受けた恩は返します①
ソフィーヤは一度自室へ戻りサッと入浴を済ませ手早く身支度を整えると、いそいそとファイサルの元へ向かう。
先程のファイサルの笑顔を思い出すと心がフワフワしてしまい、介助に行くのにこんな浮ついた気持ちになる自分を自重しながら廊下を歩いていった。
ファイサルの部屋は、家具もカーテンもシックな茶色と深緑を基調とした落ち着いた部屋である。改めて入室したソフィーヤがイケメンは部屋までイケてるんだな~なんて感想を抱きながら室内を見渡すと、テーブルの上には既に食事の準備が整っていてファイサルが着座していた。
(ひょっとして待たせてしまった?)
冷や汗を掻いたソフィーヤを執事が穏やかに席へ案内する。
ファイサルの顔を窺うと、笑ってはいなかったが、とげとげしい雰囲気は感じられなかったので少し安堵し、腰を下ろしかけたところで自分の席と彼の席が対面なのに気が付いて立ち上がった。
「あの……私の席は旦那様の左隣がいいのですが」
ソフィーヤの申し出にキョトンとする執事とファイサルを他所に、自分の椅子を彼の隣へ運ぼうとすると、慌てて執事がソフィーヤから椅子を取り上げ彼女が指定した位置へ運んでくれる。
(だって対面じゃ、どうやって食事を手伝ったらいいかわからない。あぁ、でも自分で椅子を運ぼうとしたのは淑女としてマナー違反だったのかもしれない。でも細かいことは気にしないことにしよう。今は旦那様のお世話が優先事項だし)
そう自分に言い聞かせるとソフィーヤは、少し怪訝な表情になったファイサルの隣に腰掛けおしぼりで手を拭う。すると、執事はソフィーヤの意図を理解したらしく壁際へ下がると静かに佇んだ。
「さて旦那様、何からお召しあがりになりますか?」
「え?」
「私はまずスープを飲むのですけど、旦那様はどうですか?」
「……私は……私もスープでしょうか」
「わかりました。少しマナー違反になりますけど、目を瞑ってくださいね」
ソフィーヤはにっこりと笑うと、左手でスープ皿を持つ。
通常、お皿を持って食べるのはマナー違反とされたが、ソフィーヤは気にする素振りは見せずに右手に持ったスプーンでスープを掬うと、フーフーと息をかけ冷ましてからファイサルの口元へスプーンを運んだ。
「どうぞ」
「へ?」
「ですから、どうぞ?」
「いや、しかし!」
「両腕を骨折されていたら食器が持てませんでしょう? さ、遠慮なさらず」
ズイっとスプーンを口元へ寄せるがファイサルは目を泳がせているだけで、ちっとも口を開けてくれない。心なしか頬も赤いように見える。
(でも両腕を骨折した旦那様のお手伝いといえば「あーん」は当然だよね? 孤児院では体調の悪い子に私が「あーん」をすると嬉しそうに口を開けてくれるのになぁ)
そう考えてソフィーヤはキョトンと首を傾げた。
今朝のスープは料理長が夕食を摂っていないファイサルの身体を考慮したシンプルなコンソメスープである。その美味しそうな湯気が立つスープ皿とスプーン、そしてファイサルの戸惑った表情を見て、ソフィーヤはハッと気が付いた。
「あ……冷まさない方が良かったですよね!?」
「へ?」
「すみません。結構熱そうでしたので冷ましてみたのですが……私が息を吹きかけたスープなんて飲みたくないですよね。このスープは私が飲みますから、私の分のスープを飲んでください」
「いや……」
慌ててソフィーヤがスープを交換しようと立ち上がると、執事が彼女の前に立ちはだかった。
(え? この執事さん、さっきまで壁際にいなかった? いつの間にここまで来たの?)
瞳を瞬かせるソフィーヤに、執事がにっこりと微笑む。
「奥様、旦那様はそのスープが飲みたいそうですよ」
「え? でも……」
逡巡するソフィーヤにファイサルの焦ったような声がかかる。
「そ、そのスープがいいです! 交換は不要です!」
勢いよくそう告げてきたファイサルの顔が何故か真っ赤で、ソフィーヤは困惑する。
「旦那様? お顔が真っ赤ですけど大丈夫ですか?」
ソフィーヤが心配そうに訊ねるとファイサルはコクコクと頷いておずおずと口を開いた。照れたようなその顔があまりに眼福過ぎてスプーンを落としてしまいそうになる。それを防ぐために全神経を右手に集中させると、ソフィーヤはファイサルへ「あーん」を開始したのだった。
ファイサルはすらっとした体型の割にはたくさん食べた。そして食べるスピードもとても速かった。
突然の「あーん」に最初はぎこちなく食べていたようだが徐々にいつものペースになったらしく、ソフィーヤは見惚れる暇もなくせっせせっせと料理を口へ運んでゆく。並んだ朝食のお皿が次々と空になってゆくのが何故だかとても楽しかった。
用意された朝食の最後の一口を口に含み、あっという間に飲みこんだファイサルをソフィーヤが満足気に見つめていると、侍女がいい香りの食後のお茶を運んできてくれる。しかしまだ少し熱そうな気がしてファイサルに確認してみることにした。
「まだ少し熱いようですけれど、このままお飲みになりますか? それとも少し待ってからにしますか?」
ソフィーヤの問いかけにファイサルは「そうですね……」と少し考え、それからはっとしたようにテーブルを見つめた。
「私のお茶より、貴女がまだ朝食を食べていないではありませんか」
ファイサルが慌てたように視線を送る先をソフィーヤも目で追うと、テーブルの反対側には手つかずの食事が並んでいる。
「あ……そうですね。忘れていました。でも旦那様のお茶のお手伝いをしてから、ゆっくりいただきますから大丈夫ですよ」
「……私のお茶はいいですから早く食べ……いや、冷めてしまったので、新しいものと取り換えたほうがいいですね」
ファイサルの言葉に、執事と侍女がソフィーヤのお皿を下げようとするのを慌てて阻止するために立ち上がる。料理長が折角作ってくれた料理を下げるなんて申し訳ないし何より勿体ないとソフィーヤは思った。
「いいです! いいです! 私、猫舌なので少し冷めている位がちょうどいいですし、料理長のお料理は冷めても抜群に美味しいですから問題ないです!」
「しかし」
「それに旦那様は食べるのが早いので、そんなに冷めてないですよ? スープなんてきっと飲み頃です! 私はこれが食べたいです! 取り換え不要です!」
ソフィーヤの勢いにファイサルは一瞬眉を寄せたが軽く溜息を吐くと、片付けようとしたままこちらを窺う執事と侍女に無言で首を横に振った。
「それではお茶が冷めるまでの間、私は貴女が食べる所を見学させてもらいますね」
「え?」
ふわりと微笑んだファイサルの笑顔は有無を言わせない圧力がある。その抗えない笑顔の圧に、ソフィーヤはこれもイケメン補正なのかと身悶え、諦めた。
ともかくも記憶の奥底にあるテーブルマナーを引っ張り出しながら、ソフィーヤの緊張の朝食の時間は過ぎて行った。ちなみにスープもメイン料理も猫舌のソフィーヤにはちょうど食べごろの温度だった。