残念伯爵の奮起、或いはカミングアウト①
絶体絶命のピンチにソフィーヤは目を瞑り、髪留めを強く握りしめる。
しかし引き寄せられた身体は優しく抱き締められ、小さく聞こえた掠れた声はソフィーヤが思ってもみない人物の声だった。
「やっと……見つけた……」
「え? 旦那様?」
声の主に驚いたソフィーヤが瞼を開けると、泣き出しそうな顔でこちらを見つめる紅玉の瞳と目があった。
「そうだ、私はソフィの旦那様だ」
「あっ、すみません。もう旦那様ではないですね。離婚したんですものね」
怒ったようなファイサルの言葉にソフィーヤは慌てて謝罪する。しかしファイサルは更に泣きそうに顔を歪めると力いっぱい否定した。
「離婚などしていない!」
「え? あ! 申し訳ありません! 離婚届、ちゃんと解るように置いたつもりだったのですが、解りづらかったですかね? お約束通り、ちゃんと記入してから出て行ったんですけど、とんだお手間をとらせてしまって。なんなら今すぐ書きますから離してくだ……」
「離さない!」
「ですが、そうしないと記入ができませ……」
離婚届に何か不備があったせいで怒らせてしまったのかとソフィーヤが焦るが、ファイサルはソフィーヤの言葉を遮ると、また一層泣きそうな顔になる。
これは相当怒らせてしまったようだと口を開いたソフィーヤの手を掴んだまま、ファイサルは流れるように土下座をきめた。
「しなくていい! 初夜の暴言は許してくれ! ソフィと結婚できて浮かれて心にもないことを言ってしまったんだ! ソフィ以外を愛する気なんてないから、ずっと妻として伯爵家にいて欲しくて、でも婚約から結婚まで期間が短かったから一年位かけて私を好きになってもらいたくて、それでもどうしても嫌なら離婚しても構わないって言おうと思ってたのに、緊張して上手く伝えられなかった」
ソフィーヤを掴んだ手を離さないまま華麗に土下座をしたファイサルに、ソフィーヤは頭がパニックで追いつかない。
(伯爵様が土下座? イケメンが土下座? どっちで驚けばいいの? え? これどういう状況? しかも旦那様が何を仰っているのか理解が追い付かない)
完全にキャパオーバーであり思考の停止したソフィーヤだったが、とりあえず、ずっと気になっていた事を訊ねることにする。
「でもエミリア様は?」
「エミリア? あの後すぐに修道院へ行ったが?」
何でそんなことを聞く? と不思議そうにするファイサルにソフィーヤの頭は益々混乱する。
「え? だって一緒に暮らすと仰っていたではありませんか?」
「あの女はソフィと離婚しろとかほざきやがったから監禁しただけだ。すぐにエミリアの実家の伯爵家と結婚相手である公爵家に連絡し翌日には、この国で一番厳しい修道院へ入れてやった。もちろん逃げださないための監視付きだ」
「そ、そうだったのですか。私はてっきりエミリア様と寄りを戻すために私が邪魔になったのだとばかり思っていました」
呆けたような表情をするソフィーヤにファイサルは苦虫を潰したような顔で吐き出す。
「何故、そうなる……。あんな最低女と婚約解消できた時は小躍りするほど喜んだのに。ましてやソフィを邪魔に思ったことなど一度だってないのに」
「小躍りですか? 旦那様が小躍り……? でもエミリア様をお好きだったのでしょう? とても可愛いらしい方……ですものね」
美少女エミリアの勝ち誇ったような顔が脳裏に映し出され、ソフィーヤは内頬を噛む。ハニーブロンドの輝く髪がチラチラと瞼に浮かんで、視界に入った自身のモスグリーンの地味な髪から視線を逸らす。
そんなソフィーヤにファイサルがキョトンとした顔で首を傾げた。
「可愛いのはソフィの方だ。エミリアが可愛い? あの女が可愛いなどと思ったことはこれっぽっちもない。可愛いかと問われたら適当に相槌をしていた覚えはあるが、そうしないとヒステリックに騒ぐからそうしていただけだ。だがソフィになら何度だって言う。いなくなって死ぬほど後悔したから、ちゃんと伝える! 可愛い! ソフィは可愛い。可愛過ぎて食べたい。食べたい位可愛い。何でこんなに可愛い? 可愛過ぎて頭がおかしくなりそうな程可愛い。ソフィは誰よりも何よりも可愛い!」
壊れたおもちゃのように可愛いを繰り返すファイサルに、ソフィーヤの顔が真っ赤に染まる。
「わ、私のことを、か、可愛いと言って欲しかったわけではなく! い、いえ、言ってくださるのは嬉しいのですが……言われ慣れていないので、どういった反応をしたらいいのか……! そもそも地味な私如きにイケメンがそんなことを言うのは酷と言いますか、傍から見たら滑稽に思われるというか……。そ、そういえば今気がつきましたけど、旦那様の口調がだいぶ砕けていますが、もしかして酔ってます? だから可愛いを大安売りしちゃったんですか?」
しどろもどろに視線をあちこちに彷徨わせながら発したソフィーヤの言葉に、ファイサルはムッとすると形のいい口を尖らせた。
「酔ってない! 私はシラフだ。ソフィが可愛いのは事実だし、私の話し方は実はこっちが素だ。ソフィと話すときだけは怖がられないように丁寧に話していたのが、ぶっ飛んだだけだ」
「わ、私だけ? ではエミリア様に砕けた口調になったのは……」
「あんなバカ女に敬語を使ってやる義理はない」
冷たく言い放ったファイサルの言葉にソフィーヤは脱力する。
「私は自分にだけ敬語で話す旦那様に除け者にされた気がしていました。お飾りの妻だから親しくしてくれないのだとばかり……」
「くそっ! 何で私の言動は全て裏目に出るんだ……!」
頭を抱えたファイサルは地面に額を打ち付ける。「美の損失です!」と悲鳴を上げたソフィーヤが止めさせると、ファイサルは額から血を流しながら上目遣いで見上げる。
「ソフィが怖がらないなら、これからはこの話し方にする。これなら言い間違いもない、と思う」
「そんなことより傷の手当てを……痕が残ったら悔やんでも悔やみきれません!」
額の傷をハンカチで押さえてくれたソフィーヤを恍惚の表情で見上げたファイサルは、嬉々として笑顔を向けた。
「それからソフィにあーだこーだ、余計なことをしゃべっていった叔父達だが男爵位を取り上げて断罪し、鉱山の強制労働施設送りにしてやったから、もう心配ない」
「へ?」(もう心配ないって何が? 断罪? 強制労働? え?)
いきなり怖い話をぶっこんできたファイサルにソフィーヤは目が点になる。
そんなソフィーヤのモスグリーンの髪を撫でながらファイサルは肩を竦めた。
「もうずっと前に引退したロム爺が久しぶりに怒髪天でな。料理長と一緒にリムーダ男爵邸から不正の証拠を片っ端から持ってきて俺を脅しやがった。ソフィを傷つけた奴らを直ちに粛清しなければ、伯爵家の秘密も暴露するとかぬかしてたな」
「え? ロム爺が? 料理長? 不正の証拠? どうやって?」
ソフィーヤが思わず疑問を並べ立てると、ファイサルは黒い笑顔をみせた。
「ああ、言ってなかったか? ロム爺はターラ伯爵家の前密偵隊長だ。ちなみに今の密偵隊長は料理長な。うちの使用人達は不審な客が来た場合は、すぐにこの二人に知らせることになっている」
「え? えええええっ!!!??」
さらりと、とんでもないことを口走ったファイサルにソフィーヤは素っ頓狂な悲鳴をあげる。
ロム爺は草花が大好き過ぎる庭師、料理長は神の手を持つ料理の鉄人、そんな二人に裏の顔があったなんて思いもしなかった。だがそういえばリムーダ男爵が来訪した時、サリーがどこかへ走ってゆく姿を見た気がする。ファイサルの言葉通りなら、あれはロム爺達に知らせに行っていたということになる。そしてあの日の夕食の味付けは何だかいつもと違うような気がした。それをソフィーヤは自分の気持ちが揺らいでいたせいだと思っていたが……。
鳩が前鉄砲を食らったような表情になるソフィーヤにファイサルが忌々し気に眉を寄せた。
「私が留守の間に来た叔父達の心ない言葉にソフィは傷ついたんだろう? 前々から小賢しくて嫌な叔父だったが一応父の弟だから大目にみていたんだ。だがソフィを傷つけたとなると話は別だ。ロム爺や料理長に言われずとも即日断罪してやった」
「ふ、不正とか密偵とか、それは私に言ってはいけないことでは⁉︎」
「ソフィは私の妻で、ターラ伯爵夫人だから何も問題ないだろう?」
「いや、問題大ありです! 私は離婚する身なんですよ!?」
あまりの秘匿過ぎる内容に流石に声を張り上げたソフィーヤに、ファイサルは紅玉の瞳を零れ落ちんばかりの勢いで見開くと、ワナワナと唇を震えさせる。
ファイサルは再会してからの説明で、すっかりソフィーヤの誤解を解いたつもりだった。しかし、ソフィーヤの方はあまりに豹変したファイサルの言動と衝撃の暴露に脳が処理を停止していたのである。
食い違う二人の会話と、再び俎上にあげられた離婚危機に……ファイサルは絶叫した。




