表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
終端速度  作者: 塩味うすめ
2/2

後編

 週明けの朝。空は曇っていて、天気予報では午後から雨になるとの予報。リビングの窓から見える暗い雲を見て、舞はため息をついた。


「あら。舞どうしたの?ため息なんかついちゃって。好きな子の事でも考えていた?」

「違うよ。紗江みたいな事言わないで」

「ふふっ、ごめんなさい。紗江ちゃんは元気にしてる?」

「うん。元気だよ」


 ママがテーブルに焼いたパンを持ってきて朝食が始まり、団欒タイムも始まる。話題は紗江の話が出たので、定期考査の後にあった出来事。


「名前をね~」

「それで、職員室行って、先生に直してもらったんだ」

「二人で行ったの?」

「そう。紗江ったら、お願い一緒に。って手を離してくれないの」

「ふふふ」

「ほんと。あっ、そこでさ。紫陽花の植木鉢を見たよ。すごく綺麗だった」

「あじさい、ね」


 ママが目を逸らした。紫陽花に何かあるのだろうか。理由が分からなくて、ざわざわする。踏み込んで聞いていいものか、触れない方がいいものなのか。こういう時、自分が試されているような気がする。  

 

「うん。誰が置いたのか分からないけど、ピアノの上にあったんだって」

「ピアノ?へぇ~。ママもピアノ弾きたかったなぁ」


 あからさまな話題の転換に、痛みを隠すような表情。これは触れて欲しくないんだと分かるのと同時に、舞は自分が頼りないと言われているように感じる。

   

「舞?」

「ごめん。ママがピアノを弾く姿が想像できなくて」

「あっ、ママをバカにしたな。今度、ママの美技を見せてやるんだから」

「いやいや、弾けないでしょ?」

「ママは魔法使いです。誰にも出来ないことを、実行してみせるのです」

「ふはっ、二十面相」

「ふふ」 


 おかしくなりかけた空気が、いつもの他愛のないものに戻る。

 お互いに気を遣って関係を保っている。家族なのに気を遣うなんてという人がいるかも知れないけど、全てをさらけ出して壊れてしまうよりは良い。壊したくない大切なものだから。

 


 朝練を終えた舞は、女子陸上部の部室で着替え始めた。部室の壁には陸上部員達のベストタイムの記録が各々貼られている。


《津川 舞 400m走_57.02》 


 400m走は400mのトラックを全力で走る短距離走。ゴール手前にもなると心臓が悲鳴をあげ、肺が何度も呼吸を求める。体は千切れんばかりに痛み、脚の感覚が麻痺する。もう動けないと思う中、聞こえてくる声援が、全身に走る感激が体を前に進める。一分にも満たない時間に、あふれる感覚と感情。

 

 舞のベストタイムの記録は一昨年前の夏の大会のもの。高校一年生の時に県大会で出した記録から、ずっと更新出来ていない。怪我をした訳でもなく、練習を休んだ事もないのに、57秒を切る事が出来ないでいた。


『舞、知っているか?雨の落ちる速度を』


『ずっと加速する訳じゃないんだ。ある程度の距離を落ちると雨の速度は一定になって、秒速8メートルになるそうだ』


『秒速8メートルで400mを走れたら、オリンピックも夢じゃないな?』


『何で秒速7.5メートルなんだ?舞も現実的だな~』


 中学生の時、舞が400m走をしている事を知った父親が冗談めかして言ってきた話を思い出す。父親の事はあまり思い出したくないが、時折この事だけは思い出してしまう。舞は自身の記録の書かれた紙を見つめ、大きくため息をついた。  


 まだ誰もいない教室に入ると、舞は部活の朝練に参加する人が減った事に気づく。前よりも机に置かれていた鞄の数が明らかに減っていた。高校三年生になると5月に部活を引退する生徒が出てくる。

 

「舞~おはよう」


 紗江が目を蘭々とさせて尻尾を振る犬のように近づいてきた。こういう時は良からぬ事を考えているのが長い付き合いで分かるが、長い付き合いの為に聞いてあげなくてはいけない。


「おはよう紗江、何?」

「うん、ねぇ舞。聞いて、あのピアノの上にあった植木鉢の事なんだけどさ。あれ置いたの幽霊かも知れない」


 突拍子もない事を言い始めた紗江に、舞は頭を抱えたくなる。

 友よ、今度は一体何の漫画の影響を受けたというのだ。あなたの行く末が心配です。

 

「.......どういう事?」

「聞きたい?」


 聞いてと言ってきたのは紗江なのに、どうしてこちらが下手に出なければならないのか。

 舞は釈然としないものの、様式美には従わなくてはならないと顔の前で手を組む。


「お願い」

「もう仕方ないなぁ、消去法だよ。全ての不可能を消去して、最後に残ったものが如何に奇妙なものであっても、それが真実となる」


 有名なホームズの台詞を前に手を組む舞は、この友人に毒されて来たなと思う。


「あの植木鉢を誰が置いたのか、先生方は知らない。という事は犯人は先生の中にはいない。生徒も定期考査中で音楽室に寄る理由がないし、そんな暇もない。つまり生徒も犯人ではない。だから犯人は幽霊なのだよ、ワトソン君」


 いや、まず幽霊を消去してと舞は願う。

 穴だらけの推理を披露されて、どんなリアクションを取れば良いのだろうか?教えてくださいドイル先生。


「見事なものだ。君の今までの仕事のなかでも、最高傑作と言っていいだろう」

「そうでしょ?そんな訳で、今日のお昼に音楽室まで付き合ってね」


 どんな訳だ。

 どや顔をする紗江を見て、舞は笑顔になってしまう。音楽室への同行の承諾を得ると、皮肉の通じない友人は楽しそうに自分の席へと戻っていく。

 気付けば、教室にはほとんどの生徒が揃っていた。もうすぐ始業のベルが鳴る。




 昼食をとり終え、約束通り紗江と一緒に音楽室までやって来た。ここまで来れば紗江も満足するだろうと直ぐに引き返すつもりだったのだが。


「じゃ~ん」


 鍵を取り出した紗江を見て、舞は意気消沈する。

 このバイタリティはどこからやって来るのだろう。


「前もって借りておいたよ」

「えらい、えらい」


 犬を誉める時のように、頭をやさしく撫でてやると、紗江が嬉しそうに駆けてグランドピアノに飛び付く。

 犬扱いしてごめん。謝るから、犬のように振る舞わないで。

 音楽室にはグランドピアノが置かれているだけで、他には何もない。きっと他の楽器はしまわれているのだろう。二人で音楽室を見て回り、特に何もない事を確認する。


「あれ?恭子」

   

 音楽室を出ると、恭子がいた。恭子は去年も同じクラスでわりと話す方だが、一緒に遊んだ事は一度もない。舞が部活をしているのもあるが、恭子もピアノをしていて、遊んでいる暇はないようだった。


「どうしたの?恭子。こんなところで」

「二人こそ音楽室で何していたの?」


 怪しむような目で見てくる恭子に慌てて、手を振る。怪しまれると、何でもないのに慌ててしまう。我ながら、小心者だと舞は内心ため息をつく。


「それがね~この音楽室出るんだよ」

「出るって何が?」


 紗江のマイペースな所が羨ましいと感じる。今に限ったことではないけど。


「幽霊だよ。幽霊」

「は?なに子どもみたいな事言ってんの?うちら今年、受験生だよ」


 恭子、直球が過ぎるよ。


「それがさ、中間テストの最終日に村田先生に聞いた話なんだけど。ピアノの上に紫陽花の植木鉢が置かれていたんだって。それで、誰が置いたのか気になって、紗江とこうして見に来たんだ」

「あ、紫陽花の植木鉢。それ、どうなったの?」

「えっと確か、村田先生が処分したんじゃないかな」

「そっか...それで幽霊なんて言ってるの?」

「そうだよ。だって誰も置くはずのない植木鉢なんて。きっと幽霊しわざだね」


 紗江の言葉は不確かなものばかり。ホームズもびっくりの迷推理だ。


「それにしても何で紫陽花だったのかな?」

「舞、良いこと言った。気になって調べたんだけど、紫陽花の花言葉は《移り気》《浮気》《無常》なんだって」


 良いことなんて言っていない。ママがあじさいと聞いて目を逸らした理由が分かった気がする。紫陽花の花言葉がそんなのだって知らなかった。 

 

「それだったら、もう幽霊は出ないんじゃない?」

「どうして?」

「移り気に無常でしょ?幽霊はもう何処かに行ったのよ。じゃあ、私はもう行くから」

「ええ。じゃあね、恭子」 


 手を振り、恭子が音楽室から遠ざかっていく。


「何にも出なかったね~」

「出たら困るよ....そういえば、恭子は何しに来たんだろう」

「うん。やっぱり、あの植木鉢置いたの、幽霊じゃなく恭子っぽいね」

「えっ何で?」

「いやぁ~音楽室の鍵を借りた時にさ。名簿の最後に、恭子の名前が試験前日の日付で書かれていたんだ。きっと植木鉢がどうなったか気になって来たんだと思う。犯人は現場に戻るって言うでしょ?」

「そうだけど…」


 ふと横を見ると、校舎の窓ガラスに水滴が付いている。空は灰色に染まっていて、午後の授業が始まった頃には大粒の雨が降りだした。空を見て、舞は紫陽花の花の色を思い出す。今の空には似合わない色をしていた。

 


 放課後になり、いつもなら部活へと急ぐ舞だが、紗江の言っていた事もあって恭子の事が気になり、目で追う。すると、いつも音楽室に行くはずの恭子が教室を出ると反対方向へと歩いていく。

 舞は不思議に思い、後を追いかけるが、恭子は下駄箱で靴を履き替えるとそのまま校門を出てしまった。 

 そういえば朝の教室に恭子の鞄は無かった。朝も恭子はピアノを弾きには来ていなかった事を思い、舞は自分の事のように悲しくなった。

 


 それから3日、恭子が音楽室に行くことは無かった。

 紗江の言う通り、紫陽花の植木鉢を置いたのは恭子で、紫陽花の花言葉の通りに移り気にピアノから離れてしまったのだろうか。

 毎日のように弾いていたピアノをそんなに簡単に....私だったらと舞は考える。


「だから紫陽花の花を置いたんじゃないの?」

       

 紗江に恭子の事について話すと、そんな言葉が返ってきた。

 ピアノに飽きたからといって、花を置くだろうか。飽きたのであれば、そのまま何もしないのではないか。花を贈るのは記念日やお祝い、または別れの時だ。

 

「いままでの感謝だよ」

「感謝に移り気とか無情の花言葉を選ぶの?」

「それは、知らなかったんじゃないかな。それより、今度新しく始まった漫画なんだけどさ」


 紗江は、もう紫陽花の植木鉢の話には飽きてしまっているようだ。なんて言うか紫陽花の似合う子だ。


「今何か失礼な事思ったでしょ?」

「別に思ってないよ。ふふっ」

「もう、笑ってんじゃん」


 顔を膨らませる友人を見て、さらに笑う。笑いながら舞は、恭子が音楽室に行っていない事を思いの外、気にしている事に気付いた。 


 その日、家に帰るとスマホを手に取り、今まで後ろめたくて調べなかった紫陽花の花言葉を調べる。紗江の言った通り《移り気》《浮気》《無常》と出てきた。

 それ以外にないのかとスクロールしていくと《紫陽花 花言葉 白》とある。

 あの紫陽花の花の色は白だった。

 そこから調べると出てきたのは《一途な愛》と《寛容》の文字。


 翌日、朝から雨が降っていた。

 舞は放課後になるのを待ち、恭子に話しかけると二人きりになる。


「何?どうしたの。部活は行かなくていいの?」

「恭子こそ、ピアノは?」

「....もう辞めたの」

「どうして?あんなに好きだったじゃない!」


 思わず感情的になってしまい、責めるような言葉を後悔する。気まずい沈黙が漂うも、恭子がそれを払うように息を吐いた。


「好きだからだよ。…私、ピアノに出会ったの遅くてさ。まぁ、ピアノの才能もないんだけど、弾きたい曲があったんだ。ショパンの別れの曲。知ってる?」


 舞は気持ちを落ち着かせるために言葉が出せず、首を振る。


「ずっと練習していたけど、綺麗に奏でられなくて……いつまでも続けられる訳じゃないから、あと少しだけ続けても惨めでさ…」

「そんな」

「ねぇ、酷い話だよね。夢見させてさ、時期が来たら離れなきゃいけないなんて」

「恭子…」

「...でもさ、こんな思いするならピアノに出会わなければ、良かったなんて....思え、ないんだ」

「...うん」


 恭子の目が静かに閉じていき、舞の心に紫陽花の花が浮かぶ。


「白の紫陽花…」


 恭子の目が大きく開いた。


「あはっ」

 

 誤魔化すように笑うと恭子は、ひとつ伸びをする。そうして音楽室のある方向を見上げてから、舞に背を向けた。


「もう行くわ、部活がんばって」

 

 そう言い残した背中が、傘で隠れる。

『一途な思いを裏切ってしまう、私を許して欲しい』白の紫陽花には、そんな思いが込められていたのではないだろうか。

 自分へのメッセージとして。

 

 恭子の傘が見えなくなって、横を見る。校舎の窓ガラスに写る笑顔が泣いているように見えるのは、雨が降っているから。


 雨は秒速8メートルで落ちてゆく。



≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡


 Fine


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ