第14話:冷たい風と守る影
春の朝、窓の外では桜が風に揺れ、花びらが雪のように舞っていた。俺は珍しく千陽の気配を感じず、ベッドから這い出た。
「おい、学校行くぞ。今日は珍しいな? 寝坊したか?」
いつもなら俺の布団に潜り込んでくる千陽が来ない。気になって、隣の家に寄った。
インターホンを押すと、玄関からマスクをした千陽がパジャマ姿で顔を覗かせた。
「ごめん、風邪ひいちゃったみたい。休むね」
ゲホゲホと咳き込み、声が掠れている。
「大丈夫か? どうせ裸で一人遊びでもしたまま寝ちまったんだろ?」
「うん、リュウちゃんの胸の中の興奮をね、ゲホッゲホッ」
「分かった、んな時まで下ネタ言ってねぇで寝てろ。薬は? 医者は?」
「うん。一応薬は一通りあるから大丈夫。後でおじいちゃんが様子見に来るって言うから、熱上がってきたら病院行くよ」
千陽の目はしっかりしてる。鼻声でも、その瞳は曇ってなかった。
「なら帰りに何か買ってきてやるから、欲しいもんあったらメッセージ送ってくれ。母さんも今日はパート休みだから、家でゴロゴロしてるはずだから言っとこうか?」
「ありがとう。でもそこまでしなくて大丈夫だよ。おじいちゃんも朝ドラ見終わったら来るって言ってたし」
「なら、そうするけど。何かあったら頼れよ」
「うん、いってらっしゃい」
千陽に見送られ、一人で学校へ向かう。
いつも隣にいる存在がいない道は、当たり前の登校のはずなのに、妙に寂しい。
桜を散らす風が、冬が戻ってきたかのように冷たく感じた。
心の体感は、親友というカイロを手放したくないんだろう。
そのカイロは使い捨てじゃない。一生使える、火を灯した金属製の年季ものだ。
教室に入ると、冷たい視線が突き刺さった。
千陽がいない席を見た瞬間、男も女も関係なく、なぜか冷たい目が俺に集まる。
人との距離を取ってきた俺は、視線に敏感だ。チラリと横を見ると、みんな何もなかったかのように目を逸らし、元の世界に戻ろうとする。
「休みか?」
「休みみたいだね」
「男女おとこおんなは休みか」
「女なんだか男なんだかはっきりしろよな」
「きっと面白がって男の格好してるんだよ」
「付き合わされる袋田くん、かわいそう」
小さな声の雑音が、心に重く刺さる。
聞かなかったことにできねぇ。無視もできねぇ。
千陽に向けられた悪意は、俺が言われるより許せない。
怒りが化学反応みたいに爆発し、突撃しようとした瞬間、ブレザーの裾を小さな影がガッツリ掴んだ。
「我は汝と戯れる、来てやったぞ。喜ぶが良い」
ゴスロリに改造したブレザーを羽織るミーが、お洒落眼帯を外した。オッドアイの瞳が、ふざけた言葉とは裏腹に強く俺を見据える。
「はぁ? 今、それどころじゃねぇんだよ! あいつらが千陽の陰口を!」
「陰口など下世話な下等生物がすること。崇高なる吸血鬼の一族は、そんな者を相手にせんぞ。汚れる」
ミーの声は小さくても、教室中に響き渡った。雑音が一気に静まり返る。
「あっ、やっぱりこっち来てた。リュウちゃん、おはよ。ほら、ミーちゃん、昔じゃないんだから、チーちゃんのことで殴りかかるほど子供じゃないって」
美少女姿の男の娘、ヒロが微笑みながら現れた。
「下僕はチー子の事となると見境がなくなるからの」
「ちょっと、お前、何言ってんだ?」
神峰時見と磐城広巳の言葉が妙に引っかかった。
「あ~やっぱり覚えてないよね。あれだけの大立ち回りして、次の日寝込んだんだもん。なんか噂が聞こえてきて、ミーちゃんが様子見たいって教室出てっちゃって、慌てて追いかけてきたんだから」
「ちょっと、ヒロ。お前、何言ってんだ?」
「そのことはリュウちゃんが思い出さない方が良いって。それより、陰口しか叩けない奴なんて、便所の落書きと一緒だよ。SNSでイキってる奴らが、名誉毀損で訴えられるのと同じ。リュウちゃんが相手する価値ねぇって」
ヒロの大きな声が教室に響き、雑音を圧倒した。こそこそ陰口を言う奴らより、明らかに男らしい。
「下僕よ、主の命に背いて戦いをするなど、我が許さんぞ。謀反は重罪ぞ」
ミーが言い残し、教室を出て行く。
「子供の頃は許されたけど、今は高校生。大人と子供の間なんだよ。だから、もう暴力はダメ」
ヒロが耳元で優しく呟き、耳がこそばゆかった。
「ふーーーっ」
「バカ、お前何すんだよ!」
「その顔ならもう大丈夫だね」
微笑むヒロも、ミーに続いて出て行った。
静まり返った教室の空気は最悪だ。
俺を異世界の住人として反発してるみたいだ。千陽と俺を、ヒロとミーも異者として見てるかのよう。
休み時間ごとにヒロが顔を出し、微笑みをくれる。昼休み、教室を出ると、待ってましたとばかりに手招きしてきた。
「こっちこっち」
「んだよ?」
「また一人になると荒ぶる眷獣になっちゃうから、監視役です」
「どっかの始祖と一緒にすんな。槍持ってくんなよ」
「あははっ、通じて良かった。ねぇ、一緒にご飯食べようよ。僕たち文芸部で部室使えるんだ」
「ん? 先輩とかは?」
「大丈夫。一人いるけど、ミーのお姉ちゃんだから。ほとんど来ないよ。来ても人畜無害、自分の世界に入り込んでるし」
そんな文芸部が存続してるのが不思議だったが、すぐに疑問は消えた。
「ミーのお姉ちゃんは現役高校生ライトノベル作家なんだよ」
文芸部へ向かう廊下で、ヒロが語り始めた。
「ん? あれか、WEB作家とかの意味か?」
昨今、小説投稿サイトで誰でも作家になれる。ライトノベル好きなら憧れる世界だ。
「元々はWEB投稿してたんだけど、コンテストで受賞して商業デビューしてるから、学校も大目に見てるんだ。茨城を舞台にしたライトノベル書いてて、観光PRに貢献してるから。内緒だけど、市の観光PR大使の打診も来てるよ」
「へ~、んな作品あったんだ。青春ラブコメばかり読んでるから気づかなかった」
文芸部は、少子化で使われなくなった教室を簡易な壁で仕切った部屋だった。
本棚には、図書室には並ばなそうな長ったらしいタイトルのライトノベルが並ぶ。
下ネタ満載や、パンツ一枚で全裸の少女が表紙の作品が、これ見よがしに飾られていた。
そっちに目が行くと、
「下僕はパンツを欲しているのか?」
窓際じゃなく、廊下側の暗い席に座るミーに声をかけられ、ビビった。
「太陽の光に当たると灰になる」
「どうやって学校来たんだよ!」
「まぁまぁ、ご飯食べないとお昼休み終わっちゃうよ」
ヒロがツッコミ役だな。
「まぁ、うざったい視線も雑音もないから、ここで食わせてもらうよ」
日当たりの良い席で母さんの弁当を広げると、ミーは赤いリボンの猫キャラ弁当箱を、ヒロはガテン系の大弁当を開けた。
「いただきます」と可愛く手を合わせるヒロ。一口が意外と大きい。その光景に懐かしさを感じ、見入ってしまった。
「意外かな?」
「ん?」
「大食いなの」
「いや、それより既視感ってやつが…」
痩せの大食い、美少女の大食い。今じゃ珍しくない。ヒロは男だし、食べ盛りかもしんねぇ。
でも、大きな弁当と一口に、何か引っかかる。
「下僕は幾万年も寝過ぎて、その様な事も忘れたのか?」
「幾万年も寝てたら原人だろ。恐竜だって生きてそうだな」
「はははっ」と軽く笑うヒロ。
「幼稚園の頃も4人グループ席で食べてたんだよ」
「そうだっけ? なら千陽もくれば揃うな」
「今日はどうしたの?」
「風邪だ。朝見てきたけど、大したことねぇんじゃないかな。帰りにも見に行くけど」
「あの頃みたいだね。チーちゃんは風邪ひきさんだったから」
「そうだったっけ?」
「もう、チーちゃんのことくらいちゃんと覚えてないとダ目じゃん」
野山を泥だらけで走り回った記憶の方が強い。
しゃべりながら大きな一口を進めるヒロと、咀嚼中は静かなミーが可愛かった。
弁当を食べてお茶を飲むと、
「雑音が五月蠅かったら、ここを使えば良いのだ。蝿など構ってるから勇者はルシファーに連れて行かれたのだ」
「はい?」
聞き返すと、ミーは咀嚼して静かになる。
「リュウちゃん、僕らは慣れてるけど、人の目って煩わしいよね。昨日のこと、噂で聞いたよ。僕も何気にあるんだよね、同性の告白。でも、僕、女の子好きだし」
「下僕、他の女と契約を結んだら、全身の血を飲み干してやる」
千陽が箸をバシッと置き、興奮気味に言う。
「はいはい、御主人様。僕はいつまでも下僕ですから。それより早く食べましょうね。食べるの遅いんだから」
「ん? もしかして2人付き合ってんのか?」
「そのような下々の言葉を使うな。魂で結ばれているのだ」
「分かったから早く食えよ、ミーちゃん。リュウちゃん、昼はここに来ると良いよ。僕たちいつもここだよ」
「2人で過ごす楽しいランチに邪魔してねぇか?」
「ううん、良いの。ずっと2人だったから。でも、4人に戻れるかな? その方が楽しいし、約束もしてたじゃん」
「地獄から帰ってきた漆黒の勇者と共に」
ん? 大切なワードが出てきた気がして聞き返そうとしたが、ミーに話の腰を折られた。
「ミーは静かに飯食ってろ」
なかなか減らない弁当のゴスロリ娘に、ヒロと一緒に苦笑い。
「リュウちゃんさ、朝、殴りかかろうとしたでしょ? チーちゃん、そんなん聞いたら悲しむと思うよ。またかって」
「なぁ、俺の欠落してる記憶に何かあるのか?」
「忘れたなら忘れてた方が良いことだってあるよ」
「異世界転移するときにバグったのだろう、下僕は」
ヒロがミーを急かし、「あと5分だよ」と言う。
「なんかよく思い出せねぇけど、まぁ、つまんねぇの殴って退学になったら、海外からわざわざ帰国して同じ高校に来た千陽に顔向けできねぇからな。雑音避けに使わせてもらうか。今朝のことは内緒にしといてくれ」
「うん、分かってるよ。黙っとくのが良いこともあるしね」
「凍る時の部屋で飯…」
「ミーちゃん、時間止まってないからね」
上品に小さな弁当をゆっくり食べるミーを急かす大食い美少女。懐かしいやり取りが、怒りを忘れさせてくれた。
放課後、電車の中から千陽にメッセージを送る。
『調子どうだ? 何か買ってくか?』
すぐに既読になり、
『うん、大丈夫。熱も下がったし、買い出しもおじいちゃんおばあちゃんがしてくれたから』
『まぁ、帰り寄る』
『俺の顔見られなくて一日寂しかったんでしょ?』
『バ~カ』
千陽の家に寄り、インターホンを鳴らすと、
「あっ、ごめん。今出られない。鍵開いてるはずだから」
中から返事が来たので上がった。
千陽の部屋に行くと、
「うんしょっ、とにかく汗で張り付いて脱ぎづらくて。思ったよりリュウちゃん早いし、着替えの途中だよ」
汗で湿ったシャツを脱ごうとバンザイしてる。ぴったり張り付いた裾が丸まり、引っかかって上手く脱げない。
「ほれ、貸してみろ。前向くなよ」
「うっ、うん…」
背中に張り付いたシャツを、脇腹の裾をグイグイ持ち上げた。
「キャッ!」
珍しい悲鳴。
「お、おい! 何だよ、変な声出すなよ!」
「はははっ、ごめんごめん。脇腹が性感帯らしい」
「とにかく、こんな時に性感帯とか言うなよ。くすぐったかったで誤魔化せよな」
脱がすと、綺麗な背中が前屈みに。用意してあるシャツを手にする千陽。
「待て待て、ちょっと待ってろ。拭いてやるから。タオル脱衣所だよな?」
「え? 良いよ。あとでシャワー浴びるから。もしかして臭う?」
「全然、臭いとかじゃなくて。汗拭かねぇと冷たくなるだろ。治り遅くなる」
千陽の体臭、秘密だが好きだ。今日はその匂いが強い。黙っとこう。
「あ~ごめんごめん。風邪ひいたの久々で、昔はよくひいてたんだけどね」
脱衣所からタオルを取って戻ると、千陽はベッドで背を向けて正座で待ってた。
「拭くからな。変な声出すなよ」
「ははっ、感じたら出しちゃうよ」
「バ~カ。病気の時くらい下ネタから離れろ」
背中の汗を拭き取ると、
「前の汗も拭いてくれないかな?」
「そんなに拭いてほしいなら拭いてやるぞ」
いつも俺をからかう千陽に勝つなら今だ。
「ごめん、自分で拭く」
後ろ手にタオルを取り、前を素早く拭いてシャツとパジャマを着た。
「汗臭くない?」
「病人が気にすることじゃねぇさ。ってか、臭くねぇから安心しろ」
臭くなんかない。千陽の部屋は心地よい甘い匂いに包まれてる。
「うん、ありがとう」
「飯は? スポドリは? 薬は?」
「おばあちゃんも来てくれたから冷蔵庫に入ってるよ。昼もちゃんと食べた。一眠りしたら汗でビショビショになって、着替えてる最中だった。昔も風邪ひきの時、心配して来てくれたよね」
「そこまでは覚えてねぇな」
「リュウちゃんは昔のことみんな忘れちゃう質なのかな?」
「さぁ、どうなんだろ? なんでもかんでも覚えてる方がすげぇって。記憶は上書き保存だよ」
「私はリュウちゃんのことは別フォルダーにして大切に保存してるけどね」
今日の千陽は少しお淑やかに見えた。風邪で弱ってるからか?
「ミーもヒロも脳内キャパシティーに余裕あるんだろうな。俺、昔なんかやらかしたらしいじゃん。それ覚えてるみたいだし」
千陽が目を大きく見開き、ゴソッと起き上がって俺の両肩をガシッと掴んだ。
「学校で何かあったの? 何かしたの?」
「何もしてねぇし、何もなかったよ。ヒロ達に昼飯誘われて一緒に食った。そん時に少し昔話が出て」
あのことはわざわざ耳に入れる必要ねぇだろ。
「ほんと? ほんとだよね?」
「どうした? 千陽?」
「ううん、なんでもない」
再び横になり、静かに目を閉じる千陽。
「今なら襲えるよ」
「良い塩味してそうだな」
「俺、鮎の塩焼きじゃねぇし」
「焼かれる前の塩ふった鮎」
「女の子はしょっぱくねぇからね」
「いや、男も塩味はしねぇだろ?」
「汗かいたらしねぇかな?」
「なら女の子だって塩味だろ?」
「女の子は砂糖水が出るの」
「それ異世界のエルフかサキュバスか?」
「試してみねぇ? 味見」
「やめとく」
「そっか、そうだよね」
「今日の千陽、いつも以上に変だぞ」
「だよね」
布団で顔を隠す千陽が妙に可愛かった。
しばらく黙ってベッド脇に座ってると、寝息が聞こえてきた。
枕元に風邪薬のゴミがある。薬で眠くなったんだろう。
『何かあったら電話しろ』とメモを残し、家に帰った。
リビングでテレビを見てた滝音が、
「彼氏さん、どうだった?」
「お前、なんか勘違いしてるって」
「大丈夫、男同士のラブありだと思うよ」
目をキラキラさせて言う。
「お前、もしかして腐ってんのか?」
「失礼しちゃう。妹として兄がどんな恋愛しようと応援してあげようと思ってたのに」
テレビを消して、バタバタと二階に逃げてった。
お前、壮大な勘違いしてるな。
誤解を解こうとしたが、夕飯に珍しく両親が揃ってて、腐女子疑惑の話はできなかった。




