エピローグ あの水に、もう一度キスを
あの日から、三度目の夏が来た。
わたし、氷川水乃――十七歳。
あれから一度も、あの井戸には近づいていない。
神社も今は母が守っていて、わたしは町を離れ、水泳の推薦で高校へ進学した。
もう、子供じゃない。
身体も心も、きちんと育ったって、自分でわかる。
*
プールサイドに立つと、観客の視線が一斉に集まるのがわかる。
わたしの身体は、今や誰よりも「水と調和した」ものとして知られていた。
細く長い手足に、無駄のない筋肉のライン。
しなやかな腰つきと、競泳用水着の上からでもわかる丸みを帯びた胸。
うなじから背中にかけてのラインは、水面を滑るたびに淡い光をまとって揺れる。
髪は肩甲骨まで伸ばしたまま、軽くウェーブがかかっていて、濡れると藍色に染まる。
白く透き通るような肌と相まって、よく“水の精霊みたいだ”って言われるけど、ほんとうは……ただ、
「彼が好きだって言ってくれた自分」でいたいだけなんだ。
「氷川、水乃選手――全国女子200m自由形、準決勝、入場!」
コールと同時に、スタート台へ向かう。
――そのとき。
「……ミズノ、さん?」
観客席から、誰かがわたしの名前を呼んだ。
――フルネームじゃない。
あの夏のように、やさしく、まっすぐに。
わたしは振り向いた。
そこにいたのは――
風に髪をなびかせ、あの日と同じ瞳の色をした、青年だった。
神永くん。
でも、どうして――?
彼は微笑んだ。
ゆっくり、右手を胸に当てて、唇だけを動かした。
『さよなら、しに来たんじゃない。君を、迎えに来た』
その瞬間、心の奥にしまっていた“記憶”が、水しぶきのように弾けた。
井戸の声。
キスの温度。
そして――彼の涙。
全てが、あふれた。
*
レースのあと、控え室で着替えもせずに飛び出してしまった。
でも、気づいたら、もう彼はすぐ目の前にいて。
息が切れるほど走ったのに、彼は少しも変わらず、そこに立っていた。
「来てくれたの……ほんとに、戻ってきてくれたの……?」
「君が、生きる未来を選んでくれたから。
だから俺も――ずっと探してた。会える日を、ずっと」
涙があふれて、どうしようもなかった。
「……あのとき、好きだって、ちゃんと伝えたのに。
まだ、足りなかったの。
ずっとあなたに……ふれてほしかった……」
彼がそっと、わたしの頬に触れる。
あの時と同じ、冷たくて、優しい指先。
わたしはもう迷わない。
この体も、この心も――すべて、彼に捧げたい。
「ねえ、今度は、“さよなら”じゃなくて……“おかえりのキス”がしたい」
「……うん」
ホテルの部屋。
薄明かりのカーテン越しに、夜の街が滲んでいる。
制服のまま抱きしめられた身体が、熱を帯びていく。
彼の手が、そっとわたしの背中から腰を撫でて、
ゆっくりと制服のボタンが外される。
「……すごい、変わったね、水乃」
「やだ、見ないで……」
「……でも、綺麗。ほんとに」
その言葉だけで、すべてが報われた気がした。
彼の唇が鎖骨に触れたとき、
わたしの心も、体も、すべてが溶けてひとつになっていくのを感じた。
初めてを、こんなにあたたかく、こんなに優しくしてくれるなんて――
「好き……だよ。心も、体も、全部。あなたにあげたいの」
重なり合った鼓動が、水の波紋のように広がって、
あの夏よりも、もっと深く――ふたりはひとつになった。
*
朝。
ベッドの中、彼の胸に抱かれて目を覚ます。
「……もう、消えたりしない?」
「しないよ。ずっと一緒にいる。今度こそ、最後まで」
私は静かに微笑んだ。
この腕の中こそが、わたしの“還る水”なのだと。
恋は、水より深い。
だから、きっとどこへでも流れてゆける――
たとえ神様さえ知らない、未来の先まで。