忘れた頃に事件は起こる①
時は瞬く間に過ぎて行った。
初夜に言われたことを真に受けたソフィーヤと、それを払拭できないヘタレのファイサルは、時たま館で擦れ違っても挨拶をする程度の、正に絵に描いたような仮面夫婦生活を送っていた。
しかしソフィーヤはそのことを全く悲観していなかった。
来るべき離婚に向けて、ソフィーヤは伯爵家の侍女達を観察するだけではなく、仕事を手伝わせてもらうようになっていた。ただ伯爵家で用意された着なれない高級ドレスで掃除等をするのは憚られ、お仕着せを懇願した際、侍女に絶句されたのは今ではいい思い出だ。
厨房にも通いつめ料理長に安価で簡単に作れる料理のレシピを教えてもらったりもした。伯爵夫人が覚えるのは不要であろうレシピを聞いてくるソフィーヤを、最初は怪訝な顔で警戒していた料理長とも今では随分仲良くなっているし、庭師のロム爺とは一緒に庭いじりをする仲である。
初夜にとんでもないことを言われた記憶は忘却の彼方へ消え去り、ソフィーヤは伯爵家での生活を大いに満喫していた。
こうしてソフィーヤが充実した日々を送る中、約束の一年まであと三ヶ月を切ったときに事件は起こる。
その日、カラリと晴れた天気に侍女たちとシーツの洗濯を終えたソフィーヤは、濡れてしまったお仕着せから着替え昼食を済ませると、図書室で本を読んでいた。
ここターラ伯爵家の図書室には膨大な量の蔵書があり、自由に出入りしていいと許可をもらったソフィーヤは街の図書館へ行く必要がなくなり、家事を手伝っていない時は専らそこに籠っていた。
食事もきちんと提供されるので最近は街で買い食いもしなくなっていたし、孤児院を訪問した帰りに侍女達へ流行りのお菓子をお土産で買う位しかお金を使わなかったので、ターラ伯爵家には本当に感謝していた。
なにしろこれから一人で生きていくために、お金はいくらあっても困らない。
母親が残してくれた宝石はリース男爵家にいる間にだいぶ換金してしまい残り少なくなっていたが、この分なら離婚して職を見つけるまでの生活費程度は十分に残っていると試算していた。
そんなふうにソフィーヤが読書の合間に離婚後の生活設計を立てていたところに、伯爵家が付けてくれた自分付の侍女のサリーが血相を変えて図書室へ飛び込んできたのである。
「奥様! た、大変です! 旦那様が!」
いつも淑やかに佇むサリーの酷く慌てた様子に、ソフィーヤは目を丸くした。
側に控えていたもう一人の侍女のマリアは、サリーの侍女らしくない言動に咎めるような視線を送っていたが、ソフィーヤはゆっくりと首を傾げた。
「旦那様?(って誰だっけ? ………………あっ!)だ、旦那様がどうかされたの?」
(危ない! 旦那様の存在をすっかり忘れていた!)
優しい伯爵家の使用人達に感謝はしていたが、この家の当主の存在をソフィーヤはすっかり失念していた。思わずカッコ内の言葉を口に出してしまいそうになり慌てて呑み込む。
(いけない、いけない。時々挨拶するイケメンっていう認識しかなかった。旦那様のおかげで今の充実した生活が成り立っているんだから、忘れちゃダメだよね)
ソフィーヤがファイサルのことを忘れていたことは、どうやら侍女達には気づかれなかったらしく、サリーはソフィーヤの前までやって来ると青い顔で捲し立てた。
「旦那様が騎士団の訓練中に大怪我をされて、こちらへ運ばれてきました!」
「えっ?」
「お医者様が奥様をお呼びするようにとのことです!」
「わ、わかりました。すぐに参ります!」
ソフィーヤはついさっきまで存在を忘れていたファイサルに、心の中で謝りながら彼の寝室へ向かう。
自分がこうやって衣食住の憂いなく生活できているのは彼が働いてくれているからなのに、自分は存在すら忘れていたなんて申し訳なさすぎると猛省しまくっていた。
お飾りだとしても、たった一年だとしても、ここで妻らしい振る舞いをしなければ申し訳が立たないと可及的速やかに移動する。
ソフィーヤが逸る気持ちを抑えてファイサルの寝室へ入室すると、そこには両腕に包帯を巻いてベッドへ横たわっているこの家の主がいた。
打撲の青紫色の跡が無数に残る青白い顔には無造作に紫水晶色の髪がかかり、鮮やかな紅玉の瞳は瞼に閉ざされて見ることができない。
微動だにせず横たわる変わり果てたファイサルの姿に、ソフィーヤの脳裏に母が亡くなった日のことが重なって、足元がグラグラと回っているような感覚に陥る。
主人の異変に気が付いたマリアが咄嗟に後ろから支えてくれたので転倒は免れたが、ソフィーヤは酷い眩暈に襲われた。
けれどもどうにか気合いを入れてファイサルへ近づき表情を確認すると、彼の傍らに控えていた医者へ不安な視線を投げかけた。
「あの……旦那様はご無事なのでしょうか?」
震える声で質問したソフィーヤに、医者と側に控えていた執事が驚いたように目を合わせる。その様子にソフィーヤはますます不安になっていく。
「そんなに、そんなに重傷なのですか!? まさかこのまま……」
泣きそうになる彼女に医者は目を丸くすると、にっこりと微笑んだ。
「こんなに心配してくださる奥様がいて、ターラ伯爵は幸せ者ですね」
「へ?」
医者の言葉にソフィーヤは間の抜けた返事を返す。
そこへ執事が苦笑しながらソフィーヤに声をかけてきた。
「奥様、旦那様は確かに両腕骨折の重傷ですが重体ではありませんよ」
「え? でも」
執事の言葉にソフィーヤはファイサルの方を振り返る。
相変わらず死人のような顔色で瞳も固く閉じたままのファイサルに、不安げに医者の方を見ると、昔からこの伯爵家の主治医をしているという壮年の医師は穏やかに微笑んだ。
「今は薬で眠ってもらっています。顔色が悪いのは軽い脳震盪をおこしているだけですので心配ありませんよ」
「薬で?」
「はい。両腕を骨折されてもご自分で事故処理をしようとなさったので、騎士団の方で無理やり睡眠薬を飲ませたそうです」
「はぁ……」
「両腕が使いものにならないので暫く仕事も休んでよいと連絡を受けております。この機会に旦那様にはゆっくり療養していただきましょう」
医者と笑みを交わしながら言った執事の言葉にソフィーヤは安堵の溜息を吐くと、これまでの衣食住の恩を返すためファイサルの看病をする決心をする。
大怪我をしたのに働こうとしたファイサルに、どんだけ仕事人間なんだと少し呆れてはいたが、存在を忘れていた罪悪感も手伝って、彼が出来るだけ快適に過ごせるように頑張ってみようと思ったのだった。