きりんと安眠
私の仕事には化粧もおしゃれも必要ない。誰とも会話せずただ、密閉空間で手と足を動かす。それをし続けるだけの仕事だ。
仕事帰りの電車の中では一応の化粧をする。防御用の仮面みたいなものだ。誰に見られても冷たい視線を弾き返せるように。
向かいの席に座るひとたちが、今日はみんな目を閉じていた。中年男性も女性も、女子高生も、みんな生命エネルギーを使い果たしたように、夜を走る窓ガラス越しの風景をバックにして、五人の乗客たちは力の抜けきった顔で眠っている。
女子高生は二人、並んで座っているものの、制服が違うし、座席に距離も空いている。どう見ても知らない同士のようだ。だけど首がお互いのほうへ傾いて、友達のように、今にも仲良くくっつきそう。
中年男性がスーツ姿のおばさんを挟んで座っていた。姿勢よく舟を漕いでいるおばさんを奪い合うように左右からもたれかかっている。肩に二人のおじさんの頭を乗せるようにしながら、おばさんは目を覚ます気配もない。
私は眠れなかった。こちら側の席に並んでいるひとたちも眠っている気配がするのに、まるで私だけが世界で一人だけ眠れないひとのように、起きていた。向かいの席に仲良く眠る五人を微笑ましく見ながら、今夜は眠れるのだろうかと、今から不安を募らせはじめていた。
最近、まったく眠れない。
眠るのが怖い。
誰とも話さず、この世にたった一人だけみたいな人生を今日も続けた。このままの気持ちで一日を終えるのが怖い。
自分は必要とされていると思い込んでいた。物心ついた時から、自分はみんなから愛されていると信じ続けられてきた。恋人ができてからはそれがほんとうだったと確信できるくらいに幸せだった。
彼と別れてからもう7年も経つというのに、今でも眠る時には側に求めてしまう。
あの優しい目で、私が眠りにつくまで、見守っていてほしいと願ってしまう。
きっと今夜も一人じゃ眠れない。
いつになればその日はやって来るのだろう。私はただ草原にぼんやりとたたずむ野良のナニカの動物みたいに、ただこのぼんやりとした苦しみの日々が終わるのを待っている。
向かいの席で眠る五人の乗客を眺めながら、私は彼らが目を開けるのが怖かった。
仲良さそうに眠っているあのひとたちが目を開けたら、途端に知らない者同士の表情になって、離れ離れになってしまうのが怖かった。
あのひとたちが一斉に私のほうを見て、その冷たい視線に無関心が浮かんだら、想像もできないほどの痛みが全身を走り、私はとても席に座っていられないような予感がした。
物真似みたいな男のひとの声で、車内アナウンスが流れた。
──え、間もなく山田。山田でございます。え、降り口は左側となります
みんなここで降りるのだろうか。向かいの席の五人が全員、目を開けた。
幸せだった頃、彼と動物園に行ったことがあった。
確か春だった。ぽかぽかとした陽光の下で、高いところの葉っぱをきりんが首を伸ばして食んでいた。
高くてよく見えないその顔にはこぶや耳や模様が複雑に飛び出しているように見えて、なんだか宇宙からやって来た得体の知れない生物のようだった。
何に興味を引かれたのだろう。やがて私のほうへゆっくりと、まっすぐその顔が降りてきた。
私たちは笑い合った。
きりんの目が、そっくりだったのだ、彼の目に。
優しくて、黒目がおおきくて、まつ毛がバサバサの、その眠たそうな目が、私たちを何の悪意もなさそうに見つめていた。
向かいの席で目を覚ました五人がみんな、あのきりんの目をしていた。眠たそうな、悪意のかけらもない、純粋な目で、私をまっすぐ見つめてきた。
私が思わず顔に無垢な笑いを浮かべると、彼らも眠たそうな目のまま、うっすらと子どものような微笑みを、その顔に浮かべた。
一人の部屋に帰ると、そこにもきりんがいた。
狭い部屋の真ん中でお座りをしていて、私を見るとへらりと笑う。
パジャマに着替えてきりんの胸にもたれかかった。
落ち着く。
今日はぐっすりと、質のいい睡眠が取れそうな気がする。
illustrations by鰯田鰹節さま