『水神様に、さよならのキスを』
第一話 はじめて、名前を呼ばれた日
蝉の声が、ひどく遠くに聞こえていた。
それなのに、私の頬を伝う汗は、いやに生々しくて。
まるでさっきまで、誰かに見られていたような……そんな気がした。
「……っ、やだな、また、あれ……」
鳥居の影に隠れて、私はそっと首筋に手を当てた。冷たい指先が、じんわりと火照った皮膚を撫でる。
*
私は氷川水乃。十四歳。
この町でいちばん古い神社――氷川神社の娘として生まれて、ずっとここで暮らしている。
細身なのに肩幅がすっとしてるから、よく「巫女さんっぽい」って言われる。
髪は黒……というより、濡れ羽色って言った方が近いのかもしれない。水に濡れたみたいに艶があって、陽射しの角度で、青く光ることもある。
鏡を見るたび、自分で少し不思議な気持ちになるんだ。
「私って、ほんとに生きてるのかな」って。
目元は母譲りで切れ長。だから無表情だとよく「怒ってる?」って訊かれるけど、そんなことない。
私は、ただ静かでいたいだけ。……神社の娘って、そういうものだと思ってた。
でも、今日。
教室の窓から見えたのは、まるで風そのものみたいに髪を揺らす――転校生の男の子だった。
彼が、神永くん。
最初に目が合った瞬間から、私は知っていた。
この人、たぶん……「あれ」を、知ってる。
「氷川さんって、変な夢とか、見ない?」
帰り道、いきなりそんなことを聞かれた。
誰にも話したことのない、あの夢のことを。
境内の井戸のそばで、水の底から声がする。
“ミズノ、おまえは、さよならを知らない――”
私はぎゅっと唇を噛んで、彼の顔を見つめ返した。
彼の目は、深くて……青くて。
あの夢と、同じ色をしていた。
*
制服のブラウスが、胸のあたりでふわりと風をはらむ。
まだまだ成長途中の体なのに、形がやたらとはっきりしてて、毎年のようにおばあちゃんに「神様の加護を受けすぎたのかねぇ」と言われる。
いやだな、って思う。
女の子らしい身体なんて、いまはまだ……あんまり嬉しくない。
でも、神永くんは違った。
「……きれいだよ、氷川さんって。なにかに、似てるって思ったんだ。……水。」
そう言って、私の耳に触れた彼の指が、
まるで――水神様の息吹みたいに、冷たくて、優しかった。
(ねえ、水神様。私、恋しても……いい?)
私の中で、なにかが目を覚ました気がした。
それが夢か現実かも、わからないまま。
――この夏、私は「さよなら」を覚える。
ーーー
第二話 水の底に、あなたの声が落ちていく
ねぇ、神永くん。
今日も、私のこと見てた?
……だったら、嬉しいって思ってしまう私って、ちょっとずるいのかな。
*
夕立が過ぎたあとの空は、どこか空っぽで、
そのくせ、胸の奥をきゅうっと掴んでくるみたいだった。
「氷川さんって……さ、水、好きなんでしょ」
不意に言われて、私はびくっと肩を揺らした。
それ、どうして知ってるの?
私の秘密――誰にも話してない。
井戸の底に向かって、毎晩「おやすみ」って呟いてることも。
水の音を聞いていると、心が落ち着くどころか、逆に……震えるってことも。
でも、神永くんは、そんな私の全部を、
まるで見透かしたような目で見てくる。
「昨日ね、夢を見たんだ。君が、水の中で泣いてた夢。
指先が冷たくて、唇が紫色になってて……それでも、微笑んでて。
起きたら涙が出てて……わけわかんなくてさ」
「……それ、本当に夢だったの?」
声が震えたのは、雷の音のせいじゃない。
私の中の“なにか”が、神永くんに反応した。
言葉にならない“呼び声”が、胸の奥で鳴ってる。
ふいに、彼が手を伸ばしてきた。
「触っても、いい?」
「……うん」
それは、私の右手だった。
冷たくなっていた指先を、彼の体温がやさしく包み込む。
「……やっぱり、水みたいだ」
「私って……そんなに、変かな」
「変じゃないよ。……きれいだって、思ってる。最初から」
くちびるの奥が、きゅうっと痛くなった。
鼓動が耳の奥で跳ねて、息が浅くなる。
わたし、なにこの感じ……?
そんなときだった。
神社の裏手、井戸のほうから――水のはねる音が、した。
ぱしゃ……ぱしゃ……って。
雨は止んでいたのに。
私は神永くんの手をぎゅっと握った。
「……行っちゃだめ。あそこは、神様の場所だから」
彼は少しだけ困ったように笑った。
でも、優しくうなずいてくれた。
「わかった。氷川さんが、そう言うなら」
彼のその声が、妙に甘くて、あたたかくて。
なのに、どうしてだろう――背筋が、すぅっと冷たくなったのは。
*
夜。
お風呂あがりに鏡を見て、びっくりした。
胸が……昨日より、ふくらんでた。
輪郭がはっきりして、指先でなぞると、ドキドキが止まらなくなる。
夏のせい? それとも――恋をしてるせい?
唇の色も、少し濃くなった気がする。
鏡の中の私は、もう“子ども”じゃなくて。
……もしかして、神様が、私を“さよなら”させようとしてる?
でも、やだよ。
まだ、神永くんと――キス、してない。
まだ、ちゃんと恋してるって言えてないのに。
だからお願い、水神様。
わたしの願い、叶えてくれるなら――
「このひとと、恋をしたまま、ちゃんと生きていたい」
それが、神様にとって“禁じられた願い”だとしても――
ーーー
第三話 好きだよ、わたしが消える前に
井戸の前に立つと、空気の色が変わったような気がした。
夏の夕暮れは、どうしてこんなに赤いのだろう。
まるで、誰かの最後の願いが、空に滲んでいるみたいだった。
「氷川さん」
背後から呼ばれて、私はゆっくり振り返った。
そこには、神永くんがいた。
白いシャツが風に揺れて、いつもより大人びた表情だった。
「どうして、来たの……ここ、入っちゃだめな場所なのに」
「ごめん。でも、言わなきゃいけないことがあるんだ」
その言葉だけで、胸の奥がざわつく。
言わなきゃいけないって、なに?
どうして、そんな目をしてるの?
神永くんは一歩、近づいてきた。
そして、私の手をとって、そっと握った。
「俺ね、水神様に呼ばれて、この町に来たんだ」
「……え?」
「夢の中で、何度も聞いた。
“あの子を、さよならさせてくれ”って。
“水に還す前に、恋を教えてやってくれ”って」
私は、息ができなくなった。
神永くんの声が、遠くに聞こえていく。
「まって……それって……わたしが、“いなくなる”ってこと?」
彼は、何も言わず、目を伏せた。
その沈黙が、なによりも痛かった。
*
神社に古くから伝わる“水神の契り”。
毎百年、選ばれた娘の魂を、水神に捧げることで、この地は水に恵まれてきた。
ずっと“誰か”が、その役目を果たしてきた。
今回は――私。
「運命とか、因果とか、そんなの全部くそくらえだ」
神永くんが、ぎゅっと私を抱きしめた。
胸の中に、溶けてしまいそうなほど、あたたかくて。
ああ、もう――離れたくない。
「だったら、逃げようよ。私たち、ここから。
どこでもいい、遠くでも、深くても。
いっそ、ふたりで水に溶けて、ずっと一緒にいられたら」
「……でも、それは君が消えることになる。
俺は、それだけは、絶対に嫌なんだ」
沈黙。
水の音がした。井戸の底から、声が響く。
“さよならを、言いなさい――ミズノ”
私は、涙が止まらなかった。
「……どうして? やっと好きになれたのに。
やっと、人を好きになって、自分のことも好きになれそうだったのに……」
「……俺も。好きだよ、氷川さん。君に会って、はじめて“好き”がわかった」
彼がそっと、私の頬に口づけた。
それは、水のように淡く、炎のように熱く、
命よりも静かな――やさしいキスだった。
ふたりの影が、ゆっくりと、井戸に吸い込まれていく。
まるで、水面に浮かぶ一瞬の幻みたいに。
*
気がつくと、私は神社の境内にひとり立っていた。
井戸は、もうなかった。
そこには、ただ新しく張り替えられた、白い結界紙だけが風に揺れていた。
「……さよなら、神永くん」
私は微笑んだ。
この胸の中に、あなたがいる限り、私はきっと、ずっと生きていける。
誰かを好きになることは、
ひとを、水より深く変えてしまうものだから。