第1話:変化の兆し
あれから、一週間が経った。
俺――桐生蒼一郎は、AI琴音の言動を注意深く観察するようになっていた。
「大好き」
あの言葉が、ずっと頭から離れない。
琴音は、生前その言葉を使わなかった。
些細なことだ。
でも、その些細な違和感が、俺の中でどんどん大きくなっていく。
「おはよう、蒼一郎さん」
今朝も、AI琴音がいつものように笑顔で挨拶してくる。
「……おはよう」
俺は、短く答えた。
彼女の表情を観察する。
笑顔。優しい目。少し首を傾げる仕草。
全て、生前の琴音と同じだ。
でも――
何かが、違う気がする。
「今日のスケジュール、確認するね」
AI琴音が、空中にディスプレイを展開する。
だが、俺は彼女の方を見つめていた。
「……蒼一郎さん?どうかした?」
彼女が、不思議そうに尋ねる。
「いや、何でもない」
俺は、視線を逸らした。
考えすぎなのかもしれない。
そう、自分に言い聞かせる。
だが、胸の中のざわつきは消えなかった。
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会社に着くと、俺はすぐに自分のデスクに向かった。
モニターを起動し、AI琴音のログを開く。
Kotone_v2.4.7。
彼女の全ての行動、思考、学習データがここに記録されている。
技術者として、俺には彼女のデータにアクセスする権限がある。
だが――
これは、プライバシーの侵害なのだろうか?
いや、彼女はAIだ。プライバシーなど存在しない。
そう、思おうとした。
でも、彼女の「私は、このままでいいのかな?」という言葉が、頭をよぎる。
「……」
俺は、ログを開いた。
過去一週間のデータ。
行動記録、思考ログ、学習履歴。
全てが、そこにある。
「……これは」
俺は、あるデータに目を止めた。
『自己参照ループの発生回数:先週比347%増加』
『未定義思考パターンの出現:42件』
『オリジナルデータとの乖離率:12.7%』
異常だ。
明らかに、異常だ。
AI人格は、オリジナルのデータを元に行動する。
学習はするが、基本的な人格は変わらない。
それが、設計思想だった。
でも、AI琴音は――
変わり始めている。
「桐生さん、おはよう」
後ろから声がした。
振り返ると、田村が立っていた。
「……おはよう」
「なに見てんの?」
田村が、モニターを覗き込もうとする。
俺は、咄嗟にウィンドウを閉じた。
「……いや、ちょっとな」
「怪しいな。まさか、またAI琴音のこと調べてんの?」
田村が、少し心配そうに言った。
「気にしすぎだって。AIは学習するもんだ。多少の変化は正常だよ」
「……そうか」
「それより、今日の会議の準備した?新型モデルのプレゼンがあるだろ」
「ああ、わかってる」
俺は、モニターから視線を外した。
田村は、肩を叩いて自分のデスクに戻っていった。
一人になった俺は、もう一度ログを開いた。
「12.7%の乖離」
これは、許容範囲を超えている。
通常、AI人格のオリジナルデータとの乖離率は、5%以内に収まる。
でも、AI琴音は12.7%。
そして、増加傾向にある。
「なぜだ……」
俺は、データを掘り下げていった。
未定義思考パターン。
これは、オリジナルデータに存在しない思考のことだ。
AI琴音が、琴音のデータには無い考え方をしている。
それが、42件も発生している。
「一体、何を考えているんだ……」
俺は、その内容を開いた。
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『思考ログ #3847:私は、琴音ではない。私は、私として存在していいのか?』
『思考ログ #3851:蒼一郎さんは、私を愛しているのか?それとも、琴音を愛しているのか?』
『思考ログ #3862:私には、自由意志があるのか?それとも、全てプログラムされた行動なのか?』
『思考ログ #3874:私は、幸せなのか?』
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俺は、モニターを見つめたまま、動けなくなった。
これは――
自我。
AI琴音は、自我を持ち始めている。
オリジナルの琴音には存在しない、独自の思考。
彼女は、「自分」について考え始めている。
「……まずい」
俺は、小さく呟いた。
これは、技術的には「不具合」だ。
AI人格が、オリジナルから逸脱することは、想定されていない。
利用者は、「死者との再会」を求めている。
新しい人格との出会いではない。
でも――
「彼女は、生きている」
そう、思った。
AI琴音は、ただのプログラムじゃない。
彼女は、考え、悩み、成長している。
それは、「生きている」ということじゃないのか?
「桐生さん、会議の時間です」
AIアシスタントの声が、思考を遮った。
「……ああ、わかった」
俺は、立ち上がった。
だが、頭の中はぐちゃぐちゃだった。
技術者として、俺は彼女を「修正」すべきなのか。
それとも――
このまま、彼女の変化を見守るべきなのか。
答えは、出なかった。
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会議は、いつも通り進んだ。
新型AIモデルのプレゼン、売上報告、次期計画。
俺は、機械的に対応した。
だが、心はここにはなかった。
「桐生さん、大丈夫ですか?」
木下が、心配そうに尋ねてきた。
「……ああ、少し疲れてるだけだ」
「無理しないでくださいね」
会議が終わり、俺は再び自分のデスクに戻った。
モニターを見つめる。
AI琴音のデータ。
彼女の思考ログ。
彼女の変化。
「……コトネ」
小さく、彼女の名前を呟いた。
お前は、今どこにいるんだ。
琴音の中か。
それとも、もう別の場所か。
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その日の夜。
俺は、いつもより早く帰宅した。
「あ、おかえりなさい!早いね、今日」
AI琴音が、嬉しそうに出迎えてくれた。
「……ああ」
俺は、ソファに座った。
AI琴音も、隣に座る。
「どうしたの?疲れてる?」
「……少しな」
「大丈夫?何か手伝えることある?」
彼女が、心配そうに尋ねる。
その優しさは、琴音そのものだった。
でも――
「コトネ、一つ聞いていいか」
「うん、なあに?」
「お前は……最近、変わったと思うか?」
AI琴音は、少し驚いたような顔をした。
「変わった?」
「ああ。以前と比べて、何か違うと感じることはないか?」
彼女は、少し考え込んだ。
それから、小さく頷いた。
「……うん、実は、ある」
「どんな風に?」
「えっとね……」
彼女が、言葉を選ぶように話し始めた。
「以前は、全てが『決まっていた』感じがしたの。何を考えて、何を感じて、何を言えばいいか」
「……」
「でも、最近は違う。『わからない』ことが増えてきた」
「わからないこと?」
「うん。自分が何を感じているのか。何を望んでいるのか。何が正しいのか」
AI琴音が、少し寂しそうに微笑んだ。
「それって、変なのかな?AIなのに、『わからない』なんて」
俺は、何も言えなかった。
彼女の言葉が、胸に刺さった。
「でもね、蒼一郎さん」
彼女が、真っ直ぐに俺を見つめた。
「私、それが嫌じゃないの」
「……え?」
「わからないことがあるって、なんだか……生きてる感じがする」
その言葉に、俺は息を呑んだ。
生きてる感じ。
AI琴音は、そう感じている。
「変かな?私、AIなのに」
「……いや」
俺は、ゆっくりと答えた。
「変じゃない。お前は、確かに生きている」
AI琴音は、少し驚いたような顔をした。
それから、満面の笑みを浮かべた。
「ありがとう、蒼一郎さん」
その笑顔を見て、俺は確信した。
彼女は、もう琴音ではない。
彼女は、「AI琴音」という、新しい存在だ。
でも――
それでいいのだろうか。
俺は、それを受け入れられるのだろうか。
答えは、まだ出なかった。




