バラードをあの子に
客も従業員も帰った後、僕は最後の片づけに取り掛かっていた。
ジャズやブルース、バラードなどの生演奏を聴きながら創作料理が楽しめるレストラン。ピアニストを目指していた僕がピアノを辞めて、小さな町に構えた小さな店だ。
店内が綺麗に整ったのを確認し、薄暗い照明を落とそうとした時だった。いつの間にかフロアに白のロングドレスを着た女性が立っているのに気づいた。
僕は一瞬、心臓が止まるかと思う程驚き、その後辛うじてオーナとしての台詞を口にした。
「えっと、すみません。もう今日は閉店するところなんです」
女性は平然としながら、笑みをたたえて応えた。
「どうやらそうみたいね。でもここに来たかったのよ。ずっと」
女性は店内に視線を巡らしている。その様子を見て、僕の記憶のどこかが反応した。彼女の顔をまじまじと見つめて、聞いた。
「あの、どこかでお会いしましたか?」
彼女は新しく微笑みを作った。
「ええ。丁度去年の今日、ここで歌うはずだったのよ」
「去年の今日?2012年6月12日」
僕は自分で口にした日付にハッとした。その日付をよく覚えていたからだ。僕の出来の悪い脳みそが、その日にまつわる出来事を瞬時に再生した。
歌い手として、同じ町の隅から車で一人訪ねてきた女性。確か39歳と言っていた。小さな子供さんが一人いたはずだ。デモンストレーションで歌ってもらい、すぐに出演の依頼を決めた。けれど演奏日の当日、彼女の乗った車はトラックと正面衝突した。地元の新聞にも悲しいニュースとして小さく掲載された。
「あなたは確か、山中さとみさん」
ここにいるはずのない彼女の名前を呼ぶのはとても不思議だった。頭がふわふわとしていた。けれど一方、その事実をどこか納得する気持ちも僕の中にあった。
「覚えていてくれてありがとう」
彼女の作る微笑みはどこか心地よく、もう僕の馴染みの表情になろうとしていた。
「どうしても今日、歌いたかったの」
淀みのない力強い眼差しで、彼女は言った。
元音楽家の端くれとして(本当に端くれだったんだけど)僕にはそれがとてもよくわかった。
「そうですか。その為にわざわざ戻ってきてくれたんですね」
僕は自然にお辞儀をしていた。彼女へ近づき、そっと優しく彼女の手を取った。
「こちらにどうぞ」僕はステージへと彼女をエスコートした。
スタンドマイクの前に彼女を立たせた。音響の電源を入れた。それから少し歩いて、ピアノの前に座った。
「この曲でいいですね?」
僕はあの日彼女が歌うはずだった曲のイントロを短く弾いてみた。
「ええ、いいわ」彼女が微笑んだ。
僕が演奏を始めて少しして、ピアノの音色に彼女の歌声が重なった。
伸びやかで透き通る声は、エメラルドグリーンの海を思わせた。歌声は僕の店の中に満ち溢れた。
それから店の外に流れ出ると、歌声は町の家々にまで広がっていった。
その歌声の波は一つの家を目指して、到達した。それは彼女からのプレゼントだった。先週誕生日を迎えた6歳の少女に届ける、心からの贈り物だ。
その少女はリビングでテレビを見ている所だった。少女はバンビが驚いた時の様に、声のする方に首を向けた。洗い物をする父親のもとに駆け寄り、腕を引っ張った。
「ねえパパ、ママの歌声が聞こえるよ」
父親は手を止めて、耳を澄ませた。その歌声を聞いた父親は放心した顔になり、少女を思わず抱き寄せた。
少女が父の胸の中で微笑んでいた時、歌い終わった彼女もステージの上で微笑んでいた。
それが僕が見る彼女の最後の姿だった。