想い人の心、想われ人知らず① ~ファイサル視点~
ソフィーヤがファイサルと一緒に過ごすようになって数日が経った頃、何となくカレンダーを見ていたファイサルはソフィーヤが孤児院へ行く日が明日だということを思い出す。
そのソフィーヤは少し用事があると言って執事にファイサルを任せ退出している所だった。
ソフィーヤの笑顔を思い出し、彼女は毎月欠かさず孤児院を訪問しているのでファイサルは今回も行くのだろうと考えながら彼女と出会った時のことを思い出していた。
ファイサルがソフィーヤを好きになったのは、およそ5年前のことだ。
その頃ファイサルは騎士団へ入団したばかりで厳しい訓練に毎日フラフラになっていた。
騎士団では体力向上のため入団初年の者は貴族でも徒歩での出退勤を義務付けている。
前日の深夜からの勤務だったファイサルが昼頃に疲れた身体を引き摺って帰路についていると、どこからか食欲をそそる香ばしい匂いがした。
いつもは買い食いなどはしたない行為はしないのだが、あまりに魅惑的な匂いに思わずその方向へ歩いていくと、一軒の串焼き肉の出店を見つける。
砂漠で見つけたオアシスのような気持ちで、吸い寄せられるように店の前まで来ると、声をあげた。
「「串焼き肉一つ!」」
被った声に驚いて隣を見ると、隣にいたモスグリーンの髪をした少女も驚いたようにファイサルを見上げていたが、ニコっと笑うと少しだけ後退した。
「お先にどうぞ」
「あ、いや……」
「はいよ! お兄さん!」
少女に順番を譲ってもらったことが恥ずかしく遠慮しようとしたが、出店の女将さんから威勢よく差し出された串焼き肉にファイサルが面食らう。
「10ペニーね。ほら、お兄さんが受け取らないとその子がずっと待つことになるよ?」
女将さんの言葉にファイサルは慌てて懐を探り金貨を渡すが、困ったように苦笑された。
「悪いけど、銅貨はないのかい? うちのような小さな店には金貨に払うお釣りなんてないんだよ」
「そうか、すまない……どうやら持ち合わせがないようだ。今日は諦める」
「悪いねぇ」
「いや、邪魔したな」
この国の貨幣には金銀銅と鉛の種類があるが、ファイサルは一般的な庶民に流通しているのは銅貨と鉛だということをすっかり失念していた。
お釣りはいらないと言っても良かったのだが、それも何だか偉そうに思えて、ファイサルが、名残惜し気に出店から立ち去ろうとすると上着の裾をクイっと引かれる。
その拍子にファイサルの長い前髪が両サイドに流れて真っ赤な瞳が晒された。
慌てて前髪を元通りに撫でつけながら振り返ると、先程順番を譲ってくれた少女が串焼き肉をファイサルの方へ差し出していた。
「奢ってあげます」
「へ?」
「だって、お兄さん物凄く食べたそうな顔してましたから」
「だが……」
戸惑うファイサルの右手に少女は笑顔で串焼き肉を握らせると、もう片方の手で持っていた串に齧り付く。もぐもぐと咀嚼し飲み込むとニパッと微笑んだ。
「私、イケメンには優しいので気にしないでください」
「イケメン? 誰が?」
「あれ? もしかして自覚なしです?」
「自覚もなにも……先程、私のこの真っ赤な瞳を見ただろう?」
子供の頃、自分の瞳を見た幼馴染の女の子に悪魔みたいだと言われてから、ファイサルはこの赤い瞳が好きではなかった。だからいつも瞳を隠すように前髪を伸ばし、他人から見えないようにしている。あれ以来自分に自信が持てなくなったし、騎士団でも思い切りが良くないと叱責されていて、トラウマのようになっていた。
苦い記憶を思い出しファイサルが自嘲すると、少女は不思議そうにこげ茶の瞳を瞬かせる。
「はい、とっても綺麗な赤色でした。紫水晶の髪に鮮やかな紅玉色の瞳なんて宝石みたいで羨ましいです。そんなにイケメンなのに前髪で顔を隠しちゃうなんて勿体ないですよ。緑の髪と茶色の瞳の私なんて樹木みたいだってバカにされてますけど、自分ではいい色だと思うことにして堂々と晒していますから。少しは私を見習った方がいいですよ」
「え?」
「なんて、冗談です。あ、イケメンなのは本当ですけど。でも今度はちゃんと銅貨を用意してくださいね! 私のお金は有限なんですから。イケメンだからって毎回奢ってもらえると思ったら大間違いですよ! それじゃ!」
串焼き肉を手に呆然としたファイサルが我に返り少女に金貨を渡そうと思った時には、既に彼女の姿は見えなくなっていた。
「綺麗な赤色か……そんなこと初めて言われた」
呟いたファイサルが串焼き肉を頬張る。
じわっと口の中に肉汁が広がる串焼き肉は想像通りとても美味しいものだった。だがそれを食べたファイサルは腹ではなく、胸がいっぱいになった。
その後、何度か出店を訪れたが少女に会うことはできなかった。
女将さんの推察によると時々店にやってくる子のようで、庶民の服装はしているが、平民にしては所作が綺麗なのでどこかの貴族のご令嬢か、裕福な商家の娘がお忍びで来ているのだろうとのことだった。
それを聞いたファイサルは今までは悪魔と言われたトラウマで欠席し続けていた夜会に積極的に参加するようになり少女を探した。
見ず知らずの彼女がイケメンだと言ってくれたことで自信を取り戻したファイサルは、瞳を隠すことをやめ立ち居振る舞いも堂々としだしたため、そんな彼を令嬢達は取り囲んだ。
この国では珍しくないモスグリーンの髪色にこげ茶の瞳の令嬢はごまんといたが、串焼き肉を差し出してイケメンと言ってくれた少女を見つけることは出来なかった。
そのうちに、中々恋人を作らない息子を心配した両親が勝手に婚約者を決めてしまい、しかもその相手がよりにもよって、子供の頃に自分を悪魔呼ばわりした幼馴染だったことに、ファイサルは絶望した。
しかしどうしても少女のことが諦めきれなかった。
だから幼馴染との婚約を穏便に解消しやすくするため、父親に引退を迫り伯爵家当主となった。その矢先に、あの婚約破棄騒動が起こったのだ。
昔から上昇志向が高く我儘だった幼馴染は放っておいても何かをやらかすだろうと思っていた。しかしまさか衆人監視の前で婚約破棄なんて馬鹿な真似をするとはファイサルも考えが及ばなかった。
「バカですか? バカですね? バカでしょう」
思わずバカの下一段活用が思いつく程には呆れたが、ファイサル的には結果オーライであった。
こうして晴れて自由の身となったファイサルが喜んだのも束の間、婚約者のいなくなった彼に再び令嬢たちは群がった。
ちなみにファイサルはグイグイ来る肉食タイプの女子が大の苦手である。
ファイサルが少し動くだけできゃあきゃあと騒ぐ令嬢や、さながら獲物を狙う猛禽類の如くファイサルを追い回す令嬢にいい加減辟易していた頃、久しぶりにふらりと立ち寄った串焼き肉の出店で探していた彼女を見つけた。
ファイサルの記憶の中より随分と成長していた少女は既に大人の女性になっていた。
それでも美味しそうに串焼き肉を頬張る表情は昔のままで、ファイサルの心臓は高鳴る。
声を掛けようか迷ったが、自分のことなど覚えていないかもしれないと逡巡し、それでも彼女のことが知りたくて、いけないことだと解ってはいたが、こっそり後を付けてしまった。
串焼き肉の出店を後にした彼女はパン屋に立ち寄ると、下位貴族の屋敷が立ち並ぶ方角へ向かって歩いてゆく。
そしてある屋敷の裏口の前まで来ると辺りを警戒しながら中へ入って行った。
彼女が再び出てこないことを確認してから、ファイサルは騎士団の詰め所に貼られた貴族の屋敷が記載されている地図を思いだす。
「ここはリース男爵家の屋敷か。確か男爵は借金を抱えており病弱な妾の子がいるという噂があったな。リース男爵夫妻とその娘とは何度か夜会で会ったことがあるが、彼女はいなかった。つまり彼女は妾の子というわけか」
持前の記憶力を辿り、屋敷を見上げたファイサルは一人ほくそ笑むと、彼女を手に入れるべくすぐさま行動に移した。
モスグリーンの髪にこげ茶の瞳のありきたりな色をしたソフィーヤの容姿は、絶世の美女でも儚げな美少女でもない。
けれどずっと彼女を追いかけていたファイサルから見れば他に類を見ない程可愛らしいもので、早く自分のものにしなければ誰かに獲られてしまうような強迫観念に陥った。
本当は段階を踏んで仲良くなってから結婚を申し込みたかったが、焦りから結局金と権力の力で強引に結婚までこぎ着けてしまった。
勿論、ファイサルはあの時自分がとった選択に後悔はしていない。
けれどまさか初恋を拗らせた自分が初夜にあんな暴言を吐くとは思ってもみなかった。
そしてその後は、ソフィーヤに出会う前の自分に戻ってしまったかのように、ヘタレにヘタレた行動も計算外であった。
大怪我をしなければ今もまだソフィーヤと会話ができなかったのかもしれないと考えると目の前が真っ暗になる。
執事からの報告と休日のストーカー行為のお陰で、ソフィーヤの日常は知った気になっていたが、怪我をして彼女と一緒に過ごすようになってみて益々好きは募っていった。
しかし肝心の言い間違えの件については、中々誤解を解く上手い言い訳が思いつかず先送りにしてしまっていた。