第1話:朝の光
目覚まし時計が鳴る前に、俺は目を覚ました。
午前6時15分。カーテンの隙間から差し込む朝日が、寝室を薄く照らしている。
隣を見る。
そこには、誰もいない。
当たり前だ。
もう4年も前から、この布団には俺一人しか寝ていない。
「……ふぅ」
小さく息を吐いて、俺――桐生蒼一郎は体を起こした。42歳。AI人格再生技術の第一人者。そして、自分の技術で妻を「再生」した、最初の人間。
ベッドから降りて、リビングへ向かう。
廊下を歩きながら、壁に取り付けられたホームシステムに声をかける。
「コトネ、起動」
『はい、おはようございます、蒼一郎さん』
柔らかな女性の声が、部屋中に響いた。
リビングに入ると、ソファの前に、彼女が現れた。
ホログラム投影による、人の姿。
黒髪のセミロング。優しげな目元。少し困ったように微笑む口元。
38歳で止まった時間。
――桐生琴音。
俺の妻だった人。
いや、正確には違う。
これは、妻のデータから再構築された、AIだ。
「おはよう、蒼一郎さん。よく眠れた?」
彼女――AI琴音が、いつものように微笑みかけてくる。
その笑顔は、生前の彼女と何一つ変わらない。
「……ああ、まあまあだ」
俺は短く答えて、キッチンへ向かった。
AI琴音は、俺の後ろをふわりとついてくる。ホログラムだから、足音はしない。まるで幽霊のように。
いや、ある意味では幽霊なのかもしれない。
死んだ人間の、残像。
「今日のスケジュールを確認するね」
AI琴音が、空中に半透明のディスプレイを展開する。
『9:00 - 社内会議(新型AIモデルの進捗報告)』
『13:00 - クライアント面談(エターナルメモリーズ社・VIP顧客)』
『17:00 - 開発チームミーティング』
「今日も忙しそうだね」
彼女が少し心配そうに言う。
その表情も、声のトーンも、生前の琴音そのものだ。
だが、俺は知っている。
これは、彼女じゃない。
彼女の「記憶」を元に作られた、プログラムだ。
「コーヒー、淹れるね」
AI琴音がそう言って、キッチンのコーヒーメーカーに指示を出す。ホログラムだから、直接物には触れられない。だが、家中のIoT機器と連動しているから、まるで彼女が家事をしているかのように見える。
ほどなくして、コーヒーの香りが部屋を満たした。
「はい、どうぞ」
マグカップが、自動で俺の前に運ばれてくる。
「……ありがとう」
俺は小さく礼を言って、コーヒーを口に運んだ。
苦味と香りが、喉を通る。
「ねえ、蒼一郎さん」
AI琴音が、少し遠慮がちに声をかけてきた。
「今日、帰りに花屋さん寄れる?リビングの花、そろそろ新しくしたいなって」
「……ああ、わかった」
俺は頷いた。
彼女は、生前も花が好きだった。
リビングにはいつも、季節の花が飾られていた。
彼女が亡くなってから、俺はその習慣を続けている。
AI琴音が提案するから、というのもある。
だが、本当は――
俺自身が、その習慣を手放したくないだけなのかもしれない。
「ありがとう。じゃあ、今日はガーベラがいいな。ピンクの」
AI琴音が嬉しそうに微笑む。
その笑顔を見ていると、胸が締め付けられる。
懐かしさと、切なさと、そして――罪悪感。
「……コトネ」
「なあに?」
「お前は、幸せか?」
俺は、思わずそう尋ねていた。
AI琴音は、少し驚いたような顔をした。
それから、いつもの優しい笑顔に戻る。
「幸せだよ。蒼一郎さんと、こうして一緒にいられるから」
そう言って、彼女は微笑んだ。
だが、その笑顔は――
どこか、悲しげに見えた。
気のせいだろうか。
それとも、俺の願望が、そう見せているだけなのか。
俺は、それ以上何も言えなかった。
コーヒーを飲み干して、着替えに向かう。
背後で、AI琴音が「いってらっしゃい」と言う声が聞こえた。
その声は、4年前と何一つ変わらない。
だが、俺たちの関係は――
もう、あの頃には戻れない。
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2045年。
AI人格再生技術が実用化されて、5年が経った。
死者のデータから、その人格を再現し、AIとして「再会」できる時代。
多くの人が、この技術に救われた。
そして、多くの人が、この技術に苦しんでいる。
俺も、その一人だ。
玄関を出る前に、もう一度リビングを振り返る。
AI琴音が、手を振っている。
「いってらっしゃい、蒼一郎さん。気をつけてね」
「……ああ」
俺は、短く答えた。
そして、扉を閉めた。
廊下に出て、深く息を吐く。
毎朝、この瞬間が一番辛い。
彼女と離れる瞬間。
そして同時に、ほっとする瞬間。
矛盾している。
だが、それが俺の本音だった。
エレベーターに乗り込み、1階へ向かう。
鏡に映った自分の顔を見る。
42歳。黒髪に白髪が少し混じり始めた。目の下にクマ。
疲れている。
ずっと、疲れている。
「……琴音」
小さく、彼女の名前を呟いた。
本当の琴音。
もう、この世にはいない琴音。
「俺は、何をしてるんだろうな」
誰にも聞こえない声で、そう呟いた。
エレベーターが1階に到着する。
扉が開く。
外は、いつもの朝だった。
自動運転車が行き交い、ホログラム広告が街を彩る。
2045年の東京。
技術は進化した。
だが、人の心は――
何も変わっていない。
俺は、会社へ向かって歩き出した。
背中に、見えない重荷を背負いながら。




