表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

2/2

エピローグ あの水に、もう一度キスを

あの日から、三度目の夏が来た。


わたし、氷川水乃――十七歳。

あれから一度も、あの井戸には近づいていない。

神社も今は母が守っていて、わたしは町を離れ、水泳の推薦で高校へ進学した。

もう、子供じゃない。

身体も心も、きちんと育ったって、自分でわかる。



プールサイドに立つと、観客の視線が一斉に集まるのがわかる。

わたしの身体は、今や誰よりも「水と調和した」ものとして知られていた。


細く長い手足に、無駄のない筋肉のライン。

しなやかな腰つきと、競泳用水着の上からでもわかる丸みを帯びた胸。

うなじから背中にかけてのラインは、水面を滑るたびに淡い光をまとって揺れる。


髪は肩甲骨まで伸ばしたまま、軽くウェーブがかかっていて、濡れると藍色に染まる。

白く透き通るような肌と相まって、よく“水の精霊みたいだ”って言われるけど、ほんとうは……ただ、

「彼が好きだって言ってくれた自分」でいたいだけなんだ。


「氷川、水乃選手――全国女子200m自由形、準決勝、入場!」


コールと同時に、スタート台へ向かう。

――そのとき。


「……ミズノ、さん?」


観客席から、誰かがわたしの名前を呼んだ。

――フルネームじゃない。

あの夏のように、やさしく、まっすぐに。


わたしは振り向いた。

そこにいたのは――

風に髪をなびかせ、あの日と同じ瞳の色をした、青年だった。


神永くん。


でも、どうして――?


彼は微笑んだ。

ゆっくり、右手を胸に当てて、唇だけを動かした。


『さよなら、しに来たんじゃない。君を、迎えに来た』


その瞬間、心の奥にしまっていた“記憶”が、水しぶきのように弾けた。


井戸の声。

キスの温度。

そして――彼の涙。


全てが、あふれた。



レースのあと、控え室で着替えもせずに飛び出してしまった。

でも、気づいたら、もう彼はすぐ目の前にいて。

息が切れるほど走ったのに、彼は少しも変わらず、そこに立っていた。


「来てくれたの……ほんとに、戻ってきてくれたの……?」


「君が、生きる未来を選んでくれたから。

 だから俺も――ずっと探してた。会える日を、ずっと」


涙があふれて、どうしようもなかった。


「……あのとき、好きだって、ちゃんと伝えたのに。

 まだ、足りなかったの。

 ずっとあなたに……ふれてほしかった……」


彼がそっと、わたしの頬に触れる。

あの時と同じ、冷たくて、優しい指先。

わたしはもう迷わない。

この体も、この心も――すべて、彼に捧げたい。


「ねえ、今度は、“さよなら”じゃなくて……“おかえりのキス”がしたい」


「……うん」


ホテルの部屋。

薄明かりのカーテン越しに、夜の街が滲んでいる。


制服のまま抱きしめられた身体が、熱を帯びていく。

彼の手が、そっとわたしの背中から腰を撫でて、

ゆっくりと制服のボタンが外される。


「……すごい、変わったね、水乃」


「やだ、見ないで……」


「……でも、綺麗。ほんとに」


その言葉だけで、すべてが報われた気がした。

彼の唇が鎖骨に触れたとき、

わたしの心も、体も、すべてが溶けてひとつになっていくのを感じた。


初めてを、こんなにあたたかく、こんなに優しくしてくれるなんて――


「好き……だよ。心も、体も、全部。あなたにあげたいの」


重なり合った鼓動が、水の波紋のように広がって、

あの夏よりも、もっと深く――ふたりはひとつになった。



朝。

ベッドの中、彼の胸に抱かれて目を覚ます。


「……もう、消えたりしない?」


「しないよ。ずっと一緒にいる。今度こそ、最後まで」


私は静かに微笑んだ。

この腕の中こそが、わたしの“還る水”なのだと。


恋は、水より深い。

だから、きっとどこへでも流れてゆける――

たとえ神様さえ知らない、未来の先まで。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ