前編
音が鳴り、景色が流れ始める。流れる景色は速度を上げていき、やがて一定の速度で止まる。もっと早く、もっともっと早く。そう思うけれど、流れる景色の速さは変わらずに過ぎていく。もどかしい思いのまま気がつくと、目が覚めていた。
嫌な夢を見たなと舞は起き上がり、ヘッドボードの時計を見る。デジタル時計には5・5・0の数字が浮かんでいる。いつもなら部活の朝練に行く準備をするのだが、ここ数日は机に向かっていた。定期考査中は部活動が禁止されていて、体が鈍らないか気が気でない。
「きょう一日」
不安になる心を落ち着かせるように声を出し、ノートを開いて、物理の公式を見返す。頭の中に公式が浮かぶ、一つ、二つと「N=m×g」「k=6π...」ピピッピピピッと音が鳴り始めた。舞は机から離れ、デジタル時計を持ち上げるとアラームのスイッチを切った。デジタル時計にはマジックで秒速7.5メートルと書かれている。舞が書いたものだが、随分と前のものなので掠れていた。
デジタル時計をベッドに放り投げ、朝の身支度へと明かりの付いていないリビングの前を通り、洗面所に移動する。歯を磨いて、顔を洗い、鏡に写る自分を見て笑顔を作った。
笑顔を見ると元気が出る気がする。
「おはよう~舞、朝御飯何がいい?」
洗面所に顔を出したママの頭には寝癖が付いている。昨夜も遅くまで仕事をしていたのだから、ゆっくりすればいいのにと思う。だけど、舞との時間を大切にしてくれるのが嬉しいから口に出しては言わない。
「おはよう、何があるの?」
「うふっ、何でも」
「はいはい。ベーコンエッグがいいな、うっ乗っからないで、重い」
「最近スキンシップが不足していると思うの、って重くなった?」
信じられないといった表情をするママに、真面目な顔で頷いて見せ体組成計を指差す。大きく見開かれた目がフルフルと動き、逃げても変わらないというのに後ずさりしていく。そんなママの姿に体重という現実の代わりに見る夢は一体何だろうと考える。
「数字ではなく、言葉かな」
「なにか言った~?」
「ううん。ご飯ゆっくりでいいよ、もう少し勉強しておきたいから」
「んー」
ママはママで朝の支度に忙しそうだ。
舞は部屋へと戻り、机に向かう。今日の試験は物理と英語。さっき見た物理の公式を空でなぞり間違いがないのを確認すると、今度は英語のノートを開く。ペンを手にし、仮定法未来を使って例文を作っていく。
If my mother should smile,I would be happy(もしママが笑顔なら、わたしは幸せだろう)
If I were to fly,you might be happy(もし私が飛べたら、あなたは喜ぶだろう)
舞の家に父親はいない、舞が中学の頃に父親の浮気が原因で両親は離婚した。思春期盛りの時期で、悪い影響を懸念する人が多いかもしれないが、舞は離婚して良かったと思っている。
共働きで家に居ることが少ない両親であったが、両親が居合わせると息苦しく感じたし、深夜にママが泣いている声を聞くのは辛かった。
離婚後も暫くは元気の無かったママだけど、今ではすっかり元気になった。ママにとっては辛い選択だったのかも知れないけど、あの頃にはなかった笑顔が見れるようになったのだから。
「舞~ご飯できたわよ」
「はーい、今行く~」
リビングでママとふたり並んで朝ごはんを食べ、つかの間の団欒タイム。今日はやっぱり試験についての話になってしまう。
「試験はどう?」
「そうだね、今のところ解答欄は全部埋まっているよ」
「何それ?勘で解いているという事?」
「解らなくても挑む姿が素晴らしいという事だよ、明智くん」
「ふふっ。まぁ舞の事だから心配はしていないけど」
「そうそう心配ご無用、あ!ママ時間だよ」
「!いけない。じゃあ行ってくるね。試験頑張って」
「はーい、気を付けていってらっしゃい」
どこにでもある他愛のない光景、舞はいつまでもこの時が続けばいいと思う。
食器を軽く水洗いして、食洗機に入れる。時刻は7時40分。登校するにはまだ少し早い。テレビをつけると、ちょうど見たかった天気予報がやっていた。
“今週末から梅雨入りする地域もあるようです”
気象予報士のお姉さんが嬉しくなさそうな顔で伝えている。現代の社会で雨を喜ぶ人はどちらかと言えば少ないから、正解の顔だろう。
「昔は好きだったんだけどな」
テレビに文句を言っても仕方ないけど、ささやかな反抗をする。これが反抗期かと益体もない事を考えている内に時間は過ぎていく。
「そこまで。ペンを置くように」
先生の合図と共に漏れる吐息。その吐息は達成感からか、それとも諦観なのか。前の席には、机に頭を埋めている友人がいる。
「紗江どうしたの?」
「舞~やばいよ~」
定期考査が終わって弛緩した空気が教室に訪れる中。前の席に座る紗江に声を掛けると、この世の終わりみたいな顔をして振り返ってきた。
テストの出来が悪かったのだろうか。そうだとしたら、何と言えば良いのだろうか。舞は思わず身構えてしまう。
「名前」
名前?名前がどうしたというのだろう。舞は、はたと気付きドジな子だと頭を抱え出した紗江を見る。
「書き忘れたの?」
「違う、それだったら良かったのだけど、あー」
紗江が首を左右に振り、舞の机にすがり付く。
書き忘れたのではないとしたら、名前で何が問題なのだろうか。今日あったテストは物理と英語、歴史なら人物の氏名を書き間違えたとかで分からなくもないが、物理法則の発見者の名前なんてテスト問題にはなかった。
「名前書き直すの忘れたの...」
まだ分からない、誰の名前を書いていたのか。書き換えるのを忘れたというのであれば、悪の響きがしてくるけど。友よ、何をしたというのだ。さぁ、すっかり吐いてしまいなさいと慈愛を込めて紗江の頭を撫でる。
「舞!」
「わっ」
撫でていた手を掴まれて、声を上げてしまった。紗江が視線を集めていないか確認するように周りを見渡し、声をひそめて言う。
「鬼灯亭 ウルフマーキス」
「...誰?」
落語家の名前なのか。その名前が何を意味するのか分からないでいると、紗江が掴んだ手に力を入れてきた。
「あのね、答案用紙の名前欄に好きなキャラの名前を書いていたの。好きなキャラの分頑張れるから」
紗江が言うには、答案用紙の名前を好きなキャラクターにする事で、そのキャラクターがテストを受けていると思い、恥をかかせない為にも良い点を取る事が出来るのだそうだ。それで、いつもはテスト時間終了の前に書き直していたが、今回の物理のテストでは書き直すのを忘れたらしい。
ちなみに鬼灯亭 ウルフマーキスはBL系相撲漫画[しめ縄に恋い焦がれて]に出てくるイケメン力士で、とても格好いいのだとか。
「どうしよう?」
「紗江...。先生に言うしかないんじゃない?」
悲壮な表情をするものだから何かと思えば、そんな事だとは。
手を離し、舞は帰りの準備をし始めると、紗江がしっかりと腕を掴んできた。逃がすつもりはないようだ。
「お願い、付き合って」
「嫌、ひとりで行きなよ」
「そ、そんな、舞は私に羞恥死をお望みなの?」
「大げさ」
「大げさじゃないもん。BL漫画を愛読している事が広まったら私のイメージが...」
紗江のイメージはそんなもんだよ。と言って突き放しても良かったけど、数少ない友人の一人だ。
「先生にしか知られないじゃない?」
「そうだけど、先生に何の名前だって聞かれるでしょ?そうしたら説明しないといけないでしょ?」
「適当に、おまじないとでも言って誤魔化せば?」
暗い目をしていた紗江の目に、光が戻ってきた。もう、手を離してくれても良いんじゃないだろうか。
「おまじない...いいね、それ。だけど、ひとりじゃ信憑性がないよね?」
「うっ、わかった。わかったよ、だからもう手を離して」
「舞。大好き」
「はいはい」
調子のいい子だ。紗江は何がなんでも付き合わせる気だったと思う。そういう所、好きだけど。
紗江とふたりして職員室に向かい、定期考査中である為ドアをノックして物理の村田先生を呼んでもらう。少し待っていると、用事の途中だったのか植木鉢を抱えた村田先生が出てきた。
どうして花の鉢を持っているのか不思議に思いつつ、舞は紗江が話しているのを後ろで見守る。村田先生は苦笑いしながら話を聞くと、花の鉢を紗江に預けて職員室に戻った。
「何の花?」
「紫陽花よね?」
この時期の花だけど。定期考査期間中に、それも物理の先生がどうして紫陽花を持っているのだろうか。
「お待たせ、3年A組だったね。君の言う通りの名前があったよ。今回はこちらで書き直しておくが、入試試験では許されないからね。気を付けるように」
「はい。すいません」
「それであの名前は」
「あのっ先生」
話の流れが、鬼灯亭 ウルフマーキスに行こうとするのは阻止しなくては。出来ればおまじないなんて、説明は避けたい。
「何かな?」
「その紫陽花の植木鉢どうしたんですか?」
「ああ、忘れていた。持っていてくれて、ありがとう」
紗江から植木鉢を受けとり、村田先生は困ったように笑う。
「いや、大したことではないんだよ。音楽室のピアノの上に置かれていたのを用務員さんが届けてくれたのだが問題にする事でもないからと処分する事になってね。それで私が引き受けたんだ」
「誰が置いたのですか?」
「さぁ誰だろう?先生達は定期考査の採点やらで忙しいから取り合う暇もなくてね。これが続くようなら対応するけど」
「...」
「そうなのですね。あっ、すいません。お時間お取りして。ありがとうございました。舞、行くよ」
「いやいや、構わないよ。気を付けてお帰り」
「あっ、ありがとうございました」
紗江の声に引き戻されて、職員室の前から遠ざかっていく。自分でも驚くほど、あの紫陽花の植木鉢について考え込んでしまった。
「舞、ありがとう。助かったよ~」
「どういたしまして。でも、この貸しはいつか返して貰うから」
「君と僕の仲ではないか、ホームズ」
「名前なんて、初歩的なことだよ、ワトソン君」
「ふふふっ」
「はは」
「でもさっきの。何で紫陽花をピアノの上に置いたんだろうね?」
「何でだろうね」
誰が一体何の為に紫陽花を置いたのだろう。これといった答えが出ないまま校門を出て、紗江と別れた。定期考査が終わって空いた思考の隙間が、綺麗な色の花で埋まる。
紫陽花の植木鉢をピアノの上に置いた人は、どんな思いを込めて置いたのだろうか。それは誰かに宛てたメッセージなのかも知れない。
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continua