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08 兄と妹



  3月17日 火曜日

 勤務が終わり帰宅した徳田佳美は、兄より先に帰宅した事もあり、当たり前のように二人分の夕飯の支度を始める。

 アジフライにタルタルソース、ご飯に味噌汁が付いたこの定食は一弥の大好物。週に一度くらいは好きな物作ってあげなきゃねと、エプロン姿に袖をまくり気合い充分。下ごしらえを全て済ませて兄の帰宅を待つ。


 普段ならだいたい夕方六時過ぎに帰宅するのだが、今日に限って様子がおかしい。七時を過ぎても帰って来ないし、何の音沙汰も無いまま時間はいよいよ八時を迎えようとしているのだ。


「ふひひ、やっとあの兄にも貰い手が出来たのかな? 」


 コタツに入って妄想を膨らます佳美。

 これまで色恋沙汰に縁の無かった兄にも、やっと春の季節が来たかと喜ぶのだが、「義理の妹」の妄想も盛大に鳴る腹の虫でしぼんでしまった。


「メールくらい寄越せば良いのに……」


 頬を膨らませて鼻息を荒く吐き出す。

 テレビを付けるもロクな番組がやっておらず、いよいよ佳美は退屈と空腹に屈服してしまう。妹に配慮を示さない冷たい兄に対し、クレーム電話の一本でも入れてやろうとスマートフォンを握ったのだ。

 時間は八時ちょっと過ぎ、佳美の忍耐の限界に呼応したのか、タイミング良く一弥が帰宅して来た。


「お〜い佳美! ちょっと手伝ってくれ」


 玄関から妹を呼ぶ声がする。

 遅くなって悪かったとも言わずあっけらかんと自分を呼び付ける兄にため息を吐きながら、まったく何事かと立ち上がり玄関に向かった途端、佳美はアゴが外れそうな勢いで大口を開けて呆ける。

 そこにはホームパーティーでも開くのかとツッコミたくなるほどの、大量の買い物袋に囲まれた兄の姿があったからだ。


「ちょっと居間に運ぶの手伝ってくれ」


 見れば缶詰めに乾物にウエットティッシュにトイレットペーパーがぎっしり詰められた袋がいくつも玄関の床に置かれている。当然、兄と妹だけの質素な生活には余計だとも言って良い、過剰な買い物だ。


「……お兄ちゃん、どうしたのこれ? 」


 ポカンと佇む佳美を横目に、一弥はもう一度車庫にとって帰り、またまた買い物袋を持って来た。


 ーー怪しまれないように何件か回っちゃったよ。 と一弥は苦笑いで済ますのだが、佳美も馬鹿ではない。生活必需品と日持ちのする保存食しか入っていない買い物袋を見て、兄の行動を察したのである。


 秘密主義の兄ではない事から、しっかりと自分に話してくれる事は間違いない。ならば今は時間も遅くなって来たからと、荷物を居間に運び込んで夕飯の支度を始めたのであった。


 徳田一弥の方針、ゾンビに対しての行動方針は逃げ隠れすると言う内容で日記に書かれていたが、自分や家族に対してはどう行動するかと言う内容の片鱗が、この買い物に現れていたのである。


籠城(ろうじょう)する、とにかく家に閉じこもり全てが過ぎ去るまで待つ】


 ロメロ三部作の「ドーン・オブ・ザ・デッド」で描かれていた光景が目に焼き付いて忘れられない。

 国が推奨する施設へ避難するようにと、様々な公共施設の名前がテロップとして、テレビ画面上を延々と繰り返し流れ続けるのだが、番組スタッフがぽつりと言うのだーーこの情報に価値は無い、そこはもうゾンビで溢れてるぞ と


 だから一弥は自分と言う最小単位を守り抜く事を優先して、自宅籠城の道を選んだのである。

 そして、可愛い妹を自宅籠城に巻き込み不安に押し潰すよりも、ゾンビの不安を払拭しつつ目的意識をもった生活を送れるようにと、彼女の今後も真剣に考え答えを導き出したのだ。


 兄妹のささやかで豪華な夕飯のひととき、それは一弥からのお願いとして発せられた。


「佳美、まだ有休消化が残ってるんだろ? 」

「うん、早く取れって言われてたけど結局五日まるまる残ってる」

「それならば、兄ちゃんから提案があるんだ。お前のために考え抜いた提案だから、聞くだけ聞いて考えてくれないか」


 一弥は箸を置いて真剣に佳美を見詰める。

 ゾンビウィルスに世界が右往左往している中で、いつかこんな日が来るのではと佳美も片隅に感じていた節がある。だから四の五の言わずに箸を置いて兄を見詰めた。


「明日病院に出勤したら、有休五日の取得の申請をするのと一緒に、辞表を出すんだ」


 佳美はあまり驚かなかった。

 顔色を変えず冷静に兄の話を聞く様は、逆に一弥を驚かせるほどである。


「人生は長い、今ここで立ち止まってもやり直しがきく。仕事に対するプライドもあるだろうが、俺の極めて独善的な意見を通す。佳美には生きていて欲しいんだ」


 ーー金は俺が出す。まだ買い占め騒動も起きていない今がチャンスだから、とにかく買うだけ買っていざと言う時に備えるんだ。

 そして佳美、俺も手伝うだけ手伝うから、荷物を持ってオヤジたちの住む野沢温泉村に行け。あそこは国道につながる道が二本しかない隠れ里だから、外からの脅威に耐えて生き残れる可能性が高いはず。

 俺はこの家が気に入ってるし、この家を全力で守る。だから佳美はオヤジたちを守って貰いたいんだ。


 佳美は黙ったまま一弥の提案に耳を傾けている。即答を避けているのではなく、ましてや異論を挟もうともしない。……彼女は溢れる感情を押し殺す事に必死だった。そして我慢出来ずにサラサラと涙をこぼし始めたのだ。

 佳美は佳美で、漠然としながらも圧倒的に迫って来る死の恐怖を前に、健気にも平静を装いながら今を生きていたのだ。つまり彼女もパンク寸前だったのである。


「心配するな、兄ちゃんに任せろ。このゾンビ騒動が収まったら、いくらでも就職口は探してやる、俺は顔が広いからな。もし佳美が望むのなら、イケメンの旦那さんだって紹介してやる。とにかく、今は我慢なんだ」


 その言葉にどれだけ説得力があったかは分からない。

 ゾンビ騒動は収まるどころか、いよいよ頂点にたどり着いたジェットコースターのような状況であり、その先には絶望しか見えていない。

 だが佳美は兄の言葉に声を出して泣いた。二十も半ばの歳ではあるが、この時だけは転んで膝を擦りむいた少女のように、泣いて兄にすがったのである。



  同日 3月17日 火曜日 21時

 場所は関東圏のとあるライブハウス。

 立ち見客の若者がひしめき合うそこは、『ゾンビウィルスなんて吹っ飛ばせ! ニールセン仲村のトークイベント』が最高潮を迎えていた。


 元々政治的な発言を繰り返す異色のコメディアンとして売り出していた彼は、世界が大混乱に陥っている今この時だからこそと、更に社会に切り込み舌鋒鋭く唾を飛ばしていた。


「政府が非常事態宣言を出さないのは、政府が進めた経済発展政策に泥を塗るからだ。自分の名誉を守ろうとして非常事態宣言を出さないのは国民無視だ!」

「意識高い系バンドの新曲聞いてください。クラスターがオーバーシュートでロックダウンでノックアウト!なんてね」

「自営業やイベント会社に自粛要請なんか出してるけど、命令にしないのは補償を請求される事から逃げる卑怯なやり方だ! 自粛要請の時点で補償しろ! 」


 ……それはもう、政府の事が嫌いで嫌いでしょうがないのだが、それを飛び越えて政府に執着する、憎さ余って可愛さ百倍の有り様。イヤよイヤよも好きの内の状態。

 イベント自粛や飲食店自主閉店でストレスの溜まった若者たちは、そんなジレンマの塊のような芸人の吠える様を、歓声を上げながら楽しんでいた。


 しかし、イベントも終了に差し掛かった頃、会場に異変が走る。

 椅子とテーブルを片付けて全て立ち見になっていたこのライブハウス、肩を寄せ合う観客のド真ん中で複数人の悲鳴が天井に轟いたのだ。


 一体何が起きたのかと、騒然とする会場。観客たちは悲鳴の方向から後ずさるように輪となって広がるのだが、そのポカンと空いた輪の中心を見て驚愕する。


 何と、若い男性が激しく血を嘔吐して、その場で倒れていたのである。

 そして、その若い男性の前に立っていたのか、三人の女性が頭から血しぶきを浴びて、茫然自失のままゆらゆらと立ち尽くしていたのだ。


 ゾンビウィルス……感染すればたちどころに体調を崩して重篤状態に陥り、心停止しようが危篤であろうが死亡していようが立ち上がり、原始本能のままに人々を襲う。その感染者がライブハウスのイベントに参加していたのである。

 もちろんイベントは即時中止なのだが、イベント主催者側がわざわざそんな案内放送をする事も無かった。観客たちは悲鳴を上げながら我先にとライブハウスから逃げ出したのだから……




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