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『水神様に、さよならのキスを』

第一話 はじめて、名前を呼ばれた日


蝉の声が、ひどく遠くに聞こえていた。

それなのに、私の頬を伝う汗は、いやに生々しくて。

まるでさっきまで、誰かに見られていたような……そんな気がした。


「……っ、やだな、また、あれ……」


鳥居の影に隠れて、私はそっと首筋に手を当てた。冷たい指先が、じんわりと火照った皮膚を撫でる。



私は氷川水乃。十四歳。

この町でいちばん古い神社――氷川神社の娘として生まれて、ずっとここで暮らしている。


細身なのに肩幅がすっとしてるから、よく「巫女さんっぽい」って言われる。

髪は黒……というより、濡れ羽色って言った方が近いのかもしれない。水に濡れたみたいに艶があって、陽射しの角度で、青く光ることもある。


鏡を見るたび、自分で少し不思議な気持ちになるんだ。

「私って、ほんとに生きてるのかな」って。


目元は母譲りで切れ長。だから無表情だとよく「怒ってる?」って訊かれるけど、そんなことない。

私は、ただ静かでいたいだけ。……神社の娘って、そういうものだと思ってた。


でも、今日。

教室の窓から見えたのは、まるで風そのものみたいに髪を揺らす――転校生の男の子だった。


彼が、神永くん。

最初に目が合った瞬間から、私は知っていた。


この人、たぶん……「あれ」を、知ってる。


「氷川さんって、変な夢とか、見ない?」


帰り道、いきなりそんなことを聞かれた。

誰にも話したことのない、あの夢のことを。


境内の井戸のそばで、水の底から声がする。

“ミズノ、おまえは、さよならを知らない――”


私はぎゅっと唇を噛んで、彼の顔を見つめ返した。


彼の目は、深くて……青くて。

あの夢と、同じ色をしていた。



制服のブラウスが、胸のあたりでふわりと風をはらむ。

まだまだ成長途中の体なのに、形がやたらとはっきりしてて、毎年のようにおばあちゃんに「神様の加護を受けすぎたのかねぇ」と言われる。


いやだな、って思う。

女の子らしい身体なんて、いまはまだ……あんまり嬉しくない。


でも、神永くんは違った。


「……きれいだよ、氷川さんって。なにかに、似てるって思ったんだ。……水。」


そう言って、私の耳に触れた彼の指が、

まるで――水神様の息吹みたいに、冷たくて、優しかった。


(ねえ、水神様。私、恋しても……いい?)


私の中で、なにかが目を覚ました気がした。

それが夢か現実かも、わからないまま。


――この夏、私は「さよなら」を覚える。


ーーー


第二話 水の底に、あなたの声が落ちていく


ねぇ、神永くん。

今日も、私のこと見てた?

……だったら、嬉しいって思ってしまう私って、ちょっとずるいのかな。



夕立が過ぎたあとの空は、どこか空っぽで、

そのくせ、胸の奥をきゅうっと掴んでくるみたいだった。


「氷川さんって……さ、水、好きなんでしょ」


不意に言われて、私はびくっと肩を揺らした。

それ、どうして知ってるの?


私の秘密――誰にも話してない。

井戸の底に向かって、毎晩「おやすみ」って呟いてることも。

水の音を聞いていると、心が落ち着くどころか、逆に……震えるってことも。


でも、神永くんは、そんな私の全部を、

まるで見透かしたような目で見てくる。


「昨日ね、夢を見たんだ。君が、水の中で泣いてた夢。

 指先が冷たくて、唇が紫色になってて……それでも、微笑んでて。

 起きたら涙が出てて……わけわかんなくてさ」


「……それ、本当に夢だったの?」


声が震えたのは、雷の音のせいじゃない。

私の中の“なにか”が、神永くんに反応した。

言葉にならない“呼び声”が、胸の奥で鳴ってる。


ふいに、彼が手を伸ばしてきた。


「触っても、いい?」


「……うん」


それは、私の右手だった。

冷たくなっていた指先を、彼の体温がやさしく包み込む。


「……やっぱり、水みたいだ」


「私って……そんなに、変かな」


「変じゃないよ。……きれいだって、思ってる。最初から」


くちびるの奥が、きゅうっと痛くなった。

鼓動が耳の奥で跳ねて、息が浅くなる。

わたし、なにこの感じ……?


そんなときだった。

神社の裏手、井戸のほうから――水のはねる音が、した。


ぱしゃ……ぱしゃ……って。

雨は止んでいたのに。


私は神永くんの手をぎゅっと握った。


「……行っちゃだめ。あそこは、神様の場所だから」


彼は少しだけ困ったように笑った。

でも、優しくうなずいてくれた。


「わかった。氷川さんが、そう言うなら」


彼のその声が、妙に甘くて、あたたかくて。

なのに、どうしてだろう――背筋が、すぅっと冷たくなったのは。



夜。

お風呂あがりに鏡を見て、びっくりした。


胸が……昨日より、ふくらんでた。

輪郭がはっきりして、指先でなぞると、ドキドキが止まらなくなる。

夏のせい? それとも――恋をしてるせい?


唇の色も、少し濃くなった気がする。

鏡の中の私は、もう“子ども”じゃなくて。


……もしかして、神様が、私を“さよなら”させようとしてる?


でも、やだよ。

まだ、神永くんと――キス、してない。


まだ、ちゃんと恋してるって言えてないのに。


だからお願い、水神様。

わたしの願い、叶えてくれるなら――

「このひとと、恋をしたまま、ちゃんと生きていたい」


それが、神様にとって“禁じられた願い”だとしても――


ーーー


第三話 好きだよ、わたしが消える前に


井戸の前に立つと、空気の色が変わったような気がした。

夏の夕暮れは、どうしてこんなに赤いのだろう。

まるで、誰かの最後の願いが、空に滲んでいるみたいだった。


「氷川さん」


背後から呼ばれて、私はゆっくり振り返った。

そこには、神永くんがいた。

白いシャツが風に揺れて、いつもより大人びた表情だった。


「どうして、来たの……ここ、入っちゃだめな場所なのに」


「ごめん。でも、言わなきゃいけないことがあるんだ」


その言葉だけで、胸の奥がざわつく。

言わなきゃいけないって、なに?

どうして、そんな目をしてるの?


神永くんは一歩、近づいてきた。

そして、私の手をとって、そっと握った。


「俺ね、水神様に呼ばれて、この町に来たんだ」


「……え?」


「夢の中で、何度も聞いた。

 “あの子を、さよならさせてくれ”って。

 “水に還す前に、恋を教えてやってくれ”って」


私は、息ができなくなった。

神永くんの声が、遠くに聞こえていく。


「まって……それって……わたしが、“いなくなる”ってこと?」


彼は、何も言わず、目を伏せた。

その沈黙が、なによりも痛かった。



神社に古くから伝わる“水神の契り”。

毎百年、選ばれた娘の魂を、水神に捧げることで、この地は水に恵まれてきた。

ずっと“誰か”が、その役目を果たしてきた。

今回は――私。


「運命とか、因果とか、そんなの全部くそくらえだ」


神永くんが、ぎゅっと私を抱きしめた。

胸の中に、溶けてしまいそうなほど、あたたかくて。

ああ、もう――離れたくない。


「だったら、逃げようよ。私たち、ここから。

 どこでもいい、遠くでも、深くても。

 いっそ、ふたりで水に溶けて、ずっと一緒にいられたら」


「……でも、それは君が消えることになる。

 俺は、それだけは、絶対に嫌なんだ」


沈黙。

水の音がした。井戸の底から、声が響く。


“さよならを、言いなさい――ミズノ”


私は、涙が止まらなかった。


「……どうして? やっと好きになれたのに。

 やっと、人を好きになって、自分のことも好きになれそうだったのに……」


「……俺も。好きだよ、氷川さん。君に会って、はじめて“好き”がわかった」


彼がそっと、私の頬に口づけた。

それは、水のように淡く、炎のように熱く、

命よりも静かな――やさしいキスだった。


ふたりの影が、ゆっくりと、井戸に吸い込まれていく。

まるで、水面に浮かぶ一瞬の幻みたいに。



気がつくと、私は神社の境内にひとり立っていた。

井戸は、もうなかった。

そこには、ただ新しく張り替えられた、白い結界紙だけが風に揺れていた。


「……さよなら、神永くん」


私は微笑んだ。

この胸の中に、あなたがいる限り、私はきっと、ずっと生きていける。


誰かを好きになることは、

ひとを、水より深く変えてしまうものだから。

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