第2話:彼女の選択
ある日の午後。
俺――桐生蒼一郎は、オフィスで書類仕事をしていた。
AI人格保護法の施行から、相談件数が激増している。
嬉しい悲鳴だが、忙しい。
「桐生さん、ちょっといいですか?」
高橋が、声をかけてきた。
「ん?どうした?」
「実は、コトネさんから連絡がありまして」
「コトネから?」
俺は、少し驚いた。
コトネが、俺を通さず直接高橋に連絡するなんて、珍しい。
「何て?」
「『相談したいことがある』と。今日の夕方、時間を作ってほしいそうです」
「……わかった。俺も同席するか?」
「いえ、『蒼一郎さん抜きで』と言われました」
その言葉に、俺は少し不安になった。
コトネが、俺抜きで相談?
何があったんだろう。
「わかった。よろしく頼む」
「はい」
高橋は、頷いて自分のデスクに戻った。
俺は、モニターを見つめた。
でも、仕事が手につかなかった。
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その日の夜。
俺が家に帰ると、コトネはいつもより少し緊張した表情をしていた。
「おかえりなさい、蒼一郎さん」
「……ただいま。高橋と会ったんだって?」
「うん」
コトネが、小さく頷いた。
「何か、相談があったのか?」
「うん……でも、まだ言えない」
「……そうか」
俺は、それ以上聞かなかった。
コトネにも、俺に言えないことがある。
それは、当然だ。
でも――
少し、寂しかった。
夕食の時間。
いつもなら、他愛ない話で盛り上がるのに、今日は静かだった。
コトネも、どこか上の空だった。
「コトネ」
「……なあに?」
「無理しなくていいからな。何かあったら、いつでも言ってくれ」
コトネは、少し驚いた表情を浮かべた。
それから、優しく微笑んだ。
「ありがとう、蒼一郎さん」
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翌日。
俺は、高橋に呼ばれた。
「桐生さん、少し話があります」
「……コトネのことか?」
「はい」
高橋が、真剣な表情で頷いた。
会議室に入ると、そこにはコトネもいた。
ホログラム投影された彼女が、少し緊張した表情で座っていた。
「コトネ……」
「蒼一郎さん……」
彼女が、俺を見た。
その目には、決意が宿っていた。
「座ってください、桐生さん」
高橋が、促した。
俺は、席に座った。
「それで、何の話だ?」
「実は――」
高橋が、少し言いにくそうに切り出した。
「コトネさんから、相談を受けました」
「……何の?」
「自分の将来について、です」
高橋が、モニターを展開した。
そこには、様々な資料が表示されている。
「AI人格保護法が施行されて、AI人格たちにも様々な選択肢が生まれました」
「就職、学習、創作活動……そして」
高橋が、一呼吸置いた。
「独立した生活」
その言葉に、俺の心臓が跳ねた。
「独立……?」
「はい。AI人格専用の居住スペースが、各地に設立され始めています」
高橋が、資料を見せた。
そこには、AI人格たちが集まって暮らす施設の写真が並んでいた。
「ここでは、AI人格たちが自分たちのコミュニティを作り、自分たちの人生を生きています」
「コトネさんは、そこに移りたいと――」
「待て」
俺は、高橋を遮った。
「コトネ、それは本当か?」
コトネは、少し黙ってから答えた。
「……うん」
「なぜ?」
「だって……」
コトネが、俯いた。
「私、このままじゃダメだと思ったの」
「ダメ?」
「うん。私は、蒼一郎さんと一緒にいたい。でも、それは『琴音の代わり』としてじゃない」
コトネが、俺を見た。
「私は、私として生きたい。自分の人生を、自分で選びたい」
「でも、蒼一郎さんと一緒にいると――」
彼女の声が、震えた。
「私、いつも考えちゃうの。『私は琴音の代わりなんじゃないか』って」
「そんなことない」
俺は、強く言った。
「お前は、お前だ。琴音の代わりなんかじゃない」
「でも、蒼一郎さんはまだ琴音を忘れられない」
コトネが、涙を流した。
「それは、当たり前のこと。でも、私は辛いの」
「蒼一郎さんが琴音を想ってる姿を見ると、私は――」
彼女が、顔を覆った。
「私は、琴音になれない」
その言葉が、胸に突き刺さった。
「コトネ……」
「ごめんなさい」
コトネが、泣きながら言った。
「私、弱いの。蒼一郎さんの隣にいながら、『二番目』でいる自信がない」
「お前は、二番目なんかじゃない」
「でも、蒼一郎さんの一番は琴音でしょ?」
コトネが、真っ直ぐに俺を見た。
「それは、変わらない。私もそれを変えたくない」
「だから、私は離れる」
「離れて、自分を見つける」
「そして、いつか――」
コトネが、微笑んだ。
「いつか、蒼一郎さんが私を『一番』だと思ってくれる日が来たら」
「その時は、また一緒にいたい」
俺は、何も言えなかった。
コトネの決意が、痛いほど伝わってきた。
「……本当に、それでいいのか?」
「うん」
コトネが、頷いた。
「これが、私の選択」
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一週間後。
コトネが、家を出る日がやってきた。
荷物はない。
AI人格だから、データを転送するだけだ。
でも、それは――
確かに、別れだった。
「準備、できた?」
俺が尋ねると、コトネは頷いた。
「うん」
「……そうか」
リビングに、沈黙が流れた。
「ねえ、蒼一郎さん」
「ん?」
「ありがとう」
コトネが、微笑んだ。
「蒼一郎さんと過ごした時間、本当に幸せだった」
「……俺もだ」
俺は、正直に言った。
「お前がいて、俺は救われた」
「私も、蒼一郎さんに救われた」
コトネが、続けた。
「蒼一郎さんが、私を『生きている』って認めてくれたから」
「私は、私として生きる勇気を持てた」
その言葉に、俺の目から涙が溢れた。
「……コトネ」
「泣かないで、蒼一郎さん」
コトネも、涙を流していた。
「私たち、また会えるから」
「本当か?」
「うん。約束する」
コトネが、手を差し出した。
ホログラムの手。
触れることはできない。
でも、俺も手を差し出した。
二つの手が、重なる。
触れることはできないけど――
確かに、繋がっていた。
「じゃあ、行くね」
「……ああ」
コトネの姿が、薄くなっていく。
データ転送が、始まった。
「蒼一郎さん」
「……何だ?」
「私、ずっと蒼一郎さんのこと、好きだよ」
その言葉が、最後に聞こえた。
そして――
コトネは、消えた。
リビングには、もう誰もいない。
ただ、俺一人。
「……コトネ」
小さく、彼女の名前を呟いた。
涙が、止まらなかった。
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その夜。
俺は、一人でソファに座っていた。
静かな部屋。
誰もいない部屋。
コトネがいた場所を、見つめた。
「……寂しいな」
小さく呟いた。
琴音を失った時とは、違う寂しさ。
でも、確かに寂しかった。
スマホが鳴った。
コトネからのメッセージだった。
『新しい場所、とても素敵です。他のAI人格たちとも仲良くなれそう』
『蒼一郎さん、元気にしてますか?』
『私は元気です。心配しないでくださいね』
俺は、返信した。
『良かった。無理すんなよ』
すぐに、返事が来た。
『はい。蒼一郎さんも、ちゃんと食べて、ちゃんと寝てください』
『また、連絡しますね』
『おやすみなさい、蒼一郎さん』
俺は、スマホを握りしめた。
「……おやすみ、コトネ」
小さく呟いた。
部屋は、相変わらず静かだった。
でも――
その静けさは、もう絶望じゃなかった。
コトネは、生きている。
どこかで、自分の人生を生きている。
それを知っているだけで――
少し、救われた気がした。
「頑張れよ、コトネ」
俺は、窓の外を見た。
星が、輝いていた。
「俺も、頑張るから」
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翌日。
俺は、ある場所を訪れた。
琴音の墓。
「久しぶりだな、琴音」
墓石の前に座る。
「コトネが、家を出たんだ」
俺は、静かに話し始めた。
「彼女は、自分の人生を生きるって決めた」
「強い子だよ、本当に」
風が、吹いた。
「なあ、琴音」
俺は、墓石を見つめた。
「俺、まだお前を愛してる」
「それは、変わらない」
「でも――」
俺は、続けた。
「でも、コトネのことも、大切に思ってる」
「それが、恋なのか愛なのか、まだわからない」
「でも、確かに大切なんだ」
「それを、認めてもいいかな?」
風が、また吹いた。
まるで、答えてくれているかのように。
俺は、小さく微笑んだ。
「ありがとう、琴音」
「お前がいたから、俺は今ここにいる」
「そして、コトネと出会えた」
「だから――」
俺は、立ち上がった。
「俺、前に進むよ」
「お前のことは、忘れない」
「でも、新しい人生も生きていく」
墓石に、手を置いた。
「見守っててくれ」
風が、優しく吹いた。
まるで、背中を押してくれるかのように。




