11 泣き笑い
5月15日 金曜日
一弥は日の出とともに目が覚める。
目覚まし時計のいらない、誰にも何にも束縛されない自由の生活、自分のためだけの一日が始まる。
時計を見れば朝の五時。
手回し充電器やソーラー電池などのライトもあるのだが、日没後わざわざライトを付けてやる事も無いため、結果として一弥の生活のサイクルは日の出で始まり日没とともに終えるようになっていた。
通信インフラも崩壊したのか、スマートフォンは画面左上に圏外のマークを表示し、ネットは一切繋がっていない。しかしスマートフォンを捨てられないのは、遮断直前まで送って来てくれた妹や両親の写真があるからだ。
非常用ライトにも使えるのだが、今は過去を懐かしむためのツール。テーブルの上に置かれたフォトスタンドになっていた。
「……臭いな……」
顔をしかめながらベッドから起き上がり、二階の廊下に出る。廊下の奥には大きなビニール袋が一つ。缶詰の空き缶などがぎっしりと詰まったゴミ袋だ。
臭いの原因がこのゴミ袋である事は何日か前から分かっていたが、どこに捨てようか悩んだまま、結果我慢出来なくなるまで放置していたのである。
一弥の家長野市を囲む山々のふもと、市街地の北側にあるなだらかな丘の中腹に建てられた古い家で、ほぼ一年中日本海から山を伝って流れて来る吹き下ろしの風下に位置している。
つまり上空の空気はある程度信用出来る新鮮な空気。大気中にゾンビウィルスは飛散すると言われているが、大気成分よりも重いのでやがて低いところに流れて行くと言う意見もあり、二階の窓は開けっぱなしでも大丈夫なのだが、五月に入って陽気が穏やかになって来てから、新たな問題に直面したのだ。
今まで無造作に庭に捨てていたゴミに、虫が寄り付き始めたのである。
風があるからウィルス感染の危険は低い、そして田舎なのでゾンビもそうそう寄り付かない。
しかし虫は別。ハエや蚊など伝染病を媒介する害虫の天国になってしまえば、せっかく知恵を絞ったサバイバルも津波を前にした砂の城と同じになってしまうのだ。
「ここまで来たらめんどくさい、今までのは穴を掘って埋めよう。これから出るゴミは綺麗に洗って捨てよう」
大量に買い込んだ殺虫剤に頼る事も出来るが、殺虫剤でも臭いは消せない……。今日の仕事として、一弥は自宅の庭を掘ってゴミの処分を行おうと決めた。
廊下のゴミ袋の口を縛り、二階の窓から庭に放り投げる。
頑丈な塀で囲まれた一弥の家は、門扉もしっかりチェーンでロックされているので、いわゆる外部の侵入を許さない要塞なっている。
そして一弥の家の周りはリンゴ畑が広がり、長野の市街地を臨む方向五十メートルほどに、やっと隣家の姿がある。それが市街地に接する団地の北端だ。
二階のベランダに上がり、その景色をぼんやりと眺めながら、小さなバーベキューコンロに火を付ける。ここが一弥の火を使う時の調理場だ。
着火剤から木炭の細い枝に火が移ると、時間を置いて木炭本体が柔らかな赤みを帯びて来る。
水を入れたヤカンとフライパンを網の上に置き、コンビーフと昨日のご飯パックの残りを炒めて朝食の出来上がり。
インスタントコーヒーとコンビーフチャーハン、ささやかな一弥の朝食である。
ベランダから二階の自室にあるテーブルの上にそれらを置き、何ら感慨の無い無表情さでモソモソ食べ始めた。
スズメの鳴き声だけが響く静かな朝
ベランダに上がって市街地を見回したとき、ところどころに黒い煙が上空に立ち昇っている事から、今もまだ生きている人たちがいるのかもとは思う。
だが自分が出来る事は自分を守る事で精一杯であるのも知っている。見捨てるのかと問われれば、自分の命を引き換えに他人の命を守ることは出来ないと答えるしかない。
気持ちの中でそういう葛藤が繰り返されて来たのか、サバイバルが始まってから一弥の表情から笑顔は消えた。ーー心を閉ざして無反応と無関心を決め込むしかなかったのだ。
ブウウウン……トコトコトコ……ブウウウン!
食事も終わり、インスタントコーヒー最後の一口を飲み干そうとした時だった。
どこからともなく軽バイクの音が聞こえて来た。
朝の澄み切った空気の中で響いたそれは、間違い無く人間の作った機械の音。自然のものでも幻聴でもない。
ハッとした一弥はコーヒーをそのままにベランダに駆け出し、柵から身を乗り出して辺りを伺う。
もちろん周囲はリンゴ畑なのだが、下の団地の方からやはり音は聞こえて来ている。
「……これは? 」
……ブウウウン……トコトコトコ……ブウウウン……
ちょっとだけエンジンをふかして走り出すのだが、すぐ停止してアイドリングの状態に。そしてまたエンジンをふかして走り出してはすぐに停止する。
このバイクのエンジンのパターンは一弥が聴き慣れている音。新聞か郵便か、何かを個別配達している最中の音である事に気付いたのである。
「来た! 」
団地最北端のご近所さん宅からリンゴ畑を突っ切る道に現れたのは赤いバイク。誰がどう見ても郵便配達員が乗るバイクであり、郵便配達員らしき制服を着た人物が運転していたのだ。
ブロロロ……キュッ!
一弥の門扉の前でバイクが停止する音。
しかしベランダから眺める一弥からは、塀が邪魔でその正体が掴めない。
おおい、おおい! と一弥は大声で叫ぶ。
知り合いでもないだろうが、サバイバル生活を始めてから初めて合う人間だ。孤独と闘いながら日々の生活を過ごして来たからこそ、人と接する奇跡に声を上げたのかも知れない。
そして、そんな一弥の気持ちは届いた。
郵便配達員は徳田宅のポストに何かを投函した後、声に気付いて門扉の格子から中を覗いたのだ。
「おおい、おおい! 」
「おや、おやおやおや! 」
目が合ったのは見も知らぬ中年男性。
彼もしばらく人と顔を合わせていなかったのか、ひどく懐かしげな目で笑っている。
国はどうなったのか、街はどうなったのか? そしてあんたは何故今頃郵便配達なんかやってるのか?
色々聞きたい事があったのだが、それを一弥が口にする事は無かった。
郵便配達の中年男性は一瞬悲しげな表情をするも力一杯の笑顔でそれをかき消し、大声を一つ上げて走り去ってしまったからだ。
「あんちゃんも生きてたか。ハハハ! 街はゾンビだらけだけど、あんちゃんなら大丈夫だ。頑張って生き延びろな! 」
呆気に取られる一弥
バイクの音はどんどんと小さくなり、やがてスズメのさえずりにとって変わってしまう。
ーーやり残して気になってたのかな?
一弥がふと脳裏に浮かべたその疑問は、とても幅広い結末が待っている。
だがそれらの結末を連想する事無く、一弥はハシゴを地上に下ろして庭に立つ。配達物が何なのかことのほか気になっていたのだ。
ポストの裏の箱を開けてそるを取り出す。
普通の封筒よりも一回り大きく、そして柔らかな厚みのある封筒。
宛先は間違い無く徳田一弥で、送り主は何と政府だ。
不審に思いながらビリビリと封を破り、中身を取り出した。
「こ、これは……マスク三個」
中には政府からの手紙も入っていたのだが、それに目を通す事も無く片手でクシャクシャに丸めてその場に捨てる。
手紙の文言よりも何よりも、一弥には今更のマスク登場が衝撃的過ぎて凝視し続けていたのだ。
多分もっと前に配布はされていたのだろう。郵便配達網が先に崩壊して今まで配れなかったとも考えられる。
「それにしてもまあ、何とも律儀な事で」
一弥の肩が小刻みに揺れる。そして我慢出来なかったのか腹筋の揺れは肺に圧力を与え、やがて気道を通じて口から飛び出す。
……は、はは……あはははは! あはははは、あ〜っははははは!……
乾いた笑い
皮肉たっぷりのいやらしい笑いだが、サバイバル生活を始めてから、初めて腹の底から絞り上げだ笑いだ。
……あ〜っはっはっはっ!……ひい、ひい、ひい……あは、あはははは!……
笑い過ぎて肺の空気が足りなくなったのか、一度息を整えて再び笑い出す。
しかし、先程の乾いた笑いとはちょっと違う音色の笑い。半音下げた湿っぽい笑いに変化している。
一弥は泣きながら笑っていた
泣き笑いなのか、笑い泣きなのかは分からないが、笑いと涙が間違いなく混じっていた。
腹が立ちながらもそれでも可笑しく、悲しくもあり愉快でもあるこのジレンマ
複雑な感情を持つ霊長類「人間」の代表として、最後とも言うべき精一杯のアピールをしていたのかも知れない。
一弥の笑い声はスズメのさえずりを遮りながらも、やがて五月の青空に吸い込まれたまま、しぼんで消え失せて行った。
ダイヤリー・オブ・ザ・エクステンション 絶滅日記
終わり