三章
ーじゃあねー
「君はさ、理想が高すぎるんだよ」
付き合って1年が経とうとしていた彼女に別れを告げられた時、最後に貰った言葉も、残念ながら、否定だった。
「私は顔が可愛いじゃん。家事だってできる。実家とも仲が良い。エッチなことは好きじゃないかもしれないけれど、完全に拒絶してるわけじゃない。そりゃあ頻度は少ないかもしれないけれど」
彼女はコーヒーを飲みながら言う。ブラックが好きな女だった。
「あとは、家族や友達が大事で、君が一番!っていうタイプでもない。その辺りは君の理想じゃないかもしれない。それでもそれは、君が折り合いをつけて行く場所じゃないの?」
彼女は少し目を潤ませながら言う。彼女の言うことはもっともで、正論だった。ただ、僕がパートナーに求めることは結局性欲で、その次が承認欲求だった。だから、パートナーとはやれることが1番大事だし、彼女の中のヒエラルキーで1番になることが、2番目に大事だった。
自分の欠損を埋めるために相手を求める男と、より良い人生を歩むために相手を求める女が、分かり合えることは、なかったのだろう。
「そうだね。そうだと思うよ。それでも僕は、君とセックスをもっとしたいし、性的な色んなことを、貪欲に楽しみたかった。それに、他の人や物事との差は、ほんの少しでも良いから、君の1番になりたかったんだ」
こんなことを言う時点で、彼女は僕との性的な行為に辟易してしまうだろう。そんなことを言う僕を、彼女がもう一番にしてくれるわけもなくて。だからこう言う話をした時点で、僕たちは終わりに向かっていたのだと思う。
「やっぱり、理想が高すぎるよ」
俯く彼女は、泣き顔を見せまいとしているのか、それとも単に僕の顔を見たくないのか。こちらから見える頭だけが、わずかに震えていた。
「修羅場を乗り越えるたびにね、いつか、こんなこともあったね、って笑い合える日が来ると思ってたんだ」
そういうと彼女は自分分の代金をテーブルの上に置き、荷物をまとめ立ち上がった。
泣いていた彼女の顔も、美しいと思った。
「じゃあね。もう会うこともないけれど。もっといい人見つけてください」
彼女はそのまま、喫茶店の出口から出て行った。振り返ることはなかった。失っても良いと思って手放したはずなのに、手放したら、取り戻したくなるのは、何故なのだろうと思ったあたりで、意識が途絶えた。
息が詰まるように、目が覚めた。
「…ッ!別れた時の夢は反則だろ!」
衝動に任せて手元にあった目覚ましを壁に投げる。目覚まし時計は壁に置いてあるカラーボックスに当たると、大きな音を立てて地に落ちた。目覚まし時計はどうかわからないが、敷金は大丈夫そうだ。
自分の中で乗り越えたと思っていたトラウマは、どうやら深層心理では乗り越えれていなかったみたいで。起きている時はなんとも思わなくなったトラウマも、夢の中の剥き出しの心では、到底耐えられるものではなかった。
「映画、10時からだよ!ちゃんと起きてる?君はいっつも遅刻するからなあ」
彼女からのラインが来る。食事に行き、飲みに行き、3回目のデートで付き合いはじめた。もう3ヶ月になる。趣味が合い、波長も合う。些細なミスも許してくれる。優しい彼女だ。夢のことなど忘れて、急いで準備しなければ。僕はベッドから慌てて這い出るのだった。