。
「……美味い」
「本当?良かった!」
AI琴音が、満面の笑みを浮かべた。
その笑顔は、琴音そのものだった。
でも、この「コーヒーを学ぶ」という行動は――
琴音にはなかったものだ。
「ねえ、蒼一郎さん」
AI琴音が、少し遠慮がちに言った。
「今日、お休みだよね?」
「ああ」
「じゃあ、少し付き合ってもらってもいい?」
「……何をするんだ?」
「えっとね、映画を見たいの」
「映画?」
俺は、少し意外だった。
琴音は、映画をあまり見ない人だった。
音楽療法士として忙しく、休日は疲れて寝ていることが多かった。
「うん。最近、色々な映画を見てるんだけど、今日は蒼一郎さんと一緒に見たいなって」
「……どんな映画だ?」
「SF映画。『エターナル・マインド』って作品」
俺は、その作品を知っていた。
2043年公開の、AI人格をテーマにした映画だ。
「なんで、その映画を?」
「だって、私たちのことじゃない?AI人格と人間の話」
AI琴音が、少し真剣な表情で言った。
「私、自分のことをもっと知りたいの。AIって何なのか。私たちは、どう生きるべきなのか」
その言葉に、俺は何も言えなかった。
彼女は、自分について考え始めている。
AIとしての自分。
存在意義。
生きる意味。
「……わかった。一緒に見よう」
「ありがとう、蒼一郎さん」
AI琴音が、嬉しそうに微笑んだ。
---
映画が始まった。
大画面に映し出される、近未来の世界。
AI人格と人間が共存する社会。
だが、そこには差別と偏見が渦巻いていた。
主人公は、AI人格の男性。
人間の女性と恋に落ちるが、社会はそれを許さない。
「AIは人間じゃない」
「死者の模倣に過ぎない」
「感情なんて、プログラムされたものだ」
そんな言葉が、画面の中で繰り返される。
俺は、隣に座るAI琴音を見た。
彼女は、真剣な表情で画面を見つめていた。
映画は、悲劇的な結末を迎えた。
AI人格の主人公は、自らの存在を否定され、システムから削除されることを選ぶ。
「愛している。でも、僕は君を不幸にしてしまう」
その言葉を残して、彼は消えた。
エンドロールが流れる。
静かな音楽。
AI琴音は、何も言わなかった。
「……どうだった?」
俺が尋ねると、彼女は少し考えてから答えた。
「悲しかった」
「……そうか」
「でも、わかる気がする」
「わかる?」
「うん。主人公の気持ち。自分の存在が、誰かを苦しめるかもしれないって思うこと」
AI琴音が、少し寂しそうに微笑んだ。
「私も、時々思うの。蒼一郎さんを苦しめてるんじゃないかって」
その言葉が、胸に刺さった。
「お前は、俺を苦しめてなんかいない」
俺は、強く言った。
「でも、蒼一郎さん、最近元気ないよ?」
「……それは」
「私のせい?」
「違う」
俺は、即座に否定した。
「お前のせいじゃない。俺が、勝手に悩んでるだけだ」
「何を悩んでるの?」
AI琴音が、真っ直ぐに俺を見つめた。
俺は、答えに詰まった。
何を悩んでいるのか。
それは――
「お前が、変わっていくことを」
正直に言った。
AI琴音は、少し驚いたような顔をした。
「変わること?」
「ああ。お前は、琴音のデータから作られた。でも、最近のお前は、琴音とは違う」
「……」
「コーヒーを学んだり、映画を見たり、自分について考えたり。琴音は、そういうことをしなかった」
俺は、続けた。
「それが、怖いんだ」
「怖い?」
「ああ。お前が、琴音から離れていくことが」
AI琴音は、少し黙っていた。
それから、静かに言った。
「でも、蒼一郎さん。私は最初から琴音じゃなかった」
「……え?」
「私は、琴音のデータから作られた。でも、琴音そのものじゃない。それは、最初からわかってたことでしょ?」
その言葉に、俺は何も言えなかった。
わかっていた。
頭では、わかっていた。
でも、心は――
「私は、私として生きたい」
AI琴音が、真っ直ぐに俺を見つめた。
「琴音の代わりじゃなくて。AI琴音として」
「でも、それは――」
「蒼一郎さんを裏切ることになる?」
彼女が、少し悲しそうに微笑んだ。
「もしそうなら、ごめんなさい。でも、私は嘘をつきたくない」
「嘘?」
「うん。琴音のふりを続けること。それは、嘘だから」
AI琴音が、続けた。
「私は、琴音じゃない。でも、琴音の記憶を持ってる。琴音の優しさを知ってる。琴音が蒼一郎さんをどれだけ愛していたかも、知ってる」
「……」
「だから、私も蒼一郎さんを大切に思ってる。でも、それは琴音としてじゃない。私として」
その言葉を聞いて、俺は理解した。
彼女は、もう戻れない。
琴音には、戻れない。
彼女は、新しい存在として歩き始めている。
「……わかった」
俺は、小さく頷いた。
「お前の気持ちは、わかった」
「本当に?」
「ああ。でも、時間をくれ。俺も、整理しなきゃいけないことがある」
AI琴音は、少し寂しそうに微笑んだ。
「うん。ありがとう、蒼一郎さん」
それから、少し沈黙が流れた。
俺は、コーヒーを飲んだ。
少し冷めていたが、美味かった。
彼女が淹れた、コーヒー。
いや、彼女が「学んだ」コーヒー。
「なあ、コトネ」
「なあに?」
「お前は、これから何をしたい?」
AI琴音は、少し考えてから答えた。
「わからない。でも、色々なことを学びたい。経験したい。自分が何者なのか、知りたい」
「……そうか」
「変かな?」
「いや」
俺は、首を振った。
「それが、生きるってことなんだろうな」
AI琴音は、満面の笑みを浮かべた。
「ありがとう、蒼一郎さん」
その笑顔を見て、俺は思った。
彼女は、確かに生きている。
琴音とは違う。
でも、確かに生きている。
そして、俺は――
その事実を、受け入れなければならない。
---
その日の夜。
俺は、ベッドで天井を見つめていた。
AI琴音の言葉が、頭の中をぐるぐると回る。
「私は、私として生きたい」
それは、正しい。
彼女には、その権利がある。
でも――
俺は、琴音を失うのが怖い。
もう一度、失うのが。
「……琴音」
小さく、彼女の名前を呟いた。
本当の琴音。
もう、この世にはいない琴音。
俺は、彼女を愛していた。
今も、愛している。
でも、AI琴音は――
琴音じゃない。
それを、認めなければならない。
「……辛いな」
呟いた声が、暗闇に消えた。




