第13話:涙の嵐と癒しの風
教室の喧騒が遠くに響き、窓の外では春の風が桜の花びらを舞わせていた。千陽の言葉が、静かな茶の間に重く響いた。
「授業中、手紙回ってきたの気づいた?」
こたつの中で、千陽の足が俺の足にそっと触れた。その冷たさが、彼女の声の震えと重なる。
「手紙? 女子が好きなあれか。懐かしい遊びだな。まだやってるのか?」
「だよね。スマホでいいもんね」
その一言と、うつむいた瞳に宿る影。楽しげな手紙じゃないことは、すぐに分かった。
千陽の指が昆布茶のカップを握り、微かに震えている。俺は干し芋を一口かじり、静かに待った。
「悪口でも書いてあったのか?」
内容を聞き出そうと問いかけると、千陽は首を振った。冷めた作り笑いが一瞬浮かび、すぐに消える。
「むしろ、その方が良かったんだけどね。キモいとか書かれてた方が」
「あぁ、なんとなく察した。女の告白か?」
コクリと静かに頷くと、千陽の目から涙がぽたりと落ちた。こたつの上に広がる水滴が、春の雨のように儚い。
「断られる方も辛いだろうけど、断る方も辛いんだよ。憧れるんだろうね、『お姉様』みたいな存在に。女性向けの漫画雑誌って、そういうの多いし」
「宝塚に入れそうだもんな、千陽なら。もちろん男役で」
「はははっ、やっぱり男役か」
千陽が小さく笑うが、その声はすぐに途切れた。
「でね、違うクラスの女の子が、同じクラスの子を通して告白してきたの。『付き合ってください』って。俺にはさ、そういう同性との願望ってないんだよ。だから、ちゃんと『ごめんなさい』って断ったんだけど…その子、泣き出しちゃって。やっぱ、真面目に告白してきた子のそういう姿見ると、心が痛いよね」
「俺には男も女も告白されたことないから、分かんねぇ経験だな。まぁ、男には告白されたくねぇけど」
昆布茶をゴクリと飲み、千陽がジッと見つめてきた。
「バ~カ、鈍感主人公」
「千陽の物語の主人公はお前だろ?」
「俺の物語の主人公はリュウちゃんだよ」
「だったら、チート能力持つ主人公になりてぇよ」
「パンツを奪い取る魔法とか?」
「あいつはチートじゃねぇな。そんな冗談言えるなら大丈夫だな?」
「……うん」
声が小さく、千陽の瞳が再び曇る。
俺は肩に手を回し、ぎゅっと抱きしめた。
その瞬間、千陽の中で堪えていたダムが決壊したように、ワンワンと泣き声が響いた。
「仕方ねぇな。親友として付き合ってやるよ」
1時間も泣き続け、俺のシャツをぐしょぐしょに濡らした。
「冷たい」
「自分の涙だろ」
「リュウちゃんにこすりつける体液」
「バ~カ」
にへっと笑う千陽。少しすっきりしたようだ。
冷めた昆布茶を飲み干し、千陽が語り始めた。
「小学校高学年の頃からよくあるんだ、こういうの」
俺の知らない海外での学校生活。
「海外でもあるのか?」
「むしろ海外だからこそじゃないかな。日本より同性愛って一般的だし」
「そうなんだ…」
「俺さ、こんなんだから女の子に好きになられちゃうんだよね。もう、それは認めるよ。今まで何回もあったし、過ぎたる謙遜は嫌味でしかないのも分かってる。みんな、百合に憧れる年頃なのかもしれないし」
女からの告白。自慢にしか聞こえないが、千陽の心はちゃんと女だ。俺はそれを知ってる。
そう口にすれば、何かを失い、何か新しい物語が始まるかもしれない。
でも、9年の空白を埋めるには日が浅すぎる。せっかく戻ってきた親友を失う言葉にはできない。
「『好きです』って言われるたびに、ちゃんと誠心誠意断ってたんだけどね。ある日、突然、誰も声かけてこなくなったの。男も女も」
「海外でもあるのか? いじめ?」
「うん。断った女の子が『もて遊んだだけ』とか好き放題に噂流してさ」
「それを信じる奴らはクソだな」
「やっぱり外国人って壁がもともとあったから、余計にね」
千陽の声が震え、遠い記憶が彼女を飲み込むようだった。
「で、高校は日本に? でも、よく同じ学校になれたな?」
「やっぱり聞いてなかったんだ? おばさんに手紙で聞いたもん」
「え?」
「リュウちゃん、絶賛反抗期で、おばさんと話さなかった期間だったみたいだよ。愚痴が書かれた手紙返ってきたもん。で、高校はどこに進学予定かって教えてくれたんだ。意外に偏差値高いとこ選ぶから大変だったんだから。帰国子女枠なかったら絶対無理だったよ」
確かに、俺にも滝音みたいな時期があった。
家族と距離を取った時期。何かがむず痒く、苛立ち、原因不明のイライラで両親と口をきかなかった。
一日中声帯が休む日もあった。あの苛立ちを説明しろと言われても難しい。
中学2年から3年秋までの短い期間。それが思春期だ。
残念ながら思春期症候群には巻き込まれなかった。巻き込まれてたら、誰かと親友になれたのか?
千陽は助けに来てくれたのか?
「狙って来たとは、お見それしました」
「ふふふっ、何それ。でも帰ってきて良かったかな。リュウちゃんはリュウちゃんだったし、ヒロミちゃんとトッキーにも再会できたし」
「俺は千陽が変態行為さえしなけりゃ、女だろうと男だろうと気にしねぇけどな」
「したくなっちゃうんだもん、しょうがないじゃん」
「何でなんだよ?」
「刷り込み?」
「あれか? 鳥が卵から出て初めて見た物を親だと思う現象か?」
「かな? はははっ、違うんだろうけどね。すごく安心するし、必要なの。ねぇ、一緒にお風呂入らない?」
にまっと歯を見せる千陽。腫れた目は心を読めなかった。
「ちゃんとタオル巻くからさ。あっ、スクール水着着るよ」
「男物じゃねぇよな?」
「うっ、バレたか! って持ってないからね、男物。あっ、スクール水着自体持ってないや。青春ラブコメを愛するリュウちゃんのために買った方が良いかな?」
「無駄遣いすんなよ。スクール水着は幼児体型だから似合う。千陽なら足を強調するハイレグが似合いそうだな。エナメル素材とか。って、寂しいなら特別だ。今日は風呂の外で待っててやるよ。入ってこい」
「え~、特別なら一緒に入ったって良いじゃん。学校で言わないからって言っても無理なんだろうね。ごめん、脱衣所にはいてて欲しいかな…」
「あぁ、いてやるからしっかり温まってこい」
風呂に入った千陽。シャワーの音がやたら長く響いた。
その音に混じって、泣き声が消えなかった。
ワンワンと大声で叫びながら泣いてる。隣の家に聞こえるくらいだ。
今日の告白が、隠されていた心の傷を抉ったんだろう。
春の嵐のような涙が降り続き、いくら泣いても足りない。
俺は脱衣所のドア越しに呟いた。
「ここにいるから、好きなだけ泣け」
聞こえてるか分からない。でも、伝えたい。
しばらくして、シャワーの音が止まり、ドアが開いた。
すっぽんぽんで腰に手を当て、丸出しで出てきた千陽。いつもの彼女に戻ってる。
肌を弾く水滴が流れ落ちる。もう涙じゃないだろう。
引き締まった長い手足、ピンクの乳首。素直に綺麗だ。
「おっ、俺の裸にやっと興味持ってくれたか? 一発する?」
「バ~カ。とにかく少しは恥じらった方が萌えだっちゅうねん」
「なら、股間だけ隠す?」
手を股間に当て、ふざけてポーズを取る。
「湯冷めする前にちゃんと拭け、バカ」
褒めると図に乗るから言わないけど、千陽の裸はエロじゃなく、ただ美しい。
安心して家に帰ると、リビングからプシュッと音がした。
「なんだ、父さんか」
風呂上がりの父さんが、ビールを開けたところだった。
「なんだはないだろ。残業から帰って至福の一杯なのに。お前の方が帰り遅いってどういうことだ? 高校生になったからって夜中までほっつき歩くなんて許さないぞ。ラノベじゃないんだから」
ビールをグビグビ飲む父さんから「ラノベ」の単語が出たことに驚く。
確かにラノベの主人公は小遣い豊富で、ファミレスや遊園地が当たり前。深夜家を抜け出しても補導されない。
「なんだよ? ラノベ読んでるのかよ?」
「いや、夜中の会社帰りにテレビつけるとやってるんだよ。甘い青春ラブコメ。一人ツッコミ入れながら観てる。俺もこんなラブコメしたかったってな」
「そっか」
父さんの青春ラブコメは見たくないな。
「で、何してた? こんな時間まで」
「隣だよ。ほら、千陽んとこ。いろいろあるんだよ。悩み事聞いてた」
父さんがホッと肩を緩め、ビールを喉に流す。
「そっか。隣の二島さんのとこなら仕方ないな。一人暮らしだし、海外帰りだから力になってやれよ。父さんの会社にも帰国組多いからな。子供が馴染まないって話はたまに聞く。遅くなる時は家使いなさい。母さんも二島さんの奥さんと長いから頼まれてるし。それならほっつき歩いてることにはならねぇからな」
「千陽もそうみたい。ちょっと感情爆発してたから、胸貸してやった」
「おっ、おう、胸を…か? ん、うっ…そうか。泣きたい時にそばにいてあげられる親友って良いことだと父さんは思うぞ。泣きたい時、語りたい時に話を聞いてあげられる親友。そういう男になれよ。今だって父さんにも古い仲間がいる。一生の友人、相棒、見つけられると良いな。さて、寝るぞ」
空き缶をゆすいでシンクに置く父さん。意外とマメだ。
「おやすみなさい。体に気をつけてくれよ」
「がははっ、心配すんな。孫見るまでは死なん」
「孫ね? 滝音に期待してくれよ」
自分が誰かと恋愛して結婚するなんて想像できない。期待は妹に譲りたい。
ツンデレで反抗期中の滝音だが、実は可愛い。兄妹のひいき目じゃなく、客観的に。
「あぁ、そうする。父さんはお前がどんな人と恋愛しても応援してやるからな」
その言葉に不思議な重みを感じたが、父さんは寝室に消えた。
~二島千陽~
君は俺にとって誰よりも温かい存在。手放したくない、二度と失いたくない者。
ずっと一緒にいたい、誰にも渡したくない。そんな想いを伝えても、胸を貸してくれるだろうか?
きっと君は警戒するよね。
すぐそばにいるはずの君は、遠く海外にいる家族より遠い。
なのに近い。手の届く距離にいるのに、遠く感じる。
それが9年という「時間」の壁なんだろう。
海外で憧れていた君の方が近かったかな。
夢の中の君は、一緒にお風呂に入り、裸で布団で抱き合ったり。そんなことばかり夢見て、距離はゼロだった。
エッチなことがしたいんじゃない。ただ、君の温もりを直に味わいたい。
俺…私の一方的なギュッじゃなく、君に力一杯ギュッとしてほしい。
どうすればそこまでいけるんだろう? 精一杯頑張ってるのに。
『押しても駄目なら引いてみな』
古臭い恋愛文句がテレビから流れてきた。
攻めすぎたかな。
今までの穴埋めをしたくて、焦りすぎてたのかもしれない。
3年間同じ道を歩むはず。
隣に見える部屋の明かりが消えるまで、私はずっと見続けた。
まるで流星群のような、希望に輝く明かりを。




