朧月
今日は月が綺麗な日だった。
ベランダでそれを眺めながら、私は小さめのパイプ椅子に腰を下ろしている。
明かりのついた私の部屋からは人のいる音がして、カーテン越しにも薄っすらそこにいるのがわかる。
まだ夏が来る前の、少しだけ寒い風が、先ほどまでの飲酒で火照った体を冷やす。
「風邪ひくよ」
カーテンの隙間から彼の声がする。
私は月から目を離さないまま声を返す。
「今日は飲み過ぎたから、もう少しだけ」
そう言うと、彼もカーテンと網戸を開けてこちらへ来る。
「別に、そんなに飲んでないと思うけど」
「そんなことない。今日はいつもよりも酔ってる気がする」
私は目を閉じて息をゆっくりと吸う。
「まあ、ペースは少しだけ速かったかもな。隣、いい?」
無言で首を縦に振ると、彼は片手に持っていたパイプ椅子を広げて座った。
深夜に男女二人、薄着のままベランダで並んで涼んでいる姿は、なんともありふれていて、どこか異常性を孕んでいた。
「そういえば、牛乳がもうすぐ切れそう」
「ああ、キッチンペーパーもないし、明日買ってくるか」
「明日、仕事じゃなかったっけ」
「仕事の帰りに買ってくるよ」
「そう。ありがとう。忘れないでね」
「心配なら終わるちょっと前くらいに連絡してよ」
「んー覚えてたら」
「そっちが忘れるのかよ・・・」
彼はふと思い出したかのように「あ」と声を漏らして、薄い半ズボンのポケットをまさぐる。
出てきたのは、加熱式たばこだった。
「吸っていい?」
「・・・お好きにどうぞ」
私は彼の方をずっと見ないまま、口を動かしていた。
彼は細く、短い煙草を機械に挿して、しばらく待つ。
「そっちは吸わないの?」
「・・・」
私は黙ったままポケットに手を置く。
彼と別れ話をした日、コンビニで買った紙煙草と安いライター。
昔吸ってた銘柄は名前が変わって、値段も幾分か税金に割り増しされていた。
彼と出会う前の恋人の匂いがする、彼と付き合う少し前に吸わなくなった煙草だ。
「別に、気にしないよ。最初からだけどさ」
加熱が終わったらしい煙草を咥えて、少し吸って、独特の匂いの煙を吐いた。
「あー、久々に吸った。意外とむせないもんだな」
明るい口調でそんなことを言う彼を、私は思わず見てしまう。
確かに、付き合った当初は同じものを吸ってるところをデート先などで何度か見たが、ここ数年見ていなかった気がする。
「どうして、吸わなくなったの?」
ずっと聞けなかったことを、ふと口に出してみる。
ふと、彼と生活をする中で、気づいていたのは確かだったが、なんとなく恋人として踏み込んでいいラインを越えるような気がしていた。
「なんだろ。要らなくなったんだよ」
「要らなくなった?」
「そう。別に吸う必要がなくなったから、だから吸わなくなった。それだけだよ」
彼はそう言ってもう一度咥える。
それを見ながら私はその姿の意味を考えている。
私と一緒にいることで、彼が煙草を要らなくなった理由。
「寂しいの?」
「ん?」
私の何気ない問いに、こちらを見て少し驚いたような顔をする。
こんな事を言うとは思わなかったのだろうか。
「寂しい・・・まあ、そういう気持ちがあったんだろうな」
そんなことない、と茶化されるかとも思ったが、案外そんなことはなく、あっさりと認める様子だった。
「そりゃ、長年付き添った恋人と別れたんだから、寂しくないわけ無いだろ?」
それは、冗談なのか、本音なのか、私にはいまいち読み取れなかった。
「でも、生活は変わらないよ」
「それでも、肩書が意味する場所っていうのがあるんだよ。確かに距離や環境が変わらなくったって、確かに、俺たちの何か大切なものがなくなったんだ」
「だから別れたんだけどな」と彼は軽く笑った。
何かを誤魔化すように。
今更、未練なんてないと思っていて、これが最善だと思っていた。
私は煙草を口に咥えて火をつけようと安いライターを押し込む。
カチッカチッと空虚な音がするばかりで、火は一向につかない。
昔は簡単につけれたんだけどな、と何処かの誰かに心で言い訳をしていると、見かねたのか彼が手を出して来た。
「つけるよ」
私は黙ってライターを渡す。
彼は簡単にライターの火をつけてこちらに差し出す。
煙草を咥えたままその先を火へとつけて軽く吸うと、煙草の葉が焼ける臭いとともにその色が紙に移った。
ゆっくりと吸って、思いっきりむせた。
「ゲホッゲホッ!!」
「だ、大丈夫?」
呼吸を落ち着かせるために数度の咳の後、ゆっくりと深呼吸をして、消え入りそうな声で「大丈夫・・・」とだけこぼした。
しばらくして呼吸も落ち着いてきて、私はもう一度煙草を咥えた。
「まだ吸うの?」
「今のは、吸い方を忘れてただけ。私は肺に入れるタイプじゃなかった」
思い出した。初めてこれを吸った日のこと。
同じように、元カレとベランダにいて、吸いかけの煙草をもらった。
どんなもんだと興味があって、それを咥えて、同じように無理に肺に入れたもんだから思い切りむせた。
それを見て元カレは笑って「下手くそだな」と言った。
初めてなんだから仕方ないじゃないと、言った気がする。
今やもう、初めてではないからそんなことも言えないが。
煙をゆっくりとフィルターを通して吸い、口の中で転がして、吐いた。
その煙は顔の前でふわりと広がって、やがて月光に照らされて夜に消えた。
「どうです?久々の煙草の味は」
「美味しくない。どうしてこんな物みんな吸ってるんだろ」
過去の自分にも、今の自分にも刺さる言葉を、全力投球で投げてみる。
彼は可笑しそうに「それを君が言うのか」と言った。
「でも、知らなかった。君が煙草を吸ってたなんて」
「意外だった?」
「いや、そうでもないよ」
「それ、どういう意味よ」
私はわざとらしく彼を睨みつける。
「別にガラが悪そうとか、そういう意味じゃないよ。だって、俺たちは似てるから、吸う理由も一緒なんだろうなって」
「それって、私が寂しいって思ってたってこと?」
「そう。煙草ってさ、依存先を見失ったときに、代わりに咥えるものなんだよ。弱さの象徴なのさ」
そう言って、彼はもう一本、ポケットから煙草を出して機械にさした。
「それは悪いことじゃないよ。それがきっと普通で、煙草を使わない人たちはもっと別の方法でその穴を埋めてる」
「じゃあ、前までの私達は、寂しさを埋められてたんだ」
「そういうことだね」
私はもう一度煙草を咥える。
軽く吸って、口の中で転がして、吐く。
「なにが駄目だったのな」
「俺たちの関係?」
「そう。どこかで恋人でなくなったところがあったでしょ?その理由がなにかなって」
変わらない日常は確かに満たされていて、刺激があるわけではない平和で、文句のつけようもなかったと思う。
私達は、確かに上手くやっていたはずだ。
「きっと、恋人であることを越えてしまったんだと、俺は思ってる」
恋人を越えた。彼の言葉を頭の中で何度も繰り返す。
越える。普通に考えれば、より上へ、より良くなるはずの言葉だ。
でも、私たちは破局という道を選んだ。越えた先は別れだったのだ。
状況を吞み込んで、意味を理解していない。
そんな状態の私を見かねてか、彼は言った。
「俺たちはさ、気が合い過ぎたんだよ。都合が良すぎたんだ、恋をするには」
「つまらないってこと?」
「悪い言い方をすればね。刺激がないんだ。お互いに」
「なんとなくわかる気はする。私、あなたとセックスしてもドキドキしないもの」
「そうはっきりと言われると、まあなんかちょっと意味合い変わってくる気がするけど、お互いの身体が処理にちょうどいいだけで、それはもう安心感でしかなくて」
私たちに、恋人という肩書も、夫婦という肩書も重すぎて、きっと苦しいだけ。と別れ話をするときに彼が言った。
それを妙に納得していて、でもどこかで手放すのが惜しいと思っている自分もいて。
だから私は、特に何も考えずに、チューハイ缶を片手に了承したのだ。
「結局、別々で暮らす?」
私は話を切るように、今後のことを口に出す。
「それはこの関係でしばらく暮らしてみてかな。これが今まで以上に馴染むなら、死ぬまでこれも全然ありだと思う」
彼は煙草で一呼吸を置いてから「俺はね」と保険のように付け加えた。
これは、私の意見を尊重する、と遠回しに伝えるときに彼が使う言い回しだった。
「私もそれでいいと思う。引っ越すにしたってものとか家探しとか、いろいろめんどくさいこともあるし、あなたと暮らすのは嫌いじゃないもの」
特に変わらない。恋人じゃないだけ
そんなのが歪でなくて何というか、私たちはきっと知らない。
あの夜の月のように、ぼやけて、お互いに目を覆い隠すような日々が、正常なわけがない。
「私たち、おかしいかな」
「少なくとも、世間一般的に見ればな」
口の中にある唾液は、煙草の煙を孕んで、苦みを帯びる。
それをゴクリと飲み込んで、私は一緒に買ってきた携帯灰皿に押しつけて火を消す。
先から出てきていた糸のような煙はプツンと音を立てて消えて、夜の空に残りが溶けた。
「友達になんて説明しようかな」
「友達に戻ったとか?」
「なんか違うなぁ」
「親友になりました?」
「あんまり変わってないな」
「説明難しいよ」
「まあ、名前なんて付けなくてもいいんじゃない?俺たちは俺たちだよ」
「また適当な・・・家族に説明するのだってきっと大変なのに」
「今時結婚しない選択肢選んだってとやかく言われることなんてないよ」
いつも通り談笑をして、彼も吸い終わった煙草を機械から抜く。
私は手に持っていた灰皿を差し出して、彼はそこに吸い殻を入れた。
「飲み直そうか。明日休みだし」
「そうだね、お酒あとどれくらいあったっけ」
椅子から腰を上げて、窓を開ける。
スリッパを脱いで、部屋へ上がる。
彼が後から入って窓とカーテンを閉めると、部屋はまた密閉される。
そこは少し前まで居たはずの、二人の部屋ではない気がした。